VIP席の櫓は五人座るときつきつで、最初からはこっちには無理だったな、と思う。 だって五人の内訳にはグレタがいるわけで。は服がかさ張るし。 向こうの櫓ふたつは楽そうだ。ビロンは部下を連れて二人だし、は一人でゆったり と座っている。 の櫓には、赤いビロード張りっぽい椅子が置いてあって、肘掛に両手を置いて悠然 と深く座っている様は、の方が魔王に向いてたりして、とか思わせてくれた。 あれが芝居だっていうのはよくわかってるけどね。 観客席からは、レース前の興奮のざわめきに混じってこちらを指差してひそひそ話を しているのがちらほら見える。おれの方も見ているやつがいるから、やっぱり双黒の 魔族に反応しているに違いない。 コースにケイジが現れると、大きな歓声が起こる。 特に緊張した様子も見せないライアンがおれとを振り仰いで一礼する。 それに応えておれが手を振って、ふとを見るとにっこりと可愛らしく微笑んで頷いて みせていた。 会場でどよめきが起こった。 048.今、この瞬間(2) 「な、なに?双黒効果?」 「と、いうより微笑み効果でしょうね」 コンラッドが苦笑しながらふたつ向こうの櫓を指差した。 「見てください。ビロン氏もに魅了されましたよ」 言われて見てみると、半開きの口で身を乗り出しながら赤面している中年男の姿。 「ちょっと硬質な表情をして現れたでしょう?それを打ち消す柔らかい微笑との落差で、 ちょうどその瞬間を目撃した者はほとんど落ちたみたいです」 「不思議な方ですな」 ぴっかりくんも感心したように顎を撫でながら唸り声を上げる。 「ビロン氏と正面から対決する気丈な方だと思っていれば、先ほどはとても穏やかに 挨拶をされて、今度はたおやかな微笑み。どれが本当のオギン殿なのか……」 ああ、ぴっかりくんがの挨拶に驚いたのは、思ったより穏やかだったからね。 そうか、ぴっかりくんはあの啖呵を切ったお怒りモードのしか知らないんだっけ? 「真ん中の普通の女の子だろ?」 「全部ですよ」 おれのごく真っ当な見解を、コンラッドがにこにこと訂正する。 思わずコンラッドを凝視した。 「全部本物のですよ。気丈だけど穏やかで優しくて繊細で、とても家族思いで 寂しがり屋で、恥ずかしがり屋。全部です」 「………ヴォルフ、ちょっと背中掻いて」 「ぼくが掻いてほしいくらいだ」 「グレタが掻いてあげる」 グレタはなにも気付かずに素直におれとヴォルフラムの背中を掻いてくれる。 「いや、若いとはいいですな、情熱的だ」 そして、まったく動じない大人もいる。 「私と妻の若い頃のようですな。おお、妻といえば、オギン殿には改めて礼を言わね ばと思っていたことが……」 ぴっかりくんがなにか言おうとした時、一際大きな歓声が上がった。 「うおー地獄極楽ゴアラか!」 「あのぶら下がってないときゃ悪魔の地獄極楽ゴアラかよー、こりゃあすげえものを 見せてもらえそうだな!」 あちこちから聞こえる下馬評に、話の途中だがつい入場した珍獣に目が行った。 仏教用語の地獄極楽なのに、悪魔という西洋風な形容のつく動物はどんなのだと 思えば、普通のコアラだった。もちろん大きさは非常識で、砂熊ケイジと同じかそれ 以上はある。 太い幹ごと台車で搬入されてきたが、枝を両腕で抱え込み、目を閉じてうっとりと ぶら下がっている。 「コアラっていうより、ナマケモノのイメージだな。あれのどこが地獄極楽なんだろ?」 「よく見ていると楽しいですよ。いわばジキルとハイドってやつです。始まりますよ」 コンラッドが指差すと、ちょうどスターターが右手を挙げたところだった。 グレタがぐっと身を乗り出して、拳を握り締めている。 娘がギャンブル好きになったらどうしようと心配していたら、そういうことではなかった。 スターターの右手が下りて、ケイジがスタートすると同時にグレタが大声で声援を送る。 「絶対勝ってーー!!がいないとグレタいやだよーっ」 うっ、な、涙が。 「なんていい子なんだろう、グレタ」 感動しながら敵の様子はどうだと見てみれば、まだ枝にぶら下がっている。その幹を、 斧を持った三人の男が懸命に切り倒していた。 一方ケイジは調教師の自信を反映するように、馬並の速度で走行中。 「え、意外と楽勝?」 「いいえ、そういうわけでは」 コンラッドが訂正を入れたとき、鈍い音を立てて幹が折れてゴアラが枝から落ちた。 途端にゴアラの表情が一変する。 見開かれて充血した目、血管の浮きそうな茶色の鼻、鋭い犬歯を剥き出しにして、 雄叫びを上げる。 「ゴアァー!!」 「こ、こわっ!」 スムーズにスタートをきっていたケイジを視界の端に捉えると、ものすごい勢いで走り 出す。まさにゴアラまっしぐら。 「うわっ、はやっ!あ、あんなのに追いつかれたらライアンとケイジ大丈夫なのかな?」 「うーん、地獄極楽ゴアラは肉食獣ですからね」 なんでそんなに冷静なんですか、コンラッドさん? のことには対策を立てているのかもしれないけれど、元部下も心配してやれよ。 走るのが本職なのか、それとも食欲のせいか、ゴアラは涎を撒き散らしながらケイジ との差を確実に詰めている。 「おお追いつかれる!追いつかれるぞ!?しかももう第三コーナー。やっぱり砂じゃ なかったのがまずかったか!?」 思わずコースからに視線を転じる。 は、肘掛に頬杖をついて動じた様子もなくレースを眺めている。…ように見える。 だけどぎゅっと唇を引き締めて、もう一方の肘掛の上に置いた手は、力いっぱいに 木の椅子を握り締めているようだった。 「ああもう!なんでだけ別の場所なんだよ!」 せめて隣にいたら、励ますように手を握ってやることも、大丈夫だって声をかけてやる こともできたのに。 いよいよとなったら、おれを賭けてでもを取り戻す。双黒を金の成る木だと言って いたビロンなら、もうひと勝負受けるに違いない。珍獣に絶対の自信があれば特に。 コンラッドもちらりとの様子を見て、それから宥めるようにおれの肩を叩いた。 「実際に砂だったら、あいつは転げて掘って潜って住んで罠をはっちゃって、レースに なんかなりません。それより、この空き地に特設コースを作ってくれて助かりましたよ。 見てください。ゴール直前に樹齢のいってそうな巨木があるでしょう?」 「ああ、あの枝振りの良さそうな」 「そこがポイント」 ぴっかりくんがオーバーアクションで、驚喜したり落胆したりを繰り返す横で、コンラッド はなぜか余裕の表情。がかかっているのにこの様子なら本当に大丈夫なのかと 思いつつ、それでもおれの不安は膨らむ一方だ。 第四コーナーをほぼ同時に回り、二匹は最後の直線に差し掛かった。ゴアラの鋭い牙 が今にもケイジに届きそう。 「ああーケイジ、危ない!ライアンー!」 土煙ならぬ草煙が辺りに立ち込めて、問題の巨木を通過する辺りで観客は勝負の行方 を見失った。 と、おれたちの目の前のゴールラインに砂熊ケイジが一頭だけ突っ込んでくる。 「え!?」 おれが驚いている間にも、ライアンが愛熊に抱きついて、それから観客の大きな声援に 応えて大きくガッツポーズ。 おれとに手を振っているから、手を振り返しながらゴアラを捜した。もにっこりと 微笑んで手を振っている。 「ゴアラなら、ほら気持ち良さそうにぶら下がってますよ」 言われて少し視線を戻すと、コンラッドが指摘していた巨木から張り出した立派な枝に しがみついて、うっとりと両目を閉じている。 「ゴアラは凶暴な肉食獣ですが、好みの枝を見つけるとぶら下がらずにはいられない んです。それまでどんな状況におかれていても、フェイバリットな樹木に出くわすと我を 忘れてしまうんですよ」 そんな情報は最初に言ってくれ。そしたらこんなにハラハラしなくて済んだのに。 「認められんぞ!」 ふたつ向こうの櫓から、怒りの声が上がる。ルイ・ビロンが握り拳で立ち上がり、振り 回して喚き散らす。 「こんな勝負は認められん!事故で中断されたのだから、レースは無効だ!」 「冗談じゃないよ。アクシデントでも何でもない。あんたの選んだ珍獣がリタイアした だけじゃん」 おれが呆れて指摘したことも聞こえているのかいないのか、たぶん故意に聞き流し たんだろうけれど、隣の部下をどついている。 「もう一頭だ!そうだ、ラバカップ、ラバカップを連れてこい!」 あまりの身勝手におれの怒りが爆発する前に、冷えた声が割り込んだ。 「見苦しい」 そんなに大きな声じゃないのに、はっきりと聞こえた。 が軽蔑を込めて吐き捨てたセリフは、たった一言。 だけど、それだけに妙に胸に刺さりそう。 ビロンは苦手な食材でも口いっぱいに詰め込まれたような表情で、大口を開けたまま 声も出せずにわなわなと震えている。 ヒスクライフが身軽にの櫓に飛び移り、一礼をしてからさらにビロンの櫓に飛び移る。 「ここに昨夜交わした調印書がある!この通り、貴殿は条件に同意された。これ以上 の悪足掻きは自身の名声に傷をつけるばかりだ。大人しく……あっ!」 ビロンはヒスクライフの手から突きつけられた調印書を引っ手繰ると、むしゃむしゃと 食べてしまった。お前はヤギか! 「くそっ……そ、そっちがその気なら、この偽札が目に入らぬかー!」 おれは最後の手段、というか今思い出した偽札をポケットから取り出した。 「見覚えがないとは言わせんぞ!これはあんたのテントから見つけた偽札だ!ほら、 現物が二枚も!表だけ印刷で裏面真っ白!」 なにか色々混じっているけど、これで決まったはずだった。 ところが。 「陛下……」 「ん、なによコンラッド、そんな申し訳なさそうな声しちゃって」 「小銭しか持たせなくてすみません……言いにくいんですが…そのー、ヒルドヤードの 紙幣はですね」 コンラッドがおずおずと差し出したピン札は。 「元々、片面印刷です」 「げっ」 「いいや!」 おれが悲鳴を上げて、ビロンの顔に嘲るような笑みが浮かんだ瞬間、ヒスクライフが 大声でそれを遮った。 「それはヒルドヤード紙幣ではない!私の故国、カヴァルケードの紙幣だ!」 ビロンの顔色が変わる。同時におれの真っ白だった頭も救われた。 「もちろん、我が母国ドラクマ紙幣は、片面印刷などではない!さて、これについては どのような詭弁を聞かせてくれるやら……カヴァルケードの追求からは逃れられんぞ! 観念して権利書を渡し、行いを恥じて蟄居するがいい!」 「……そんなにこの地の興行権が欲しいか」 ルイ・ビロンがにやりと嫌な予感を覚える笑みを見せた。 「ならば望みどおりくれてやろう!このルイ・ビロン、発つ者として後を濁さぬよう、自分 の商いはきっちりぽんと片をつけてゆこう!」 「ユーリ、あそこ!」 グレタが櫓から身を乗り出して指差す先を振り返る。 大きな木が中央に位置する広場の木造の娼館から、煙と炎が上がっていた。 「炎で清められた歓楽街に、教会でも寺院でも建てるがいい!」 「火をつけさせたのか!?」 怒りに駆られてビロンを睨みつけるが、狂ったように笑うだけだ。 「おのれルイ・ビロン、卑劣な真似をっ!」 ヒスクライフが剣に手を掛け、ビロンの部下がそれに反応する。 この特設競技場にいた観客達が、我先にと反対方向へ逃げ始め、人波に押されて 櫓がぐらつき、地面に下りることもままならない。 見ているしかない状況の中で、目に付くのは命からがら道路まで逃れてきた男の 店員ばかりで、あんなにいたはずの少女の姿はどこにもない。 「どうなってんだ!?なんで女の子は避難してないんだよ!?」 ようやく消防隊らしき男たちが数人駆けつけているが、あの炎の勢いを手押しポンプ くらいでは、消し止めることは不可能だ。 「夕方からきっちりぽんと働いてもらうために、娘たちにはたっぷりぽんと休養を与え ている。安心して休める環境作りのために、不審者の侵入を防ぐべく鍵もかけてある」 「なんてことを!」 櫓に張り付いて、火事を凝視していたが怒りに燃えてビロンを振り返った。 「あなたにはわずかな良心すらないと言うの!?彼女たちが逃げられないとわかって いて火をつけたと!?」 「妙な言いがかりは止めてもらおう。これは単なる不幸な事故だ。保険の降りる程度 の不運な事故、ですな」 コンラッドが隣の櫓に飛び移ろうとしたとき、燃える建物の窓がひとつ開いた。 女の子が一人、身を乗り出す。色の薄い長めの金髪は、煤まみれの知らない顔に かかっていた。イズラでもニナでもない。 女の子は三階から地面までの長い距離に躊躇して一旦身を引くが、熱に押される ようにまた身を乗り出す。 おれが櫓にとりついたから、コンラッドは慌てて飛び移るのを中止して、おれを後ろ から引き戻した。 「くそっ!どうにか………待てよ!やめろ!」 下は石畳だ。飛び降りてどうなるか、保証はない。 「陛下、危険ですから!」 女の子が窓枠に足をかけた。 「風に属する全ての粒子よ!」 凛とした声が響き渡った。 |
せっかくレースで勝ったのに、大変なことに。 |