「あのね、コンラッドは有利から聞いたでしょう?」 なにを、とは言わない。口を挟まない方がいいと判断したのかもしれない。 返事が無くても、コンラッドがじっとわたしを見て話を聞いていることは判っているから、 機械的に足を動かして、そのつま先を見つめたまま続ける。 「昔、有利がわたしを庇って怪我をしたこと。あのね、あれは元々、最初からわたしが 襲われていたの。八年前の夏に家族でキャンプに行って」 できるだけ淡々と話しているように聞こえるように気をつけて、急がないように、詰ま らないように一定の速度で話す。 「お父さんとお兄ちゃんは川で釣りを始めて、お母さんはスイカを冷やそうとしていた。 わたしと有利は、まだ小さかったから疲れて昼寝をしていたの。眠る前に、ひとりで みんなから離れちゃだめだって、お母さんに注意されていたのに、わたしひとりだけ 起きてしまって。それで、散歩に出かけたの」 047.癒えぬ傷跡(2) 急がないように気をつけているのに、どうしても段々と早口になっていく。 だけど対照的に声は小さくなって、早く言ってしまいたいのか、それとも言いたくない のか、わからなくなってきた。 「林道を歩いていて、小さな神社を見つけたの。小さいけれど、石段を上がった先に は鳥居があって、それから申し訳程度の境内があって、そして大人の背丈くらいの 本殿がある、ちゃんとした神社。でも、ずいぶん寂れていた」 神社のことなんて説明もなしに言われてもなにもわからないだろうけれど、説明する だけの余裕はなかった。横道に逸れてしまえば、そのまま逃げてしまいたくなる。 だけど、すべてを話してしまいたいのも本当。 「わたしには、ちょっとした探検に過ぎなくて、本殿を覗いたりしていた。人の気配が まったくないことはわかっていたけど、でも」 声が喉につっかえて、言葉に詰まった。 唇が戦慄いて震える。 「……後ろから口を塞がれたの。大きな男の手だった」 とうとう声も震えてしまった。 朝の空気の中で吐く息は白く、まるで冷たく凍てついているように見える。 「そのまま、小さな境内と繋がっていた雑木林まで引き摺って連れて行かれた。土の 上に投げ捨てられて、上からナイフで脅された。猿轡を噛まされて、もう声なんて出せ ないのにわざと言うの。『静かにね。大人しくしているんだよ』って笑いながら言うの。 どれだけ怖いと思う?」 「」 それまで、じっと黙って聞いていたコンラッドが静かにわたしの名前を呼んだ。 コンラッドの顔を見るのが怖くて、俯いたままそれでも続けた。止まらなかった。 「どれだけ怖いと思う!?ナイフで脅されて、脅されなくたって、怖くて怖くて、暴れる ことすらできないの!力なんかじゃ叶わない大人に、男に、無理やりっ……!」 どうしようもなくて、なにがなんだかわからないのに、怖いということだけははっきりと わかる。 それは、絶望だった。 「」 興奮して、いつの間にか怒鳴りつけていたわたしを温かい何かが包んでくれた。 それがコンラッドの大きな腕だと気付くまで、時間は数秒と掛からなかった。 コンラッドの腕は、こんなにも温かい。 コンラッドだけは。 ゆっくりと宥めるように大きな手が背中を撫でて、ときどき赤ちゃんをあやすように軽く 叩く。 ぎゅっとコンラッドの服を握り締めて、大きく息を吐いた。 コンラッドの温かさに少しだけ落ち着いて、話をするだけの力が戻ってくる。 「………わたしにはね、ゆーちゃんがいてくれた。わたしがテントにいないことに気が ついて、探しに来てくれたの」 「そのとき、ユーリが怪我を?」 「うん。ゆーちゃんが雑木林に気がついて、あいつに後ろから体当たりして……わたし の手を引いて逃げようとしたんだけど、そのときに」 コンラッドの温かさは絶大で、思い出してしまった憤りも恐怖も、そして絶望も、消え ないけれど、それでも小さくしてくれる。 「ゆーちゃんが怪我をして、目の前が真っ赤に染まった。ううん、真っ暗になったの かもしれない。気が付いたら病院で、ゆーちゃんはね、犯人にものすごく怒ってて、 でもわたしには笑うの。怪我が無くてよかった、間に合ってよかったって」 「間に合って?」 聞き返されて、そういえば誤解されそうなところで説明が飛んだ気がして慌てて付け 足す。 「うん、間に合ったんだよ。脅されて、猿轡も噛まされて、服もビリビリに切り裂かれた けれど、そこまで。ゆーちゃんのお陰で……でも、わたしのせいで……」 真っ赤に染まった空とナイフを、ゆーちゃんの足を思い出したら涙が滲んだ。 怖くて、怖くて。 つらくて、申し訳なくて。 ふわりと浮遊感が襲って、目を瞬くと涙が零れた。 すぐ目の前に、コンラッドの顔が。 「ユーリはを守れて、嬉しかったんだよ」 それは、何度もゆーちゃんが言った言葉だった。 「おれはいいんだよ、ちゃんが無事だったんだから」 「こんな怪我すぐ治るよ。ちゃんに怪我が無くてよかった。それがすごく嬉しいよ」 ゆーちゃんの怪我に泣いて叫んで、ずっと側に張り付いて離れなかったわたしに、 何度もそう言って、慰めてくれた。 ゆーちゃんの方が、怪我でずっと大変だったのに。 ずっと鼻を啜って、コンラッドの首に顔を埋める。 「ごめんね………心配かけてごめんね……」 嗚咽混じりの聞き苦しい声だったに違いないのに、コンラッドは優しく何度もいいん だよと言ってくれた。 「ごめんね……でも、だから許せないの。暴力やお金や……無理やり、そういうこと をする男が許せないの」 彼女たちが納得尽くだったのなら、わたしはただ息苦しさに俯くだけだっただろう。 だけど、彼女たちは騙されたんだ。 生きて行くためだと自分に言い聞かせて、家族の生活のために騙されたことまで 飲み込んで。 このまま、見過ごしたくなんてない。 「心配なのは本当だけどね。、それはやっぱり優しさだよ。君は憤りと同じだけ、 彼女たちのことを想っているから、黙っていられなかったんだ」 コンラッドは怒っても呆れても、そして同情でもない優しい声で言ってくれた。 「俺は、君を誇りに思う」 そんなに泣かせないでほしい。 |
普段はどんなにふざけていても、やっぱり頼りになる人です。 |