グレタの高熱は、翌日の朝にはすっかり下がっていた。 そこからヒルドヤードの港町に到着するまでの丸一日、有利はほとんど船室から出なく なってしまった。 なにしろ、ものすごく脚色された噂の的になっていたから。 044.変わりたい、変われない(1) 病み上がりのグレタと朝に弱いヴォルフラムのふたりを船室に置いて、有利とコンラッド と一緒にダイナーへ朝食に行くと、なぜか周囲の視線がこちらに集まった。 「な、なんだろう?」 ひそひそと囁かれるあまり感じのよくない小声のさざなみに、有利が一歩下がる。 「有利、右足に体重がかかってる。気をつけて」 有利の腕を取って後ろに引いた右足に体重がかからないように体勢を整えて、コンラ ッドと三人でテーブルに着いた。 「ほら、あれがつわりの妻とまだ小さな子供との旅に愛人を同伴させた男だよ」 「あら、でも一緒にいる男は何者かしら。ちょっといい男だけど」 「え?夫婦と愛人でしょう?」 「ええ!?じゃああれ男前なのに女なの!?」 そういえば昨日の船員に関係を聞かれたとき、急いでいたから言う必要はないからと 突っぱねたんだった。 そう……あの人は、言えない関係つまり愛人と取ったのね……。なぜ家族とか友人の 線はないんだろう。まあ、家族や友人ならそう名乗るか。急いでいたことが裏目に出た。 聞えてきた噂話に、有利が青い顔色で先割れスプーンを握り締めて溜め息をつく。 「もう噂が広がってる……」 「あれだけ騒げばね。ところで有利とヴォルフラムはいつ挙式をあげたの?」 「挙式なんてあげてねえよ!面白がるなっ!」 「今はヴォルフラムが不在だから、どうもわたしとコンラッドで有利の妻と愛人役が振り 分けられてるみたいだけど。どっちが妻でどっちが愛人だと思う?」 「……コンラッドが妻なのも愛人なのも嫌だ」 「そんな真面目に答えなくても」 コンラッドは苦笑して肩を竦めた。 それにしても、周りの人たちもそこまで無理やり枠に当てはめるより、噂の修正という 方向にはいかないものなのだろうか。……コンラッドが女って。 ちなみに、有利が挙式をあげてないと絶叫したことが、これまた周りには聞えていて、 昼食時にはふたりの女を弄び、けじめもつけずに子供だけ産ませたひどい男という噂 にまで発展していた。 子供と妻と愛人じゃなくて、子供と愛人と愛人を連れて温泉へ。 うわぁ、それは確かに最低男だ。 そうして、有利は部屋に閉じ篭ってしまった。 可哀想だから、自分を暗殺しようとした相手を連れ出したことに対する文句は、これで 忘れてあげよう。 居心地が最悪に悪かった船を喜び勇んで降りて、馬車で揺られて到着した街を前に して、有利は唖然と一言呟いた。 「熱海?」 気持ちはわかるけど。 「アタミじゃなくてヒルドヤードの歓楽郷。世界に名だたる享楽の街」 「あらゆる娯楽を取り揃えて、贅の限りを尽くしたんじゃなかったっけ?」 「取り揃えているはずですよ」 「全然ラスベガスじゃねーじゃん!」 有利、ラスベガスを期待してたのね。温泉だって聞いてたのに。 温泉の街なんだから、熱海で別にいいんじゃないの? あ、温泉の街はまだこの先だっけ。 周囲は決して浴衣下駄履きの日本人なんかではなくて、西洋人風の格好と容姿の 人たちばかりなんだけど。 この硫黄の匂いと立ち並ぶ商店、露店で埋め尽くされている大通りが、なんとなく 熱海なんだと思う。 「まあいいや、あの最悪の船から解放されたなら、なんでもいいよ」 「とにかく、温泉に行くためにまず宿にチェックインしましょう」 コンラッドに続いて歩き出したものの、どうにも人が多すぎる。これは子供連れでは はぐれる危険が。 「グレタ、はぐれたら大変だから」 こちらから触るとまた大騒ぎになるかもしれないから、手を差し出して握るように要請 してみる。無視されたら、最後尾を歩いてこの子がはぐれないようにしようと思ったら、 グレタは躊躇しながらもそっとわたしの手に触れた。 このときだけは有利が杖をついていてよかったかも。 入り口付近の土産、食品などの買い物系の店が立ち並ぶ通りを抜けて、遊技場の 続く通りに出た途端、有利が楽しそうに左右を見回してあれはなんだとコンラッドや ヴォルフラムに色々と聞いているからだ。 矢を使った射的とか、輪投げとか。カジノじゃなくて、サイコロとどんぶりを使った賭場 とかね。 元気だったら、小さな女の子が一行にいることを忘れてフラフラしたかもしれない。 「グレタ、疲れてない?歩くの早いかな?」 病み上がりだし、もう少しゆっくり歩くように有利に言った方がいいかと訊ねてみる。 黙殺されることは覚悟の上だったけど、短い答えが返ってきた。 「平気」 なんだか妙に嬉しい。 有利はとにかく周囲に夢中になっているけれど、コンラッドは時々わたしたちを気に かけて振り返ってついてきているか確認している。 わたしとグレタが手を繋いでいるのを見て、少し眉を下げて嬉しそうに笑った。 「さあお嬢ちゃんお坊ちゃん、見せ物小屋に寄ってかないか?間違っても吸血鬼に なっちまったりはしないよ。びっくりして楽しんで帰るだけだよ」 一際大きく聞こえた客引きの声に、わたしとグレタは一緒にそちらの方を向く。 広場に張られたいくつかのテントのうちのひとつで、台に乗った中年の男性が道行く 通行人に声を掛けていた。 テントの横の派手な看板には、色々な怪物の絵と、真っ赤なペンキで塗りたくった 文字で『世界の珍獣てんこもり!』と書かれている。絵を見る限り珍獣というより、 お化け大集合では? きゅっと握っていた手に力を込められて下を向くと、グレタは看板を見ながらじりじりと 少し後ろ下がる。 子供騙しの見せ物小屋も、子供になら当然効果があるわけで。 どうしようか考えた末に、わたしの方も握り締めた手にちょっとだけ力を入れてみた。 グレタの肩がぴくりと震えたけれど、手を振り解くことなく、逆に空いていた方の手で わたしの服の裾を握った。 こうして見ると、本当に普通の子供なんだよね。 こんな小さな手で、ナイフを握り締めて。 こんな小さな子が、だれかを殺そうとしたなんて。 握り締めた手の小ささにとても悲しくなった。 「おにーさん、暇?」 女の子の声にふと振り返ると、コンラッドに声を掛けている子が。 わたしよりも年下に見えるけど、この季節に胸を強調したスリップドレス。スカート丈も かなり短く、日に焼けた肌を惜しげもなく曝している。 夜の街を徘徊する少女たち、とかいうゴールデンタイムの特集番組を思い出す。 いや、今は昼だけど。 「あら、お友達も一緒なの。ね、よかったら、おにーさんたちみんなで」 もうひとり、やっぱりかなり際どい服装の女の子が寄ってきて、有利を覗き込む。 ここに、一応女がいるわけですけれども、気付いていないのか、わかっていて故意に 声をかけてきたのかどっち!? わたしが咳払いをしてやろうと構えると、その寸前でコンラッドが自然な動作で有利を 後ろに庇った。 「悪いが、これから宿に向かうところだ。遊んでいく暇はない。この寒空にそんな服装 では身体を壊すよ。そっちの娘は具合も悪そうだ」 態のいい断り文句を言ったコンラッドに、それでも女の子たちはめげない。 「じゃあお客さんの部屋に連れて行って!そしたら泊まりも大丈夫だから!」 必死に食い下がるように、ぎゅっとコンラッドの腕に抱きつく。 「ちょっと……!」 ええ、まあ我ながら心が狭いと思うけど。 ムッとしてわたしが間に割り込んでやろうと一歩出た瞬間、有利が先に口火を切った。 「あのなあ、君たち。逆ナンされて一瞬だけ嬉しかったけど、おれの中では十五歳未満 は外泊禁止だぞ!?」 有利……逆ナンじゃなくて、それは客引きなんだけど……。どこまでも健全な有利は ただのナンパだと思っていたらしい。でもそう、有利は一瞬嬉しかったのね。へぇー。 思わず有利にそう言いかけたら、握っていた手がするりと抜けた。 驚く間もなくグレタはわたしから離れて、コンラッドに抱きついた女の子を押しのける ようにして間に割り込んで、コンラッドの腰にしがみつく。 「お父様!」 「ええ!?」 有利が絶叫する。 わたしも絶叫しかけたよ。驚きすぎて声が出なかっただけなんだけど。 「え?グ、グレタは実はコンラッドの隠し子!?」 混乱する有利を見向きもせずに、グレタはコンラッドをぐいぐいと引っ張る。 「グレタ疲れたよ。早くお部屋に行こうよ。お母様も疲れたって!」 思わず、そのお母様を探しかけてしまった。 違う。グレタの指は、まっすぐわたしに向いている。 やっぱり驚いていたらしいコンラッドは、その言葉でなにかを了解したらしく、にっこり 微笑んでグレタの頭を優しく撫でた。 「ああ、すまない。じゃあ、そういうことだから」 前半はグレタに、後半は女の子たちに向けて。 これで話を打ち切って、宿に向かおうとしたけれど、女の子たちは諦めきれないのか 再び声を掛けてくる。 「待って!」 そこに別の声が飛んできた。 「あんたち、無粋な真似はおよし!子連れの人に声を掛けるなんて、道に立つ者と しちゃ最低の行為だよ!」 通りの向こうに立っている、艶めいた女性。少し乱れた髪が一層色っぽい。組んだ腕 の間からはツェリ様にこそ及ばないものの、立派な谷間がのぞき、腰もそれなりに 引き締まっている。身体の線をそのまま見せるスリップドレスを、ちゃんと着こなして いた。 ……かなりコンプレックスを刺激される。 コンラッドのことが好きになってからは、こうやって時々、今までは知らなかった感情が 生まれてしまって、ひどく戸惑う。 人と自分を、それも外見を比べるなんてこと、あんまりしたことないのに。 こういうのは、なんだか嫌だ。 「その人たちは家族で遊びに来ているんだ。ここはヒルドヤードの歓楽郷だよ?女以外 の遊びがいくらでもあるんだからね」 女性がそう一喝すると、ふたりの女の子はバツが悪そうに俯いて通りの店に入って行く。 ほっと息をついたのも束の間、女性はコンラッドの肩に手を置いた。 ……あの、今ご自分でおっしゃった言葉はどこへ? 「五年前に来たときは、こんなにいかがわしい雰囲気じゃなかったんだが」 コンラッドが自然な動作で女性の手を降ろしたので、ついほっと溜息が漏れた。 「ほんの三ヶ月くらい前に、ヒヨコちゃんが大勢流れ込んできたの。なんか権利の持ち主 が変わったとかで、そういう方針にしたみたいだけど。若けりゃいいなんてつまんない客 もいるしね。ところで」 肩を竦めた女性は、一瞬で視線に込める光を入れ替える。 「あんたいい男ね。どう?お連れさんたちが寝ちゃってから」 ぐいっと組んだ腕で豊満な胸を押し上げて、谷間がさらに強調される。 子連れに声を掛けるのは最低の行為じゃなかったの!? わたしには逆立ちしたって出すことのできない大人の色香に、コンラッドがよろめいたら どうしよう! コンラッドのことは信じてる。 だけど、わたしはコンラッドのためになにひとつ、していない。できていない。 わたしとコンラッドの間の進展なんて、キスくらいのもので、それもわたしからしたこと なんて、ほとんど皆無と言っていい。 コンラッドを信じていないんじゃなくて、後ろめたいから自分に自信がない。 声も出ないわたしの肩を、大きな手が抱き寄せた。 「悪いけど、裏切れない相手がいるんでね」 嬉しくて思わず涙が滲んだ。 だって、わたしはコンラッドのために、なにもできてないのに。 「あらあら、ご馳走様」 女性は苦笑してひらりと手を振った。 「お嬢さんに飽きたら声を掛けてちょうだいな」 「なら君とは縁がなさそうだ」 そう言って、コンラッドはわたしの肩を抱いたまま踵を返す。 コンラッドに促されて一緒に振り返ると、後ろで有利が腕をすごい勢いで擦っている。 「………なにしてるの?」 「な、なんかこう、歯が浮きすぎて抜けそうだ……」 いつもならそれに同意しそうだけど、今はとにかくコンラッドの言葉が嬉しかったので、 軽く有利の頭を小突いた。 「いいの。コンラッドはこれで」 「まあ、これがコンラッドだよな」 しみじみふたりで頷き合うと、コンラッドが首を傾げた。 「どういう意味ですか」 「そのままだって」 「あっ……」 小さな声が下から聞えて見下ろすと、グレタがどこか見つめたまま走り出そうと踵を 浮かす。 だけど、すぐにまた地面にぺたりと足を降ろした。 走り出そうとした方向から、金の髪を振り乱した美少年が駆けて来る。 「お前等なにをしている!返事がないからと大きな声で話してやったのに、振り返る と誰も後ろにいないじゃないかっ!要らぬ恥をかかされた!!」 ごめん、ヴォルフラムが先に行っていたのに、気付いてなかったよ。 |
有利より先にグレタといい感じに? コンラッドはもてそうですから、自信がないと苦労しそうです。 |