「グレタ。グレタだね?おれは有利。渋谷有利原宿……」 ようやく名前を聞き出せて、嬉しそうに自己紹介しようとした有利がぴたりと止まる。 どうしたのかと思えば、のろのろと言い直した。 「いや、やっぱユーリで。ただのユーリでいいよ」 断じて違うと言いながら、自己紹介に便利なので有利はときどき原宿不利を自分で 使ったりする。日本を思い出して、そして帰れないことを思い出したんだろう。 思わぬところで有利の望郷を刺激してしまって、わたしが何気ないように割り込んだ。 「わたしはだよ。有利の妹」 刺客だとこの子に厳しい目を向けていたわたしが自分から自己紹介したので、有利は 驚いたようにこちらを見て、ちょっとだけ嬉しそうに笑った。 どうして、自分を殺そうとした女の子のためにそんなに喜べるの? 溜息をつきそうになって、慌てて飲み込んだ。 ここまでくると呆れを通り越して感心する。 とにかく、わたしがいつまでもこの子を敵視していても、有利が寂しい思いをするだけ ということは確定のようだった。 043.頼りない指先(3) 「それでよかったら、住所も教えてよ。どこに住んでんの?暑いとこ?寒いとこ?」 そんなものすごく漠然としたヒントから、住所を調べようなんて気の長い話だ。 わたしが今度こそ溜息をつきながら毛布をかけ直すと、同時に有利がそっと女の子 の髪を撫でた。 途端にものすごい悲鳴が上がる。 「触るな触るな触るなーっ!助けてっ、誰か助けてっ!!」 「うわっ、ご、ごめん!」 有利が手を引いたと同時に女の子は身を捩って、ベッドから転がり落ちる。 「危ないっ!」 受身もなにもない落ち方で、ベッドに乗り上げて手を伸ばした時は遅かった。 壁とベッドの間に嵌るように落ちて、両手の握り拳を頭に当てて震えている。 「グレタ、大丈夫だよ。病人になにもしないよ」 わたしが上から覗き込んでそう声をかけていると、後ろから呂律の回らない糾弾が 有利に浴びせられていた。 「にゃんだ、ユーリ!にゃにをしている!!」 さすがにヴォルフラムも目が覚めたらしい。 「この節操なしの恥知らずめ!幼女にまで手を出すとは何事だ!?まさか、ぼくを 拒み続けているのはそういう嗜好だからなのか!?」 「節操なしって、その前におれはひとり目にすら手を出してないだろ!?しかもおれ たちは男同士なのに、自分のことは棚に上げてそういう嗜好って……あ、はーいっ」 扉が乱暴に叩かれて、有利が返事をしながら立ち上がろうとしたので、それを押さえ てわたしが代わりに対応に出た。 「どなたですか?」 「船の者です。見回りをしていたところ、お客様のお部屋から悲鳴が聞えまして」 この騒ぎだし、近隣の部屋に聞えて当然だよね。ややこしいことは避けたいから開け たくないけれど、開けないとますますややこしいことになりそうだ。 扉を開けると、制服姿の実直そうな青年が立っていた。 「すみません。子供が熱を出して癇癪を起こしてしまって。近くの部屋の方には大変 ご迷惑をお掛けして……」 「……ず、随分若いお母さんでいらっしゃいますね。ですが、いくら子育てに悩んで いても、暴力はいけません、暴力は」 ………………誰が、暴力を振るったと? 悲鳴が聞こえたからって、即虐待決定!? 子供を虐待から守るためには迅速な行動を、というのは大切だと思うけれど、事実 でないことで、ここまで決め付けられるとまず腹が立った。 「いくらなんでも、病気の子供に手を上げたりしませんが」 その前に、母親ですらない。 これでは疑惑が増すかも思うのにイライラとした声で答えてしまうと、やっぱり船員 の青年はそっと首を振ってわたしの肩を叩いた。 「いろいろ大変だとは思いますが、まずは認めることが第一歩ですよ、お母さん」 「お母さんじゃありませんっ!」 「わっ、押さえて!怒鳴るとグレタが怯える」 「おい、貴様!をこんな子供の母親などと、無礼にも程があるぞ!……うぷ」 有利がわたしを静めようとすると、今度はヴォルフラムが眉を吊り上げて船員に噛み 付いた。 だけどヴォルフラムの船酔いを曲解したらしく、青年は目を瞬く。 「おや、後ろの方がご両親でしたか。しかもどうやらお二人目もいらっしゃるご様子。 ではあなたは……?」 「答える義務はありません」 簡潔に答えて扉に手を掛けた。早くグレタをベッドに戻さなくていけないのに、これ 以上関わっていては時間が惜しい。 「子供を宥めますので、失礼しますっ!」 話を無理やり打ち切って、少々乱暴に扉を閉めた。 扉を閉めると、溜息が漏れた。悲鳴が聞こえたから虐待だと思われたと考えたけど、 ひょっとしたらなにかそう思わせるような表情をしていたかもしれない。 だめだめ。それじゃグレタを怖がらせるだけだ。早くベッドに戻って温かくしなくちゃ いけないんだから。 顔の筋肉をほぐそうとぎゅっと頬をつねってから、グレタの方へ戻った。 「グレタ、暖かくしておかないと、熱が余計に上がっちゃうよ」 「信じちゃだめ……誰も信じちゃだめ……誰も」 だけどグレタはベッドと壁の間で、呪文のように小さく同じ言葉を繰り返す。 「……それはおれを……ってことなんだよなあ……」 隣で一緒にグレタを説得していた有利が寂しそうに呟いた。 「おれがきみに何をすると思ったんだ?」 「だから言っただろう」 ヴォルフラムが有利にぶっきらぼうに、だけど優しい声色で有利に話しかける。 「命を狙ってきた相手を側に置いても、お前が傷つくだけだと」 「そんな親切に言ってねーよ」 「言ったぞ、バカだとな」 バカの一言にそこまで意味を込められても、以心伝心じゃあるまいし、伝わらない と思う。 狭い隙間で震えるグレタに困り果てながら、わたしは根気強く声をかけ続ける。 「グレタ、ベッドに戻ろう。お願いだから」 耳を塞ぐように両手を当て、震える背中に既視感を覚える。 わたし、だ。 まるでわたしを見ているようだった。 怖いと震え、有利以外のすべてを拒絶して、泣いて暴れたわたしの姿だ。 ……お母さんも、お兄ちゃんも、お父さんも、ずっとこんなわたしを見ていたんだ。 呼びかけにも答えず、差し出した手は怯えて振り払われ。 わたしとこの子の間でこれだけ痛々しいと思えるのなら、お母さんたちはどれだけ つらかっただろう。 そうして、たったひとり頼られた有利は、どれだけそれが重かっただろう。 それでも、わたしの側にはずっと有利がいてくれた。 この子を宥めるのは、母親の暖かさなんだろうか。 そんなの、この場でどうすればいいの? 途方に暮れていると、有利が横からそっと手を差し出した。 「グレタ、ベッドに戻ろう。風邪をこじらせたら、温泉にも入れないぞ?」 中腰で、そんな足に負担のかかる体勢なんて。 わたしがどんな顔をしていたのかわからないけれど、有利は苦笑して首を振った。 こうと決めた有利は、簡単には止められない。 それから、もう一度グレタに視線を戻して声をかけ続ける。 「暖かくしよう。熱を下げないと、グレタがつらいだけだよ?」 焦れるくらい長く、グレタは床を見つめたまま、だけど差し出していた有利の手に指先 を載せた。 グレタは見ていないけれど、有利の顔が柔らかく微笑む。 グレタが立ち上がるのを助けて、有利の足に力が入る。ハラハラして手を貸そうとする と、有利は目でそれを拒む。グレタを刺激しない方がいい。 ようやくグレタから動いたとはいえ、それは綱渡りのように危ういバランスでのこと。 わたしが発作を起こしたときは、有利以外の人が手を出すと針でつつかれたように 症状が悪化した。 グレタも怯えながら有利に触れたのだ。下手に手を出せばまたベッドと壁の狭い間に 逆戻りしてしまうかもしれない。 グレタがベッドに上がり、そっと手を離そうとした有利はちょっと顔を顰める。 足が痛んだのかと思ったけれど、まじまじと掌を見詰める様子はどうも違うようだった。 「――――どうしてが泣いている!?」 ヴォルフラムが頭の天辺から抜けたような声で悲鳴を上げて、有利とグレタの視線が 一斉にわたしに向いた。 わたしも驚いて、頬に触れると確かになぜか濡れている。 「………あれ?」 「あれ?じゃない!」 ヴォルフラムは隣のベッドから毛布を引っ張って、わたしの頭を押さえて涙を乱暴に 拭う。 「い、いたた、ちょ、ちょっと……」 天使のごとく繊細な容姿なのに、意外とものぐさなのね。 「?」 有利が心配そうな表情で覗き込んできたので、これ以上心配の種を増やしたくなくて 素直に答えた。 「ちょっと、身につまされたみたい」 それだけで、有利はすべて了解したようだった。 当然だろう。 わたしでも連想したくらいだから、有利が思い出さなかったわけがない。 「大丈夫。なんかね、頑張らないとっていう気持ちになったから」 お母さんもお兄ちゃんもお父さんも……そして有利も、わたしが立ち直るまで、ずっと 側で支えていてくれたんだ。 こんな風に拒絶されながら。 あるいは、纏わりつくようにしがみつかれながら。 そうして、今はコンラッドも黙って待っていてくれる。 ヴォルフラムが拭いてくれたから、もう涙は残っていなかったけれど気合を入れようと 拳で目を拭って、ベッドの上のグレタを見る。 熱がつらいのか、眉を寄せている少女に笑いかけて、肩まで隠れるように毛布をかけ 直した。 「ゆっくり眠ってね。きちんと休養すれば、きっとヒルドヤードまでにはよくなるよ」 直接グレタに触れないよう注意を払いながらそっと額の髪を指先で払うと、小さくと だけど、確かに頷いてくれた。 |
ひとりでぐるぐると回っていたところからは抜け出せたようです。 |