「あの時とは違うよ」

わかってる。

わかってるよ、有利。あの時とは違う。

相手は小さな女の子で、大人の男じゃない。

決意を秘めた表情は、いやらしい薄笑いなんかじゃなくて。

寂れた神社の境内じゃなくて、有利の執務室だ。

わたしは小さな子供ではなく、有利ももうあの時に比べてしっかり成長している。

あのナイフは脅しではなく、最初から有利を傷つける目的のものだった。でも、側には

コンラッドがいた。ヴォルフラムも、ギュンターさんだっていた。

あの時とはまったく違う。

あの恐怖と怒りを、重ねるのは間違っている。





043.頼りない指先(1)





船室に帰ってくると、勢いのままベッドに倒れこんだ。

息が詰まるほど枕に顔を押し付けて、ぎゅっと目を瞑る。

逃げ出してしまった。

後ろでわたしを呼ぶコンラッドの声が聞こえた。

心配ばかり掛けている。

わかっているのに、足を止めることはできなかった。

まるでなにかに追われているように、船室に帰るまで立ち止まる事もできなかった。

追われているのは、自分の記憶に、だ。

あんなこと、もう思い出したくもない。

どうして有利は、コンラッドが側にいるのにあんな話をしたんだろう。

コンラッドに知られるのは怖い。

有利が怪我をしたのはわたしのせいだ……有利が違うと言っても、わたしのせいだ。

お母さんに遠くへ行っちゃいけないと言われたのに、ひとりでみんなから離れて、その

せいで。

夕暮れの赤い空。烏と蜩の寂しい鳴き声。

大人の男の、荒い息遣いと嘲笑。

『静かにね、大人しくしているんだよ』

思い出したくないのに、忘れられない。

古い油汚れのように、ねっとりと耳に残っていて。

怖い。気持ち悪い。

コンラッドに側にいて欲しい。大丈夫だよって、抱き締めて欲しい。

だけど、コンラッドにだけは知られたくない。今だけは、コンラッドに側にいて欲しくない。

まったく反対の感情に苦しくなって、ぎゅっと唇を噛み締めたとき、ドアがノックされた。

慌てて起き上がって入り口を見ると、入ってきたのはヴォルフラムに肩を貸した有利と、

暗殺者の女の子を抱き上げたコンラッド。

「あー……その、悪い……」

ものすごく申し訳無さそうな顔で有利がちらりとヴォルフラムを見ると、真っ青な顔色で

小さくえづいている。

「………あ!なにか忘れていると思ったら!」

ヴォルフラムの船酔いだった。

前回もヴァン・ダー・ヴィーア行きで、ヴォルフラムは酷い船酔いに苦しんでいた。今回

も船旅なら大丈夫なのかと思っていたのに、色々あってすっかり忘れていた。

慌てて有利に手を貸して、ヴォルフラムをベッドに横たえる。隣のベッドにはコンラッド

が女の子を降ろしていた。

「………どうしたの?」

女の子の顔色も悪い。青褪めてはいないけど、紅潮して汗をかいているようだった。

「熱があるようなんだ。潮風に当たりすぎたんだろう」

躊躇はあったけど、苦しんでいる小さな子にまでつらく当たる事はできない。

そっと額に手を伸ばして熱を測ろうとしたら、思い切り弾かれてしまった。

「触るな……っ」

手に小さな痺れが走る。だけどその表情にあるのは怒りや侮蔑ではなく、恐れだった。

魔族が怖いんだ。

怖い相手に、近付かれたくないのは当たり前だろう。

「………熱の高さだけ、測らせてくれないかな?」

あまり高熱だと熱冷ましが必要になる。そこまでの熱でないのなら、自然に任せるのが

一番だ。

できるだけ刺激しないようにもう一度ゆっくりと手を伸ばすと、今度は跳ねつけられなか

った。

触れた額は、子供であることを差し引いても少々熱い。

「……微妙かな……これくらいなら、たくさん水を飲みながらたくさん汗をかいた方が

いいかも。とりあえず氷をもらってきた方がいいね」

わたしが医務室へ行こうと立ち上がると、コンラッドがそれを止める。

「氷なら俺がもってくるよ。はこの子についていてあげて」

ついていてあげてって……。

コンラッドの方がこの子に対してわだかまりはないようだし、この子だってわたしより

コンラッドの方がいいんじゃないの?

それをどう言うべきか迷っているうちに、コンラッドはさっさと船室を出て行ってしまう。

どうしよう。熱が出たときはどうすればいいんだっけ?

「もう全部吐いちまえよ」

「も……もう吐くもの、など……ない……うぷっ!」

「って言ってる側からさっ!!」

後ろから聞こえてくる会話に振り返ると、バケツを抱えたヴォルフラムの背中を有利が

摩っている。

「有利、わたしの鞄に船酔いの薬があるから、ヴォルフラムに飲ませてあげて」

女の子の視界に今の状態のヴォルフラムが映らないように移動しつつ、乾いた綺麗な

布を取り出してテーブルの上の水差しで軽く濡らす。

熱を出しているときに、横で嘔吐されているのもつらいものね。

まあ……見えなくても聞こえるけど。

「オッケー…って、あれ?なんで船酔いの薬なんて持ってきてんの?まさか、やっぱり

最初からヴォルフが来るの決まってたのかよ!?」

おれは騙されたのかと有利が騒ぎ出して、わたしは思わず溜息が漏れた。

「普段は平気でも、怪我とか病気で調子が悪いと乗り物酔いするときがあるでしょ?

備えあれば憂いなしのつもりで入れてたの。最初から決まっていたなら、ヴォルフラム

に渡し忘れたりしないよ」

「ああ……なるほど」

一応納得できたようで、有利は大人しくわたしの鞄を漁り出す。

ヴォルフラムのことは有利に任せて、わたしはこっちをどうにかしないとね。

わたしや有利が寝込んだとき、お母さんはどうしていたっけ?

氷枕とか氷嚢はコンラッドが帰ってきてくれないと作れないし、とりあえず着替えかな?

「有利、ついでにシャツを一枚こっちに投げて」

「へーい」

適当な返事を返しつつ、有利はシャツを丸めてこっちに投げた。

……確かに目的の場所に思い通りに投げるには丸めた方がいいかもしれないけど、

せっかく綺麗に洗ってあるシャツをしわくちゃにするというはどうなの。

「ねえ、起きられる?汗をかいたみたいだから、着替えた方がいいんだけど」

シャツの皺を伸ばしながら訊ねると、女の子はちょっと迷った様子で視線を彷徨わせて

から頷いた。

驚かさないように気をつけて、そっと手を背中に添えて起き上がるのを手伝う。

汗に濡れたシャツを脱いでもらって、濡らした布で身体を拭く。もう一度乾いたタオル

で拭いてから、今度は新しいシャツを広げた。

ふと、女の子の左肩に刺青を見つける。こんな小さな子に刺青なんて、と思ったけど

よくみるとそれは文字だった。

イズラ。

名前のようだけど……?

「手を挙げて、袖に通してね」

、結構手馴れてないか?」

振り返るとヴォルフラムの背中を摩りながら、有利はちょっと嬉しそうだった。

わたしがこの子に対してわだかまりを捨てきれていないはずなのに、世話をしている

のが嬉しいんだろう。

手馴れているというか、記憶を頼りにしている看護なのでとても自信はないんだけど、

ひとつだけ。

「女の子の着替えを覗くな!」

有利に向かって軽く枕を投げつけたら、首をすくめてヴォルフラムの看病に戻った。




にわかに騒がしくなったおかげで、どん底まで落ち込む暇も、有利と気まずくなる暇も

なかった。

苦しんでいる人物が二名ほどいるのだから、それをよかったというわけにはいかない

けれど、少しだけほっとしてしまったのはどうしようもない。

着替えを終えて寝かしつけると、女の子はすぐにうとうとと眠りにつき始めた。

振り返ってヴォルフラムに静かにするように言いたかったけれど、まず不可能な様子

だったので諦める。この騒動の中でも眠れるのなら、まあいいかな。

「ヴォルフラムは大丈夫?」

「……大丈夫じゃない」

バケツに顔を突っ込みながら低い答えが返ってきて、有利の手助けに行こうとしたら、

ツンと後ろに引っ張られてしまった。

振り返ると、わたしの服の裾を小さな手が握り締めている。

………くらっと来た。

母性本能っていうのになるのかなあ。

いえ、熱を出して気弱になっているから、藁をも掴む心境と言うか、つい手近にあった

ものを握ってしまったというか、その辺りだとはわかってるんだけどね。

小さな女の子が苦しそうに眉をしかめて、必死にぎゅーっと服を握り締めているのを

振り払うほど鬼にはなれません。

諦めてその場に座り込むと、ちょうどコンラッドが帰ってきた。

「氷嚢を作ってきたよ」

「ありがとう、貸して」

「代わろうか?」

その申し出はありがたかったけど、苦笑して握り締められた裾を指差すと、コンラッド

もちょっと笑って氷嚢を渡してくれた。

氷嚢がズレないように調節しながら再び汗の浮き始めた額に乗せると、冷たかった

のかうっすらと瞼が上がる。

「大丈夫、ただの氷だから。さあ眠って」

ぽんぽんと毛布の上から軽く叩くと、またゆっくりと瞼が落ちた。

ゆっくり眠って、次に目が覚める頃には熱が下がっていればいいのだけど。




あの時とは違う。それはそうだ。

結局、わたしがヴォルフラムのように強く怒れなかったのは、自分の怒りがこの子に

抱いているだけのものではないということを、薄々とわかっていたからなんだろう。

この子のしたことを許せないのは当然だ。有利を傷つけようとしたんだから。

だけど、別の人間への憎しみをこの子に向けるのは間違っている。

少なくとも、今と昔を混同しているようでは有利を困らせるだけだ。

「……こんなことじゃ駄目……。しっかりしないとっ!」

小声で呟き、気合を入れるつもりでぱちんと自分の頬を叩いたら、病人がうっすらと

目を開けた……ように見えた。

起こしてしまったかと慌ててもう一度覗いてみるけれど、しっかりと瞼は下りている。

見間違いだったのかも。

、なにしてんの!?」

代わりに後ろで有利が慌てていた。

ごめん、混乱させて。







思わぬきっかけですが、動けなくなっていたところから抜け出せたのでしょうか?



BACK 長編TOP NEXT


お題元