頭がズキズキと脈打つように痛む。 違う。あれは夕焼けじゃない。 でもナイフに、赤い光が煌いて。 赤い、血が。 「ゆーちゃんっ!」 飛び起きたら、そこは広いベッドの上だった。 041.抉られた古傷(4) 嫌な夢を見た。 思い出したくもない、忌まわしい。 原因は明らか過ぎるほどで嫌になる。 一時期、男の人が怖くて一歩も外へ出られなくなった頃、お兄ちゃんやお父さんですら 怖かった。有利とお母さん以外のすべての人を拒絶して、あのときはどれだけ有利に 負担を掛けていたのだろう。 そんな自分が嫌で、刃物を見るだけで震えてしまう自分が嫌で、だからこそ居合いを 始めたのに。 自分になら剣を向けられたって、戦えた。 なのに、それが有利に向けられたのだと思ったら、あんなナイフでもうろたえてしまった。 ナイフだったからこそかも、しれないけれど。 だからって、あんな小さな子を相手にここまで動揺して、なにが有利を守るだ。情けない。 なんのために今まで鍛えてきたの。 自己嫌悪に深い溜息をついて、広いベッドの端まで這って移動する。 嫌な夢を見たせいで、寝汗をかいて気持ち悪い。お風呂にでも入って気分転換しようと 着替えを漁っていると、小さなノックが聞えた。 「……だれ?」 「ああ、。起きたのか」 入ってきたのはコンラッドだった。さっきは顔色が悪いから眠った方がいいとベッドまで 運んでくれたから、きっと心配して様子を見にきてくれたんだろう。 「気分は?」 「もう大丈夫」 実際にはよくわからない。 眠れば少しはすっきりするかと思ったけれど、嫌な夢を見たせいであんまり気分は変わ らない気がする。 それでも、コンラッドには心配を掛けたくない。 その大半は、素直に恋人を心配させたくないという気持ちだったけど、ちょっとだけ打算 も入っている。 有利が捻挫で済んだ程度のことで体調を崩しているようでは、有利を守るなんてとても 無理だから、剣の修行は止めにしようと言われるのが怖いのだ。 着替えを握り締めた手を後ろに回しながら、立ち上がって微笑んだわたしに、コンラッド が溜息をつく。 ぎくりと顔が強張ってしまった。 「あ、あのね」 「、俺の前では無理をしないでくれ」 「む、無理なんて」 「してるよ」 コンラッドの大きな手が、まだ括っていなかった髪を避けて頬を優しく撫でてくれた。 けれど、目を合わせることができなくて、視線を彷徨わせるようにちょっと俯く。 落ち着かなくて、後ろに回した手は握り締めた着替えを弄ぶ。 「陛下が危険な目に遭って、が体調を崩すほど心配するのはわかるよ。だから、 俺にまで無理して見せないで」 「でも」 「心配しなくても、それで剣を持つなとはもう言わないから」 驚いてコンラッドを見上げると、少しだけ困ったような顔で微笑んでいた。 「陛下からお聞きした。以前、陛下が暴漢に襲われたとき、側にいたんだって?」 心臓を鷲掴みにされたのかと思った。 背中にどっと冷や汗を感じて、身体全体が心臓になったんじゃないかっていうほど強い 鼓動に眩暈がする。 どこまで聞いたの? 有利はなにを話したの? わたしがどんな顔をしていたのか、コンラッドはゆっくりと抱き寄せて軽く背中を叩いて くれた。 ……抱き寄せてくれた。 「大丈夫。のせいじゃないって、陛下は仰っていたよ。大丈夫……」 暖かい大きな手が何度も背中をさすってくれる。 緊張が解けるように小さくなって、激しい動悸が治まってきた。 背中をさする大きな手から、抱き寄せられた広い胸板から、コンラッドの体温が伝わっ てきて、胸にこびりついていた嫌な感情が流れ落ちるように消えていく。 「今回のようなことは、もう起こらないようにするつもりだ。だけどもしものときは、俺が 陛下のことも、のことも守るよ」 優しい声に、そっとコンラッドを仰ぎ見るとゆっくりと腰を屈めてきて。 びっくりしてコンラッドから離れようとしたのに、背中に回った手が抱きすくめるように 離してくれない。 「ま、待って……っ」 そんな気分になれないのに。 ぎゅっと強く目を瞑って唇を引き結んでいると、額にこつりとなにかが当たる。 恐る恐ると目を開けると、コンラッドはまるで熱を測るように額と額を合わせていて、 至近距離に銀の光彩の散った茶色の瞳があった。 「約束するよ。俺のすべてをかけて、陛下とを守る。必ず」 国一番の剣士に、こんな約束をされていつまでも震えてなんていられない。 嬉しくて、心強くて……頷きかけたわたしは、それではいけないと慌てて顔を上げた。 お陰で、鈍い音を立てて額同士が激突する。 「いっ………!」 わたしとコンラッドは、しばしお互いに自分の額を押さえて悶絶した。 「………ご、ごめんなさい……」 「いや……」 なんか、色んな意味でごめんなさい。 今、すごくいいところだった気がするのに、すっかり空気が白けてしまった。 ああ、どうしてわたしってばこうなんだろう。 ムードを作れないどころか、保てないし。 あ、でも今はそれより! 「でもね!前にダメって言ったのに、またコンラッド同じこと言った!」 「え?」 「わたしのことは守らなくていいって言ったのに!コンラッドは有利のことだけ守れば いいの!」 「……あのときは違って、俺にはもうを守る理由があると思うけど」 コンラッドは額を押さえていた手を下ろしながら、そっと溜息をつく。 「だっては、俺の婚約者なんだから」 「でもダメ!」 断固として発言の撤回を要求すると、コンラッドは肩をすくめてわたしを指差した。 「そんなに握り締めていると、せっかく可愛いクリームイエローの下着に皺が寄るよ」 指を差されて、握り締めた自分の右手を見る。 間。 「うわーんっ!出てけーっ!!」 空いていた左手で、ベッドから枕を掴むとコンラッドの顔面目掛けて投げつける。 コンラッドが投げつけられた枕を軽々とキャッチしている脇を駆け抜けて、そのまま バスルームまで逃走した。 グウェンダルさんに続いて、コンラッドにまで下着を見られた。 今さら下着くらいと言うなかれ!やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいの! それは、コンラッドには下着どころかもっと恥ずかしいこともされたけど……。 ようやくお湯の張り終わったバスタブに沈みながら、とほほと肩を落す。 せめてこっちのセクシーランジェリーじゃなかったことを慰めとするべきなのか、日本から 着てきた自分の下着だったことによりショックを受けるべきなのか迷う。迷っている時点 で、まあ深刻じゃないわけですけれども。 そういえば、コンラッドに発言撤回を求めている途中で逃げ出してきてしまった。向こう のほうが一枚も二枚も上手だ。 ちょっと悔しいけど、気がつけば気分はすっかり軽くなっている。 バスタブに腕をかけ、そこに顎を乗せて目を閉じた。 自分で自分を奮い立たせることもできないのかと、考え出せばきりがない。情けないと 落ち込むことは、もう止めにしよう。 せっかく気分が上昇したのだから、ここから頑張ることを第一に考えればいい。 振り返るんじゃなくて、前を見ないと。 ……守ると言われて嬉しくないはずはない。 コンラッドが言ったように、前回のときとは違う。 本当は、すごく嬉しかった。 だけどやっぱり、コンラッドの剣は有利を守る事だけに専念して欲しいことも、本音で。 「つまりは、やっぱりわたしが強くなれば問題ないんだよね」 その道のりが遠いんだけどね。 お風呂から上がってくると、着替えを下着しか持ってきていないことに気がついた。 汗を吸っている服を着る気にはなれないし、部屋にはだれもいないんだからまあいいか と下着だけ着て、バスタオルを巻いて浴室を出たら。 「やあ、。刺激的な眺めだね」 なぜか、ベッドの端にコンラッドが座っていた。 「か、帰れって言ったのに!」 慌てて脱衣所に逆走。 「やだなあ、俺は承諾してないよ?」 ドア越しに、確信犯の含み笑いが聞える。 「屁理屈だー!!部屋から出てって!」 「着替え、持っていこうか?」 「勝手に人のクローゼットを漁らないっ!」 「はいはい。じゃあ寝室の外で待ってるから、着替えたら呼んでくれ」 ドア越しに、コンラッドが出て行ったらしい物音を聞いてからそっと扉を開けて確認する。 確かにいない。 ダッシュでクローゼットに駆け入ると、適当にシンプルなワンピースを探し当てて着替える。 コンラッドが待っているから、髪は後回しにして急いで寝室の扉を開けた。 「そっち行くね」 扉を開けると、ソファーに座っていればいいのに、コンラッドは腕を組んで壁にもたれて 待っていた。わたしがリビングに出て行くと、後ろから人の身体を抱き寄せる。 「洗い髪がいい匂いだね」 「な、なんか、その、それってちょっと……」 こんな態勢、有利となら全然平気だけど、コンラッドにされると引きます。 恥ずかしいというか、なんというか……。 「か、髪括るから、はーなーしーてー!」 人の抗議なんて聞きもしない。コンラッドはそのままわたしを抱き上げて、ソファーに座る と小さな子供にするように、わたしを自分の膝に落ち着けた。 「そんなに嫌がらなくても」 「だ、だって……」 恥ずかしいよ、と言いかけた言葉をとっさに思い浮かんだ言葉にすり替えた。だって、 恥ずかしいなんて言っても、コンラッドが喜ぶだけだし! 「お、お父さんと一緒にいるみたいだもん」 こんな態勢でお父さんと一緒に座ったのなんて、もう十年以上前だけどね。 予想通り、コンラッドは笑顔のままでぴしりと固まる。 今のうちにとコンラッドの腕から抜け出して、テーブルを挟んだ向い側に移動した。 そんなわたしを見て、コンラッドは軽く溜息をついて肩をすくめる。 「そこまで嫌がられると傷つくなぁ」 「嫌というより、恥ずかしいの」 コンラッドの側を離れたので安心して本音を告げると、嬉しそうな笑顔に変わった。 だから……そう顔に出されると、わたしがひとりでとんだ我儘を言っているような気に させられる。 「じゃあ、が湯上りを特別に意識しなくていい場所に行こう」 いえ、別に湯上りだから恥ずかしいわけではなくて、あの態勢自体が恥ずかしいん ですけれど。 「って、意識しない場所って……」 「温泉旅行に」 ふ、ふたりでっ!? |
有利とは別々に誘われたので、こんな誤解が……(^^;) |