目の前が真っ暗になったのかと思った。

有利も会っているのだから、その名前が出てもおかしくはないと思っていたのに、実際に

そうなってみると、声も出なかった。ポーカーフェイスもできなかった。

シャスと、ジルタ。

だってまさか、その娘に、母親に、会う……なんて。





032.滲んだ空の色(3)





泣き崩れるノリカさんを連れて建物の方に戻った。とりあえず、出発までもう一眠りしろと

いうコンラッドに従ってのことだ。

ショックを受けてふらついたくせに何でもないと繰り返すわたしに、ヴォルフラムは疲れて

いるのだと言い、有利は気遣わしげな何か言いたげな顔をしながら黙ってそれを支持して

頷いた。

コンラッドの大きな手は、わたしの肩をずっと摩ってくれた。

有利の魔術で壊れなかった比較的マシな建物と言うと、あの事務所のような場所。

ロッキングチェアを建物の中に引っ張りこんで、有利をそこに寝かしつける。

「やっぱりここはに譲るよ」

「だめ。有利は大掛かりな魔術を使って一番疲れてるんだよ。しっかり眠って、少しでも

体力を回復しなくちゃ」

ふらついていたら足手纏いになるよ、と脅しつけるとようやく諦めたようにロッキングチェア

に身を沈めた。

その有利に毛布をかけると、ヴォルラムもすぐ近くで毛布に包まって座り込む。

法術が強い場所は魔力の高い者には負担が大きいと言う話だから、ヴォルフラムも相当

参っているようだった。

も眠って」

コンラッドが毛布を肩に掛けてくれる。

眠りたくなかった。

この近くにノリカさんがいることを考えると、今眠ったら見る夢は決定しているようなもの

だから。

怖い。

自分のしたことだけど、自分のしたことなのに、自分のしたことだから。

怖い。

震えていた小さな身体。

怒りと恐怖に打ちのめされた表情。

わたしは、それを知っている。

見たから。

昨日と、そして。

「コンラッドは?眠らないの?」

今、何でもない振りができたのだろうか。

毛布をかきあわせて、斜め後ろを振り仰いだ。

「俺はもう一仕事。本当に短い時間しか取れないから、もすぐに眠ってくれ」

「うん、わかった」

コンラッドが大きな掌でわたしの頭を撫でて事務所を出て行くと、溜息をついて床に座り

込んだ。

有利とヴォルフラムはもう眠っている。ふたりとも、とても疲れているんだ。

コンラッドが残していった明かりは、ランプひとつ。それも最大に光度を押さえているので

事務所の中は薄暗い。

身体はひどく疲れていて、有利に言った言葉じゃないけど足手纏いになりたくなければ

眠らなくてはいけない。

だけど眠りたくない。

立てた膝を抱えて顔を埋めながら、無理やりにでも眠ろうと目を閉じた。

夕闇が。

瞼の裏に迫る闇に小さな悲鳴を上げて顔を上げた。

心臓が鷲掴みにされたように、痛い。

有利とヴォルフラムは、この物音で目を覚まさなかったようだ。よかった。

事務所の中の薄明かりは、まるで夕暮れ時を思わせて、矢も立てもたまらずに毛布を

ローブ代わりにして事務所から出た。

外は一面の闇だった。

ほっとする。

わたしは闇が怖い。

だけど、時々それ以上に夕暮れの赤い空が怖い。

夕暮れ時は、逢魔が時とも言うんだっけ。

人の住む日の時間と、この世のもではない恐ろしいものが跋扈する闇との境界線。

ああ、あの子にとっての恐ろしいものはわたしなんだ。

夕暮れ時の、恐ろしい化け物。

ウッドデッキの階段に腰をかけて、闇の中を動く松明の明かりを見る。

遠くに動くその明かりは、まるで夜空の星を思わせた。

有利はすべて話しても、わたしを軽蔑したりはしないだろう。

ただ、悲しそうな顔をするだけで。

つらかったな、ごめんな。

きっと捕まった自分のせいだと、そんな風に言うだろう。

そんな言葉を聞きたいわけじゃない。有利に、そんな顔をさせたいわけじゃない。

ヴォルフラムはどうだろう。人間ごときにそんなに気を遣うことはないとか、元々そいつら

が悪いんだとか、言うだろうか。

密告はいけないことだけど、だからって脅迫が許されることでもないのに。ヴォルフラム

は人間が嫌いだから。わたしには優しいから。

コンラッドは……黙って背中を摩ってくれるかもしれない。

だけどもし。

もし、軽蔑されたら?

いくら情報を得るためだからって、子供を、あんな小さな子供を人質にとるなんて、と。

コンラッドはそんなことしないと思うのに、自分の行為の汚さを知っているから、断言でき

ない。

有利とは違う。

コンラッドは有利とは違う。

だから、有利の行動を想像するほどの確信を持てない。

怖いんだよ。

あの、優しい目がわたしを映さなくなることは怖い。

だけどそれ以上に、あの光彩を散らした瞳に嫌悪を込められたらと思うと、震えがくる。

膝を立てて抱え、そこに顎を乗せながら揺れる松明を見ていた。

震えているのは記憶の中のあの子なのか、それともコンラッドに嫌われることを恐れて

いるわたしなのか、よくわからない。

よく、わからない。




「そんなところで何をしている」

不機嫌な重低音が聞えて、思わずびくりと震えて顔を上げた。

いつの間に来ていたのか、松明も持たずにすぐ近くにグウェンダルさんが立っていた。

「何をしていると聞いているのだが」

ぼんやりと眺めるだけのわたしに苛付いたように声を険しくする。

「何って………」

何だろう。

わたしはぼんやりとグウェンダルさんを眺めていた。

舌打ちが聞えた。

足音荒く近付いてきたグウェンダルさんは、わたしの目の前で足を止めた。

止めたどころか、わずかに半歩下がる。

「お前は……」

苦々しい声に、焦りが含まれているようで、わたしは首をかしげた。

「お前は、何故私の前では泣いてばかりいるのだ!」

泣いて?

びっくりして手を顔に当てると、確かに何故か濡れていた。

何故って、泣いているから。

「だから何度言えば覚えるのだ、愚か者め!目を擦るなっ」

取りあえず涙を止めようと手の甲で擦ったら、グウェンダルさんが苛立ちを最大限にして

手を掴んで無理やりに降ろされた。

そのまま、わたしの隣に腰掛ける。

「それで、何故泣いている」

ズバンとストレート。直球過ぎて、絶好球を見逃した。ストライク、三振バッターアウト。

野球は好きじゃないのに、なぜか浮かんだ心象風景はそれ。有利の影響なのは間違い

ない。

打ち取られたわたしは、素直に白状した。

「自己嫌悪です」

「自己嫌悪?男が使う逃げ道だと散々アニシナに糾弾されたものだな」

グウェンダルさんが小さく笑った。

わたしが包まっていた毛布の端を持って、それでちょっと乱暴にわたしの顔を拭く。

「精々落ちるだけ落ち込めばよかろう」

そんな慰め方初めてだ。気を落すなとか、泣かないでとか、それならよく聞くけど。

グウェンダルさんは、涙を拭いた毛布の端をわたしに手渡した。

「グウェンダルさん………」

「なんだ」

わたしは毛布に顔を埋めながら、くぐもった声でお願いした。

「そこにいてくれる?」

応えはなかったけれど、隣から人が動く気配はなかった。







長男の優しさは不器用ですが、それだけに胸に染みます。



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