「どうしてあんたたち暑くねーのォ?」 後ろから有利の疲れきった声が聞えて振り返ると、コンラッドが笑って答えているのが 見えた。 「訓練かな」 グウェンダルさんもコンラッドも、その部下の人たちも、もちろんヴォルフラムさえもみんな 正式な軍人だ。素人はわたしと有利のふたりだけ。 わたしも相当暑さは堪えていたのだけど、有利はそれ以上だったらしい。 疲れが嫉妬を上回ったのを確認してから、馬の足を緩めて有利が追いつくのを待った。 024.狼狽した指先(1) 待っているわたしに気付いて、まだずっと後ろから有利は不満そうな声を上げた。 「なーんでもそんなに余裕なんだよ」 「余裕じゃないよ」 「涼しい顔しちゃってさ」 「心頭滅却すれば火もまた涼し。精神を集中すれば、ある程度の暑さは我慢できるの」 「集中力くらいでどうにかできたら、扇風機なんていらないんだよー」 有利は今時の高校生には珍しく、クーラーをまったくつけない。スポーツ選手に冷えは 厳禁だという主張から。なので有利と家の中ではほとんど一緒にいるわたしも、家では それほどクーラーと縁はない。有利ほど徹底してはないけどね。 「有利だって、炎天下でボールを追いかけて走り回ってるじゃない」 「追いかけて走り回るのはサッカーだ。おれはボールをキャッチするの」 「どっちにしても、練習中はランニングとかあるでしょ」 「あれは練習に集中してるからいいのォー。こんなに空気も乾いてないしィー」 「ほら、集中すれば大丈夫なんでしょう?」 「今は集中する白球もなければ、バットもないんだよ。ああほら、幻覚まで見えてきた」 有利が指差す方をみると、なるほど幻覚と思いたくなるのもよくわかる。 見慣れた色ではなくベージュと茶色だけど、あのツートンカラーはまぎれもなくパンダだ。 砂丘でパンダが万歳をしていた。 パンダが砂漠に生息するなんて聞いたこともない。だって主食は笹とか植物なんでしょ? ここはサボテン以外の植物なんてほとんどない。 ………まあ、猫がめえめえと鳴いたり、にゃーと鳴くゾモサゴリ竜という動物がいる世界 だから、パンダが砂漠いてもおかしくない。ちなみに、いまだにネグロシノヤマキシーの 鳴き声は知らない。 「有利、ここは地球じゃないんだよ。パンダだって生態が違うでしょ」 「なにがだ、ぼくには見えないぞ」 あんなにはっきり見えるパンダを見逃すなんて、ヴォルフラムって実は目が悪い? と、笑いながら言おうと振り返った時だ。 有利と、その前後を歩いていた騎影が消えた。 「有利っ!?」 わたしは蒼白になって馬を走らせようとする。 いきなり有利が消えて動転したのもあるけれど、その理由が蟻地獄のような砂の崩れに あると知ったからなおさらだ。早く引き上げないと。 「砂熊だーっ!」 蟻地獄から悲鳴が聞えた。 「待て!お前は止まれっ!」 蟻地獄の淵まで行って馬から飛び下りると、首根っこを掴まれて引き戻された。 ずっと先を行っていたグウェンダルさんだ。 「有利っ!」 ちらりと見えた染めた髪に、思わずじたばたと暴れると、後ろの砂地に放り投げられた。 頭から砂に突っ込む。 ちょっと、いくらなんでも扱いが酷い。アラビアのロレンス状態になっていなければ、今頃 髪の中まで砂塗れだ。 柔らかい砂に手をついてなんとか身体を起こすと、蟻地獄の淵になんとか留まりながら グウェンダルさんが必死になにかを掴んでいるようだった。 「なにこれ、こんなこと……そうだ、ヴォルフラムが!おれより先に落ちたんだよ、なあ みんな死んじゃう!?ヴォルフ死んじゃうのか!?」 有利の声だ。 わたしは溺れるようにばたつきながら、グウェンダルさんの横に這い寄った。 グウェンダルさんはちらりとわたしを見たけど、まさか自分から飛び込むとは思わなかった のだろう。なにも言わなかった。 有利はグウェンダルさんに腕を掴まれ、下からはコンラッドに膝を肩で押し上げてもらって いた。無事だったんだ。 「大丈夫、あいつを何とかして抜け道を見つけるまで息が保ちさえすれば何とかなります。 さ、陛下は早く登って!」 興奮する有利を宥めながら、コンラッドはグウェンダルさんと協力して有利を上に上げて いる。 「でも助けに行かないと!あんな大きな熊相手にヴォルフラム勝てるか判んないしっ」 有利が戻ろうとして、わたしは全身から血の気が引いた。だけど、ふたりの兄弟がそれを 阻止してくれる。 「お前が行って何になる」 「そうだけど、そうだけどさ!ほっとけねーじゃん!兄弟だろ、助けに行けよ、おれなんか より弟の腕を掴んでやれよ!なあコンラッド、あんたならアイツ、あの熊やっつけられる? 剣豪なんだから中ボスくらい倒せんだろ!?」 「おっしゃるとおりかもしれませんが、今は陛下を安全な場所へお連れするのが先です」 コンラッドは有利と目を合わせずにきっぱりと跳ねつけた。 「そんな口のきき方すんなよ!おれのことはいいから……」 「よくありません!」 一瞬だけ有利を見たコンラッドは、すぐに渦の中心に目を戻して慎重に有利を押し上げる。 声には苦渋が満ちていた。 「陛下が第一だ。それは全員同じこと。ヴォルフラムだって一人前の武人なんだから、 それくらいの覚悟はできているはずです」 「けどおれはっ……」 有利の目が、コンラッドから渦へと移る。 またコンラッドやグウェンダルさんを振り切って、渦へと戻ろうとしているのかと、わたしは ぎゅっと両手を握り合わせた。 「有利お願いっ!早く…早く上がってっ!!」 ヴォルフラムを心配しないわけじゃない。ヴォルフラムはわたしにとって、大切な友達だ。 まるで婚約者らしいことなんてしない有利なのに、わたしのことを妹なんて言って優しく してくれる、いい人だ。 だけど、だけどわたしは。 わたしは、有利の安全が第一なんだ。 どこまでも、汚くても、利己的でも。 有利が無事でないと、他のだれかに心が動かされることなんてない。 「お願い……有利っ」 わたしの今にも泣き出してしまいそうな懇願に、有利は顔を上げて。 そして俯いて、蟻地獄から這い登ってきた。 「有利っ!」 泣きついたわたしを、有利はぎゅっと抱き締めてくれる。 「けどおれはあんたに……弟を見殺しにするような人でいてほしくないんだよ……」 はっと有利を見上げると、厳しい顔でコンラッドを見ていた。 この表情は、重大な決意をしたときのもの。 「……さあ、早く離れないと。ここもいつ崩れるか判らないから」 「言ったよな」 有利が噛み締めるように、言い放つ。 「言ったよな、コンラッド。おれの命令で動くって」 「それは」 「言っただろ、おれのサインで動くんだって。だったら命令するから、ヴォルフラムを助け に行ってくれよ!おれはこのとおり大丈夫だし、強いのが一緒だから心配ないって!」 虚を突かれたような顔でグウェンダルさんを見たコンラッドの視線が、今度はわたしに 移った。一瞬だけ、躊躇の色が浮かぶ。 それに気付いた有利は一層わたしを強く抱き締める。 「ならおれが絶対に守る。心配するな、おれの大事な妹だ」 コンラッドは一度だけ確認するように、命令ですかと呟いてグウェンダルさんを見た。 「陛下とを」 「ああ」 落ち着き払っていたグウェンダルさんが、少しだけ安心した表情をした。やっぱりヴォル フラムが心配だったんだ。当たり前だけど。 だけど、コンラッドの決意に今度はわたしが眩暈を覚える。 この蟻地獄の中に、コンラッドは自ら飛び込む気なんだ。 有利の無事に引っ込みかけていた涙が浮かんで、コンラッドの方へ伸びそうになった 手を、懸命に引いて有利に縋りつく。 だけど震えまでは止めることができない。 「……」 有利が宥めるように肩を撫でて、コンラッドが微笑むように眉を下げた。 「大丈夫、心配しないで。あいつに会うのは三度目だ。弱点も、抜け道の作り方の習性 も知っている」 コンラッドの大きな手が、有利の腕の中のわたしの頬を撫でる。ぴくりと有利の腕が震え たけれど、なにも文句は言わなかった。 「必ず帰るから、泣かないで陛下と待っていて」 大きな手が離れて、そのすぐ後にコンラッドの唇の感触がした。 「ちょっ………」 「では、首都で」 思わず声を上げた有利に被せるように言うと、コンラッドは背筋を伸ばして、グウェンダル さんに目で挨拶をして、脆い斜面を駆け降りていった。 |
コンラッドとヴォルフラムのふたりとはぐれてしまいました。 長男と有利と三人旅。グ、グウェンの苦労が倍増しそう。 |