慌てて逃げ出すと逆に目立ってしまうだろうということで、ツェリ様の愛船『愛の虜』号は

明日の出発まで島の反対側に停泊することになった。この船はシマロンの富豪からの

贈り物で、船籍もシマロンになっているから魔族が逃げ込んだとは思われないだろうと

いうことだった。

船の名前を聞いて少しだけ笑った有利は、無理をして笑おうとしているようにしか見え

なくて、それがとても痛かった。





017.伝えたかった事(2)





こっちに来てから忙しくて、ぜんぜんランニングしていないと言い張った有利は、船を

陸地につけてもらって浜辺に走りに出てしまった。

本当はついて行きたかったけれど、有利は今ひとりになりたがっている。

それがわかっているからここはぐっと我慢して、デッキに上がる階段の下で手を振って

見送った。

ついていったコンラッドが羨ましい。同時に、コンラッドが一緒なので心配しなくていい。

複雑な気分で、部屋に帰る気にもなれなくてリック少年の様子を見に行くことにする。

もしも彼が目覚めていたら、代打ニック号でのことを口止めしておかないと。

あれもこれもと憂鬱な気分でその部屋のドアをノックしようと手を上げたところで、偶然

ヨザックさんがひょいと現れた。

「おや姫、おひとりですか?」

「ええ、有利はコンラッドとランニング中で」

ノックしようとして作った拳に力が入る。自分で傷を作った右手が痛んだ。

落ち着きなくわきわきと指が動くので、両手を後ろに回して組む。まるで休めの姿勢の

ようだけど、自分の手の甲にギリギリと爪を立てて休めもなにもあったものじゃない。

殴っちゃいけない。殴っちゃいけない。

あの会話を立ち聞きしたと教えることになるし、なにより暴力ではなにも解決しない。

有利の平和主義を庇うための手段が暴力だなんて、笑い話にもならない。

「あと少しで帰れますね。ヨザックさんにもお世話になりました……色々と」

でも腹が立つのはどうしようもないので、せめて本音と嫌味を混ぜた言葉を叩きつけて

みた。

「まあ、とにもかくにもオレとしては肩の荷が降りましたよ。このまま国許まではツェリ様

の船で何事もなく帰り着けそうですし、陛下にもお怪我はなかった。任務完了まであと

少し、ですからね」

陛下にお怪我はなかった、というあたりで思わず睨みつけてしまった。

ああ、もういい。

どうせこっちの言いたいことはバレてるんだから、拳を使わず言葉でバトルすればいい。

「その陛下を、選んで危険な目に遭わせたのはどなただったかしら」

「ああ、オレですね。でもモルギフは陛下にしか扱えないものですから〜」

こちらの怒りを煽るように、わざとシナを作ってポーズまで取るヨザックさんに、ぐっと歯

を噛み締める。

殴るな、怒鳴るな、喚くな。

激発した怒りや涙は思考を停止させてしまう。有利という人を誤解したままのこの人の

前でわたしがヒステリックに振舞えば、ますます彼は有利をも軽視するだろう。

「………なぜ、独断で動いたの?」

「残念なことに、隊長は陛下のこととなると冷静な判断力を失われるようなので」

「コンラッドが有利を危険な目に遭わせる提案に賛成するはずがないと、そういうこと?」

「姫は隊長が賛成したと思いますか?」

「思わない」

したはずがない。コンラッドは有利の安全を第一に考えている。

有利が手を下しかけたという状況もさることながら、今度のことは有利自身が怪我を負い

かねなかった。ううん、怪我どころか、殺し合いだったのだから……あるいは。

ぞっと背筋を走った悪寒に、ヨザックさんを殴らないようにと後ろで握り締めていた両手に

力が篭る。

「だから独断も仕方なく、ですよ」

「そう……仕方なく……」

仕方なく、有利が人を殺さざる得ない状況を作ったわけだと。

わたしは、にっこりと微笑んだ。自然に、力が入っていないように見えたらいいんだけど。

目の前のヨザックさんが驚いているから、たぶん成功しているのだろう。

「有利の妹として、もうひとつ忠告をしておくわね」

「……今度こんなことをすれば殺す、とかですか?」

それはコンラッドとのやりとりから出た言葉には違いないけれど、わたしをからかっている

のも明らかだった。

「有利を簡単に思い通りにできるとは、思わないことね」

「まさかオレごときがそんな大それたこと……」

笑って済ませようとしたヨザックさんの前で部屋のドアをノックした。子供の声で返事が

返ってくる。

「この子が、その証明でもある」

ヨザックさんが奇妙な角度に口を曲げた。笑いたそうな、あるいは怒り出しそうな。

海賊の手先として自分を危険な目に遭わせ、なおかつ殺そうとまでしてきた相手を有利

は助けるために連れて帰ってきた。

だたの甘い行動だと思う?

有利が深く考えて行動したわけではないのは確かだけどね。自分に危害を加えようと

していた相手を助けるためにとっさに動く。その行動ができるかできないか。

それは大きなことなのよ、グリエ・ヨザック。




「あ…あんた……」

笑顔の一瞥をくれてヨザックさんを廊下に残して部屋に入ったわたしに、リック少年は

怯えたようにベッドの上で身じろぎした。

「うーん、そう怯えられると困ったな」

後ろ手にドアを閉めて、そのままもたれ掛かった。近付けばさらに怯えさせてしまう。

「ま、魔族がなんの用だ」

「その魔族の保護がなければ、あなた処刑されていたのに?」

「保護!?魔族のくせになに言ってんだよ!お、オレをどうするつもりなんだよ!」

「さあ?有利はあなたを放っておけなかっただけだから、どうするかなんて考えてない

と思うけど」

「ど、奴隷にでもして死ぬまで扱き使うつもりか?それとも、く、食うつもりなのか?」

「食う?」

あまりにも意外な発言に唖然としてしまった。

魔族って人間を食べるの?

魔族について知識がないから、ひょっとしてそんな種族もいるのかしらと首を傾げる。

「そう言うからには、だれか食べられた人を知ってるの?」

「知るかよ!だけど魔族は恐ろしく残忍で冷酷で……」

「残忍で冷酷で…って、じゃああなたは有利以外にも魔族に会ったことあるんだ?」

「……な、ない、けど」

「有利は残忍で冷酷だった?」

「オレがだれのせいでこんな怪我してると思って……っ」

「そう。じゃあ、あなたはまるで無抵抗だったのね?」

笑顔で訊ねると、リックは口を閉ざして黙り込む。

有利は肩に刀傷を負っていた。それが答えだろう。

「あなたは、その目で見たものを信じているの?それとも人から聞いた話を真実だと

信じているの?」

「魔族のくせに!」

「魔族は残忍で冷酷?ああ、あなたにとってはそうかもね。せっかく略奪行為が上手く

いきそうだったのに、罪のない乗客を助けたのは有利だもの。あなたにはひどい話よね」

「オレは…そうじゃなければ……金持ちから取り返してなにが悪いんだよ!?あいつら

はオレたち平民から奪うだけ奪って、好き勝手にしやがって……っ」

「豪華客船を狙ったのは義賊を気取って?それとも実入りがいいから?」

再び反論しようとしたリックは、結局声を発することなく今度こそ黙り込んだ。

「わたしが世間知らずだと言われたら、反論しようはないけどね。でもそれならあなたは

なにを知っているの?なにを見てきたの?あなたがだれかから聞いた知識は、本当に

正しいの?」

「……魔族のくせに」

それが唯一の証拠だと言う様に、噛み締めた歯の間から絞り出された一言に溜息が

漏れる。

だけど、ほんの少しだけさっきよりはその力は弱かった。

「傷が治るまでは有利はあなたを保護すると思うよ。その後のことは知らないけれど、

その間だけ。あなたが知っている人間は偏っているかもしれないけれど、傷が治るまで

の間だけ、魔族の偏った例を見てみるのも悪くないと思うな」

偉そうに言ったって、わたしだって知っている魔族はごく少ない。

有利を入れても、他にはコンラッドとヴォルフラムとヨザックさんとツェリ様だけ。グウェン

ダルさんとギュンターさんはまだどんな人かもよくわからないし。

この世界で言う人間に到っては、知り合いすらいない。

だからこそ、相手を知ろうとすることは大切だと思う。

「……オレを殺さないの?」

「殺す相手をわざわざ連れ出す意味ってあるの?」

笑ってそう言うと、リックは本当に困ったように、居心地が悪そうに俯いた。

それではようやく本題に、と口を開いた瞬間。

「ユーリ!」

ノックもなしに開いたドアに弾かれて、つんのめりながらも転ぶのだけはどうにか避け

られたけれど、思い切り舌を噛みました。

ヴォルフラム、酷い。

か?そんなところで何をしている。それよりユーリはどこだ!?」

「ちょちょちょちょ………」

肩を掴んでガクガクと揺さぶられる。そんなことされたらしゃべれません。

「くそっ!どこへ行ったんだ!こんな事態だというのに!」

わたしが知らないと思ったのか、そのまま部屋を飛び出していこうとしたので慌てて

服の裾を掴んで引き止めた。う、まだ目が回ってる。

「ゆ……ゆう…り、なら……はまべ……」

「浜辺!?ひとりで島に戻ったのか!?」

「ら、ランニングに……コンラッドが、ついてるから」

「なにぃ!?あの尻軽!また他の男とふたりきりなどと!」

「こ、こんな事態って、なにかあったの?」

ようやく眩暈が治まってきて、頭を抑えながら訊ねると、驚くべき答えが返ってきた。

「モルギフが壊れた!」

………どうやって?







相互理解はなかなか難しいです。
だからこそ、意識して知ろうすることも大事なのかもしれません。



BACK 長編TOP NEXT