幸いなことに、山頂の釣堀には白い塗装の剥げたボートが放置されていた。

もう限界だったヴォルフラムをさっきの茶店近くの宿に残し、四人でようやく頂の泉まで

辿りついた。

有利はわたしにもヴォルフラムと留守番しておけよと言ってきたけれど、そんなこと到底

聞き入れられるはずもない。

……だってヨザックさんは有利と一緒に行くのに。

彼が有利に害意を抱いているわけではないだろうとは思うし、コンラッドだっているの

だから心配はいらないとは思うけど。

それでもどうしても前を行くヨザックさんの背中を睨みつけていたら、有利が指先で肩

を突いてきた。

「なあに、有利?」

振り返ると、ものすごく複雑そうな顔をして有利がわたしを見て、それからヨザックさん

の背中を見る。

「なんかさっきから、ヨザックに熱視線送ってない?」

ぎくりと震える。

有利はさっきのヨザックさんの発言になにも感じていなかった。わたしが勝手に不審を

覚えたわけで、基本的に人を信じる有利にはあんまりこんな感情を知って欲しくはない。

だけど、それは杞憂だった。

「ま、まさかあの女装癖のある男が気に入ったとか、恐ろしいこと言わないよな!?

大人の男が怖くても、大人のオカマなら大丈夫とか!?」

ほっとしたのか、呆れたのか、自分でもわからないけれどがくりと肩が落ちた。

呑気にもほどがあるよ有利……。





014.君がため(2)





簡単なバリケードを越えると、入り口からすぐに洞穴になっていた。壁も天井も剥き出し

の岩。広いし天井も高いから圧迫感はなかったけれど、外の光は届かないのでカンテラ

は必須。水温が高いらしく、洞窟の中は湯気で白く靄がかかっていた。

「俗に言う、洞窟風呂の大規模なやつだな。温泉テーマーパークにあったりする……」

オールを漕ぐのはコンラッドとヨザックさんに任せて、周囲を見回していた有利は呑気に

ぐるりと洞窟を見回してそんな感想を漏らす。

「ちっ」

オールから湯が跳ねたらしく、コンラッドが手の甲を押さえた。

「大丈夫?」

この湯気だし熱湯なのかもしれない。押さえていた手をどけてコンラッドの手の甲を見て

いると、あっという間に水ぶくれができあがる。

困ったな。火傷は冷やすのが一番なんだけど、ここには当然水も氷もない。

「そんなに熱いの?まさか熱湯風呂!?」

そんなことを考えていたら、有利があっさりとお湯に手を差し出す。

「有利、危ないっ」

まさかそんなことするなんて思っていなかったからびっくりしてコンラッドの手を放り出して

有利の手を引いたけれど、もうお湯に浸かってしまっていた。

だけど有利は熱がりもせずに首を捻るだけ。

「ほどほどじゃん」

「平気なんですか?」

手を摩りながらちらりとわたしを見て、コンラッドも首を傾げる。

ご、ごめんなさい。火傷してるのに放り出したりして。

咎めるわけでもなく、どちらかといえば苦笑の表情のコンラッドに心の中で謝っていると、

お湯から手を上げた有利が悲鳴を上げた。

「平気も何も……ぁいてっ!!」

「有利!?」

有利は慌てて涙目で服の上から太腿を擦る。

「うわぁやばっ!あつっ!ビリビリすんぞ!?なんで素手で触って熱くなかったんだ?」

「俺は手も痺れましたよ。ほら、腫れてきてる」

コンラッドの腫れた手の甲を見て、有利は首を捻りながら今度は靴を脱いで素足を恐る

恐る水面に降ろす。

「……大丈夫だ……」

「まずいな」

「どして?」

コンラッドの呟く意味がわからなかったらしく、有利は呑気に首を傾げた。

「あのね有利、素肌は大丈夫で服の上からはだめだということはね……」

説明する前に、この騒ぎの中で慎重に漕ぎ進んでいたヨザックさんが、左手の照明を

高くかかげる。

「銀のピカピカが見えてきたぜ!」

店の人の話の通り、銀色に光るものは洞窟の最奥の岩壁に寄りかかるようにして沈ん

でいた。

コンラッドは申し訳ないがと前置きしてから、わたしが説明し損ねていたことを言った。

「服を脱いでください」

「えええええええっ!?」

「いや、そうじゃなく、湯に入ってもらわないとならないので、服を着ていると逆に被害が」

「ああ、そ、そーゆーこと」

ものすごく動揺した有利は、理由を説明されて納得したようだ。手早く上着を脱いで、

シャツに手をかけたところで、急にわたしを振り返る。

「……は後ろ向いてろ」

「え?今更じゃない?」

「そーすよ、陛下。風呂も一緒に入ってるんでしょ?」

「風呂とこれとは別!風呂はお互い素っ裸だから恥ずかしくもないんだよ!」

「目的があるのは一緒だと思うけどなー」

ともかく有利なりにこだわりがあるらしいので、ボートをできるだけ揺らさないように気を

つけて入り口の方に向けて座り直した。




有利が服を脱ぐ衣擦れの音がしなくなると、コンラッドの心配そうな声が続く。

「気をつけて。足を滑らせたりしないように」

さすが名付け親。小さな子供に注意するんじゃないんだから……。

有利がどうしているのか見えないから、ひとり膝を抱えて湯気ばかりの洞窟をぼんやり

と眺める。

なんか空しい。

「大丈夫ですか?痺れるとか、そういうのは」

相変わらず心配性なコンラッドに有利は、わざと軽口を叩く。

「ちょい熱めでいい感じ。血圧の高い人は要注意ィ」

有利がお湯の中を進む水音を聞きながら、ぼーっと天井を眺めていたら、それは唐突

にきた。

「ぎゃ!」

「どうした!?」

「有利!?」

有利の悲鳴が聞こえて思わず振り返る。

有利のいる場所の水位は充分な深さがあったらしくて、鳩尾まで浸かっている。

まるで溺れているように暴れながら有利が二、三歩下がったのを見て、思わずお湯に

飛び込みそうになった。

!」

コンラッドが慌ててわたしの襟首を掴んで引き止める。

ボートが揺れて、縁を掴んでいた指に小さな飛沫がかかった。

「っ!」

痛みに悲鳴を上げそうになってぎゅっと唇を噛み締める。

お湯はかかったか、かからなかったか、その程度だったのに、指先がビリビリと痺れた。

それに怯んだ一瞬のうちに、後ろからコンラッドに抱きすくめられてしまった。

飛び込んでしまったりしないように用心したんだろうけれど、今はつい動いてしまった

だけで、そんな無謀なことはもうしません。

それでも離してと抗議するより有利の方が気になって、その背中に視線を戻す。

有利の悲鳴はお湯のせいではなかったようだ。

もう一度、恐る恐るという感じで屈みこんでお湯に浸かる。

だけど。

「うぎゃ!咬んだ咬んだ、なんか魚みたいな口がおれの指を咬んだ、絶対咬んだっ!」

跳び後退りした有利は、水中を覗き込んで更に悲鳴を上げた。

「ぎゃー顔が!顔が顔がぁぁぁ!」

店主の人から聞いた話と同じように、顔がと叫んで更に下がる。

顔がって、まさか顔に火傷でも!?

再びボートの縁に手をかけて身を乗り出すと、コンラッドに縁を掴んだ指を力任せに引き

離されて、身動きができないように腕ごと抱き締められた。

「聞いてねーぞ!?おれこんなヤバイやつだなんて全然聞いてねーかんな!これ絶対

に呪われる!触ったら誰でも呪われる!」

触ったらって、聞いていないって。

「魔剣のこと?」

わたしの小さな呟きに、錯乱している有利が答えるはずもない。だけどどうやらそれで

正解のようだった。

「やだよーこんなスクリームの悪役みたいな奴ぅ!しかも困った系も入ってる!」

有利の悲鳴はもう涙声で、側に行きたくて焦れるわたしの上でコンラッドも焦ったように

有利に呼びかけた。

「しっかり、陛下、落ち着いて」

「だって咬んだんだぜ!?こいつこんな、ヒトに見える壁のしみみたいな顔してからにさ、

おれの人差し指を咬んだんだぜ!?ああおれもう絶対に呪われたっ!」

「判った、ユーリ。無理ならいいんだ。他の手を考えよう。落ち着いて、ゆっくり歩いて、

戻ってくるんだ」

有利はコンラッドの言葉に従って、少しでも呼吸を整えようとしている。

ただ有利が心配で、それだけだったわたしの耳にヨザックさんのどこかからかうような声

が聞こえてきた。

「戻っておいで陛下、危険なことはしなくていい。戻っておいで早く」

こんなところで有利を挑発するなんてなに考えてんの!?

怒鳴りつけようと振り返ったのに、次の言葉を聞いた途端、喉が張り付いたのかと思った。

「危ない橋は兵隊が渡るから」

血の気が引いた。

もうもうと湯気の立つ洞窟で、冷水を浴びせられたような寒気と冷や汗。相変わらず喉は

張り付いたみたいで、声を出すどころか息をすることすら困難になった。飲み込む唾もない。

「……無責任だっていいたいのか?」

押し殺した有利の声が洞窟に響く。

「ユーリ、いいから」

コンラッドは焦ったように、わたしを抱きすくめていた腕の片方を有利に向かって差し出した。

「おれが無責任だっていいたいのか!?」

だけど有利はそこから一歩も動かずに、水中を睨みつけるようにして怒鳴りつける。

「オレっぁそんなこと言ってやしませんよ、陛下。早く戻ってきてくださいよ。こんなとこから

はさっさとおさらばしましょーよ」

揶揄するようなその声を聞きたくない。

耳を塞いでしまいたかった。

「……あんたに何が解る……」

「ユーリ、こっちに……」

「あんたに何がわかるってんだ!?」

有利の怒鳴り声は、まるで悲鳴のようだった。

心臓が、痛い。

「解りませんね、オレには陛下がどんなお人柄なのか全然わからない。陛下がどんな

お気持ちなのか、どんなお考えなのかも皆目わからねぇ」

抑揚のない声色は、胸に刺さる。

もうやめて。

有利が苦しがっている。

有利が傷ついている。

もう聞きたくない。

「たとえどんなお方が魔王になられても、オレたちは黙って従うだけだ。兵士も民も子供も

みんな、王を信じて従うだけなんですよ」

「――――っやめて!!」

そう叫んだのがわたし自身だと気付いたのは、悲鳴の残響が消えてからだった。




泣いちゃだめだ。

泣けばさらに有利を傷つける。

「………もうやめて……聞きたくない」

だけど声の震えを押さえることができなかった。

涙を堪えようとボートの底を睨みつけ、耳を塞ぐことを耐えるためにいつの間にか両手で

握り締めていたコンラッドの腕に縋り付く。

ヨザックさんは今にも泣き出しそうなわたしに呆れたのか、それとも言いたいことを言い

終えていたのか、黙ってオールを持ち直す。

コンラッドがわたしを宥めるように一度強く抱き寄せて、それからわたしをボートの縁から

遠ざけるように後ろに回しながら、自分は身を乗り出して有利に向かってできるだけ手を

伸ばす。

「ユーリ」

今度こそ声を平静に戻そうと一度だけ深呼吸をした。

「もう帰ろう、有利」

それでも声は、微かに震えていた。

コンラッドが更にボートから身を乗り出して、今度はわたしがその服の裾を掴む。

有利は、水面を見つめながらそろりとようやくこちらに向かって歩き出した。

ボートに上がってきた有利を抱き締めたかったけれど、お湯で濡れているから危険だと

コンラッドも有利自身もそれを許してくれなかった。

コンラッドとヨザックさんが再びオールを漕いでいる間に濡れた身体を拭いて、服装を

整えた有利の手をそっと握り締めた。

有利は一度だけ震えたけれど、わたしの手を振り払うことなく握り返してくれる。

洞窟から出て、宿に帰り着くまで誰も口を開かなかった。

有利が、有利だけが悪いんじゃない。

そう言いたくて、でもそれは口にしてはいけないように思えて、少しでも有利にその

思いが伝わればと、強く強く手を握り締めた。

有利の手には、バッドを振るためにできた肉刺がいくつかある。

それは、刀を握るわたしのものとは位置がまるで違っていた。

真剣を手に取ったことのあるわたしでも、だれかを傷つけることにこんなに怯えるのに。

武器なんてなければいいと心から信じている有利。

そんな有利をこれ以上、追い詰めないで。




―――でも、それなら有利以外の人が、危険にさらされるのは、問題ない、と?









ヨザックの気持ちもわかるし、有利の気持ちもわかる。
見ているしかできないのはつらい場面です。



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