有利から不思議体験の話を聞いて一ヶ月。

眞魔国とやらでなにやら思うことがあったのか、有利は中学のクラブ活動を辞めて以来

ご無沙汰だった野球を始めてしまった。

それも、学校の部活じゃなくて、自ら主催の草野球チームで。

有利が元気になることは喜ばしいけど、野球を始めたせいで家にいる時間が減った。

かなり減った。

今まではわたしが道場から帰ってくる頃には有利は家にいて、どちらかの部屋でゴロゴロ

と寝転んで過ごしたり、わたしが宿題を教えたり、はたまたお兄ちゃんの部屋でゲームを

したり、あるいは野球観戦中の有利の膝に頭を預けて読書と、ほぼ家の中ではべったりの

生活だったのに。

有利が大好きな野球を嫌いにはなれないけど、好きかと言われれば、有利を奪うから好き

じゃない。

おまけに、酷い目にあった原因の村田くんとなぜか仲良くなっていて、草野球やプロ野球

観戦に誘ってはふたりで出掛けてしまうのだ。

許すまじ村田健。

わたしの心はいまや野球と村田くんに対する嫉妬でメラメラと燃えているのだった。



001.珍しい出来事(3)




「ただいま〜」

玄関に入り、肩に食い込んでいた胴着と刀袋を降ろすと安堵の溜息とともに帰宅を告げた。

「お帰り、ちゃん」

ちょうどキッチンにいたらしいお兄ちゃんがひょいと顔を覗かせる。

大学生は家にいる時間が予測できない。

お兄ちゃんのことは好きだけど、それよりも有利のことはもっと大好き。

「ただいま。お兄ちゃん、有利は?」

靴を脱いで玄関先に揃えて上がると、空になったグラスを持っていたお兄ちゃんは少しだけ

寂しげに元々下がり気味の目尻をもっと下げた。

「お兄ちゃんよりゆーちゃんか………」

小さく呟いた声は軽く無視する。

どうせお兄ちゃんだって、わたしが家にいて有利の姿が見えなければ同じ質問をするのだ。

渋谷家は有利とわたしを中心に回っている。真の実力者はお母さんだとしても、だ。

「ゆーちゃんなら、にわか友達の村田とかいうやつと、草野球の練習の後に試合観戦に行く

と言っていたぞ」

「え―――!!また村田くん!?」

わたしの嘆きは同感らしく、麦茶を注いだグラスを差し出しながらお兄ちゃんも何度も頷く。

「ゆーちゃんが生き生きするのはいいことだが、どうも最近村田とやらが目障りだな」

「う〜ゆーちゃん、今日は一緒に宿題する約束したのに〜〜〜」

ちゃん、宿題ならお兄ちゃんが一緒に………」

「いい。わかるから。できないのは有利だもん」

受け取った麦茶を一気に飲み干して喉を潤すと、鍛錬でかいた汗を流すべく着替えを

取ってきてお風呂に向かう。

「背中流そうかー?」

「いらない。お兄ちゃんのエッチ」

浴室のドアを閉じる寸前に、お兄ちゃんの不満げな呟きが聞こえた。

ちゃん………ゆーちゃんとは一緒にお風呂に入るのに、なんでお兄ちゃんはだめ

なんだ………」

だってお兄ちゃんは、有利じゃないもの。




ユニットバスにお湯を張りながら、先に身体と髪を洗って泡を落とした。

ちょうど洗い終わる頃にお湯も張り終えて、鍛錬で疲れた身体をゆっくりと横たえた。

「う〜〜気持ちいい…………」

ここで有利なら極楽極楽などと呟く。

凝った筋肉を揉み解して、バスタブに浮かぶようにしながら天井を見上げる。有利より

少し背の低いわたしなら、足を伸ばしきることもできる。

天井には水蒸気でできた水滴がいくつも付いていた。

「いーち、ゆーちゃんのはくじょーもの。にー、ゆーちゃんの約束破りー。さーん、ゆーちゃん

の野球ばかー」

ゆっくりと数を数えながら、有利への悪態を付け足す。

「あーあ………寂しいのはわたしだけなのかなぁ……」

有利は野球に夢中だから。

昔みたいに、もっと有利と一緒にいられたらな。

お湯から上げた手は、刀と弓を引く蛸ができていて、他の同年代の女の子よりずっと厳つい。

厳ついといっても、わたしは元々小柄なので手もそれほど大きくないし、いくら鍛えても

あまり筋肉の付かない体質らしくて、腕だって引き締まってはいるけど筋肉ムキムキでは

ない。もっと筋肉がついたら、強い弓も引けるし、刀の振りも鋭く早くなるのに。

初潮を迎えて第二次性徴に入ってからは、胸もそれなりに張って大きい方だし、細身とは

いっても全体的に有利よりは断然ふっくらしてきて、確実に身体は変化していっている。

自分でも言ったけど、兄妹なんていつかは離れ離れだ。一生の別離でなくとも、どちらかに

恋人ができて、それどころか結婚でもして家を出て行けば、離れる距離も時間も今の比

ではない。

身体に、心が付いていっていないように思う。

元々二卵性だからか、有利とは瓜二つというほどではないけれど、お互いに母親似だった

から、お兄ちゃんとは違って一目で兄妹とわかるほどには似ている。

小さい頃は、もっと似ていた。

身体を起こして、正面に備え付けられた鏡を覗き込む。

蒸気で曇った鏡を軽く手で拭くと、そこにいるのはどう見てもわたし。昔みたいに髪が長い

だけの有利とはいえない。

まだまだ少年らしさの方が目立つ有利とは、どうやっても間違えようもない。一緒なのは

烏の濡れ羽色の漆黒の髪と、深淵の闇を思わせる漆黒の瞳。これだけは、他の家族の

だれもよりも、わたしたちだけが濃い色なのだ。

「さみしいよ………ゆーちゃん……」

まるで、見えない力に、どんどん双子の兄から引き離されているようで。

見えない、時間という力に。

「そう……どんどん引き………込まれてる!?」

水流を感じて鏡から視線を落とすと、いつの間に栓が抜けたのかお湯が渦を巻いている。

渦を巻いて……いるのに、量が減っているようには見えなくて………。

ぐらりと身体が傾いだ。

「え、ちょ、ちょっと………」

お風呂の脱水溝に引き込まれるなんて………。

「ありえなーーーーい!!!」

ぐるんと視界が反転した瞬間、頭の中に声が響いた。

―――お帰り

お帰り?ってどこに。

―――幸運を祈る

って、なにが?





ようやく眞魔国へご招待。
勝利兄さん好きなんですけど、扱いが。ごめんね(笑)



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