波の荒い海域はすぐに抜けた。
何しろ海流が穏やかになる直前まで貨物船で進んで、救命艇を降ろした地点ではほとんどすぐ近くに海の色が変わる線があったわけで。
それにしても、どうやったらこうなるんだろうというほど海の色が綺麗に二分されていて、そこから一気に波も穏やかになった。これは異世界だからという問題なのか、それとも聖砂国がそれほど特殊な国なのか。
ただ波が穏やかになろうとも、向かう方向まで変わるわけじゃない。潮の流れとは逆に進もうとしているので、漕ぎ手の人は大変だ。
「あ、おれ代わるよ。ときどきは交替しないと大変だもんな」
有利は気軽に手を上げて、腰を低くした体勢でできるだけ船を揺らさないようにしながら櫂を握る一人に近づいて行く。
「あ、ちょっと陛下!?」
ヨザックさんが慌てて追いかけて止めているけれど、有利は納得できないと首を振る。
「だってさヨザック、おれたち居候だぞ?船漕ぎの手伝いくらいして当然じゃん」
たぶん有利は、神族の人たちのためとはいえ自分の嘘でこの状態になったことに対する罪悪感もあるんだと思う。
それならせめて自分が代わるからと言うヨザックさんの訴えにも、日が暮れ始めて寒いから身体を温めるためにもとか言って結局、戸惑う小シマロンの船員の人から櫂を半ば奪い取るようにして船を漕ぎ始めた。


105.いつか、また(1)


有利らしいといえばどこまで有利らしいわけなんだけど、額を押さえて有利の後ろの人から櫂を預かって漕ぎ始めたヨザックさんには心の中で謝罪しておく。
厄介な兄妹でごめんなさい、ヨザックさん。ただでさえ一人で二人分の護衛って大変そうなのに。
せめて傍に固まっておくほうがいいかとわたしも有利の傍に移動しようと腰を浮かしたら、後ろから手を掴まれた。
「あなたは縁に近づくなと言ったでしょう」
「あなたに命令されるいわれはありません、ウェラー卿」
掴まれた手を振り払おうとしたのに、がっちりと掴まれて外れない。コンラッドと一緒にいるとヨザックさんや有利に心配をかけるし、躍起になって腕を振っているとコンラッドの近くに座っていたサラレギー王が首を傾げた。
、それはなにかの遊び?」
ち、力が抜ける。サラレギー王の呑気な言葉に、思わず床にへたり込んでしまった。
「違……」
違うと否定する前に、コンラッドが掴んでいるのとは別の左手首をサラレギー王に掴まれてぎょっとする。寒さのせいか、触れた手は冷たい。
「だったらわたしも混ぜて欲しいな。何もすることがなくて暇なんだよ。ああ、それにしても本当にの手首は細いねえ。わたしの手でも指が余ってしまうよ」
「へ……陛下っ」
まるで手首の周囲を測るように巻きついた指を反射的に振り払いそうになった。
けれどこれが本当に遊びだと思っているのか、それともわたしをからかっているのか、サラレギー王は楽しそうに笑って指に力を入れる。
「ほら、もっと頑張らないとわたしの手は離れないよ」
手は離して欲しい。けど、振り払うなんて失礼なことをしそうになったのを遊びだと捉えてもらえれば助かる。でも離して欲しい。
どうしたらいいのか困り果てて、でもこんなことくらいは自分でどうにかできないといけないんだと、知恵を振り絞って対処を考えていたらわたしの左手を掴んでいたコンラッドの手が離れて、そっとサラレギー王の手に伸ばされる。
それを跳ねつけるようにしてしまったのは何故なのか。
自分でも理由は判らないままに、自由になった左手でコンラッドの手を払って、サラレギー王の手にはわたしの手を重ねた。
驚いた顔をするサラレギー王ににっこりと微笑んで、重ねた手でサラレギー王の手の甲を擦った。
「すっかり手が冷えてしまっています」
我ながらすごい言い訳で、驚いて力が緩んだサラレギー王の手を手首から外すと、両手で包むようにしてその手を握る。
「暖めたほうがよろしいかと思います。ウェラー卿、陛下になにかもう一枚羽織るものは用意できますか?」
「……ええ。少々お待ちください」
コンラッドが腰を浮かして船の端に積んであった箱に寄った。
サラレギー王はわたしが握った手をじっと見て目を瞬いた。それに初めて気づいたような振りで、両手を離して恐縮したように頭を下げる。
「あ……申し訳ありません陛下。陛下の御身になにかあれば大変だと思ってつい……」
咄嗟の行動に落ち着きがなかったことを恥じ入ったような演技で手を引っ込めてしまう。
今までと態度が違うんじゃないかという演技に、自分でもわざとらしくてツッコミどころ満載だ。サラレギー王に対してこんな気弱キャラで接してはいなかった……よね?
自分で対処しなくちゃと思った結果がこれかと頭が痛い。
けど本当にわたしが心配したと思っているのか、それともそっちも演技なのか、サラレギー王は嬉しそうに微笑んでわたしとの距離を詰めてくる。
「ごめんなさい、わたしの手は冷たかったね。けれどに心配してもらえて嬉しいな」
「それくらいは当然です。これから日が落ちてますます寒くなってきますから、どうかできるだけ暖かくして身体を冷やさないように……」
こっちが詰められた分だけ、後ろに仰け反って距離を空けようとしているに、気づいてないのかわざとなのか、サラレギー王は更に身を乗り出してくる。
「暖かくといえば、はこんな物語を読んだことはない?寒い夜を過ごすために、男女がひとつの布に包まって暖を取るというものがあってね」
「は!?」
それは物語でもベタな記号的展開じゃないんですか!?王様でもそんな古典的手法のラブストーリーものとか読むんだー……とか言ってる場合じゃない。
詰め寄ってくるサラレギー王の何かを期待したキラキラと輝く目に、うっかり突き飛ばして逃げたくなる。
我慢しきれず両手を前に突き出す寸前に、サラレギー王の肩にばさりと毛布がやや乱暴に掛けられたと思ったら、肩を掴んで後ろに引き戻された。
「暖を取ることが目的でしたら、男女である必要はありませんね。よろしければ私が熱源になりますが」
サラレギー王を引き戻してくれたコンラッドが、上から覗き込みながら酷く真面目な顔でそんなことを言って、サラレギー王に白い目を向けられる。
「そんな物語では美しくないね」
「これは物語ではなく現実ですから」
コンラッドの言うことは正論なんだけど、なんだか会話がズレているような気がしないでもない。何がどうズレているかと聞かれると困るんだけど。
とにかくわたしとしては、乗り出してきていたサラレギー王が引き戻されてほっと胸を撫で下ろすばかりだ。
「そ、それでは陛下、どうぞ暖かくなさってくださいね」
「あ、……」
そのままサラレギー王のことはコンラッドに任せて、有利とヨザックさんのほうへ逃げ出した。べ、別に間違ってないよね!?サラレギー王の護衛はコンラッドなんだから、体調管理だってコンラッドがすればいいんだよね!?
船を揺らさないようにと、ほとんど床を這うようにして後ろから現れたわたしに、ヨザックさんがぎょっと驚いたように仰け反った。
「ど、どうかしたんですか姫?」
「ああ……」
驚いているヨザックさんには申し訳ないけれど、気の許せる人のところに戻ると安心で溜息が漏れる。
「ヨザックさんの傍……お、落ち着く……」
「……ウェラー卿か、あのお人形さんと何かあったんですか?」
声を低めた真剣な表情のヨザックさんに頭を振って否定すると、割烹着の袖を握ってその硬い腕にごつんと額をぶつけた。
「自分の未熟をまた思い知っただけです〜」
心の底からそう漏らすと、はあと気の抜けた返事が返ってくる。
「よく判りませんが、ま、こちらへどうぞ」
ひょいと襟首を掴んで、ヨザックさんと有利の間に半分引きずらるような形で移動させられた。
「……こんな猫の子を扱うみたいにしなくても」
「いや、片手だったもんで。申し訳ありません」
「あれー、も来たの?お前はゆっくり休んどけよ。本調子じゃないだろ?」
後ろに気配を感じてようやくわたしに気づいたらしい有利が呑気な声を上げて、わたしはそのまま力尽きたように船床に倒れ伏した。
「あっちにいたら、余計に休めないの……」


サラレギー王のわざとなんだか天然なんだか判らない発言の「男女がひとつの毛布に包まる」暖の取り方は、その夜わたしと有利で経験した。
「経験って言っても、これ二度目だよな。スヴェレラの砂漠でもやったし」
「え、そうなのユーリ。いいな、わたしも物語の再現をしてみたい」
コンラッドの申し出を断って、ひとりで毛布に包まっていたサラレギー王が羨ましそうな声を上げる。
「再現じゃないよ、再現じゃ。大体、フィクションでもこれってピンチのときにやるものじゃないか。再現なんてできないほうがいいんだよ」
「でも今ならそれこそ再現の好機なのに。ねえユーリ、あなたは一度経験しているのなら、今回はそっちの筋肉男と暖まるというのはどうだろう?」
「……だとしても、は譲らないよ、サラ」
「ユーリは意外とケチだね」
「ケチって問題じゃないから!」
あまりにもくだらない会話に、ヨザックさんですらツッコミをしてくれない。
そう思って振り返ったら、ヨザックさんは剣を抱いたまま眠っていた。有利もサラレギー王もまったく声を抑えていない騒ぎの中で、よく眠れるなあと感心して周りを見てみると、コンラッドもサラレギー王の向こうで座った姿勢のままで俯いて眠っている。
日も落ちて真っ暗な海の上、波に高く船体が上げられたときにだけ遠くに明かりが見える……気がする程度の陸地を目指して、小シマロンの船員の人たちは交替で休みながら船を漕いでいる。その人たちも、コンラッドと同じでこんなくだらない会話が繰り広げられていてもしっかりと眠っていた。
つまり、慣れ?慣れてたら眠れるってこと?それとも、疲れもあるのかな。
屋根も無い剥き出しの空の下、貨物船に乗っていたときよりも揺れも酷くて波の音もうるさい。潮の匂いにも満ちていて、床に寝転ぶと水の跳ねる音が聞こえる。
わたしもさっきから寝ようとしているんだけど、でも条件が最悪。唯一船にいた頃より良くなっているのは、有利が傍にいてくれることなんだけど……。
は嫁入り前だからだめなんだって!」
「じゃあいっそここで婚約の取り決めをしてしまってはどうだろう?未来の妻なら一緒に眠ってもいいと思わない?」
「い、一緒に眠るって、こんなところで何するつもりだよ!?」
「何って、物語の再現だけど?」
……耳元で叫ばれて一向に眠れない。
仕方なく有利の袖を引っ張って、有利の向こうに毛布を敷いて寝転んでいるサラレギー王には聞こえないように、小さく囁いた。
「わたしが寝てるって言って」
「な、なるほど。……あ、だめだサラ。もうが寝ちゃったよ。今動いたら起こしちゃうからもう無理だって。残念だなー」
有利の演技力って本当に皆無だね……。わざとらしい笑い声まで付けてそう断ると、有利の向こうからパチンと手を叩く音が聞こえる。
「残念って言ってくれた?じゃあ明日の晩は代わってくれる?」
「そ、そういう意味じゃなくて……丸二日も漂流なんてことになったら大変だよ、サラ!食糧はまだしも水もろくにないしさ!明日にはもう陸地に着いてるって!」
「そう……そうだね。明日もこんなところで過ごすなんて嫌だものね。なら、明日もまだ海にいたらをわたしに預けてくれるという約束で我慢するよ」
「待ってくれサラレギー!おれ、交代するなんて一言も言ってないよ!」
「あー、よかった。じゃあお休み、ユーリ、
「サラ!」
悲鳴を上げた有利は気づかなかったようだけど、サラレギー王は今わたしの名前も呼んだ。
ひょっとして、まだ起きていることに気づいていたのかとギクリとしたものの、有利の向こうからは早くも寝息が聞こえてきた。気づいていたのか、それとも形として名前を付け足しただけなのか。
「ああ……大変だ、どうしても明日中に陸地に着かないと」
頭を抱え込む有利に、わたしは溜息をついてその身体をぎゅっと抱き締める。
「もういいから有利も寝て。環境が劣悪なんだから、少しでも眠らないと。明日のことは明日考えよう」
「……うん、そうだな」
小声でぼそぼそとそんな会話を交わすと、それから五分と経たないうちに有利はすっかり寝入ってしまった。有利も疲れているんだろう。
船を漕いでいる人以外で、ひとりだけまだ起きている状態になって、溜息をついて有利にしがみつくようにして目を閉じる。
波の音が耳について眠れない。
陽があって周囲が見えているときはよかったけど、真っ暗で船の周りが見なくなると、途端に不安が増した。
有利とサラレギー王の会話がうるさいと思っていたはずなのに、静かになると今度は不自然なまでに鼓動が不安定になって冷や汗が滲む。
怖くない怖くない怖くない。大丈夫、ここは船の上だから大丈夫。
自分で自分に催眠をかけるように何度も心の中で繰り返してぎゅっと目と瞑ると、床に寝転んでいるせいで揺れがダイレクトに伝わってくる。
「……気分悪い……」
もう寝るのは諦めて起き上がろうかと迷っていると、有利に抱きついて半分以上毛布に潜り込んでいた状態の頭を大きな手が優しく撫でた。
「……ヨザックさん?」
先に眠っていても、ヨザックさんの眠りは浅い。傍でごそごそしていたから起こしてしまったのかと申し訳なく顔をあげようかとしたとき、もう一度頭を撫でられた。
違う。
顔を上げかけたおかげで、今度は掠めるような撫で方じゃなくなって、その手が誰のものか判ってしまった。
どうしてだろう。確かにわたしが海を怖がっているのを知っているし、ずっとそれを気にしていたけど……どうして、あなたが。
毛布の中で涙が滲んだ。
どうしてあなたが優しくするのか判らない。
わたしが眠れなくて寝不足になったって、あなたが困ることなんてないはずなのに。それとも、そんなに魔術を使ったことが気になるの?
わたしのことなんてどうでもいいはずなのに、有利を傷つけたのに、どうして。
忘れろなんて言ったくせに、どうしてちっとも忘れさせてくれないの。
どうして。
「……ありがとう、ヨザックさん」
気づいてない振りでそう言うと、まるで肯定するかのようにわたしの頭をぽんぽんと軽く叩くように撫でた手は、そのまま眠りに落ちるまでずっと優しく撫で続けてくれた。







兄妹揃ってサラレギーに振り回されっぱなしです……。


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