夜が明けても分厚い雲が空を覆っていて、晴れる気配は少しもなかった。
朝のうちではまだ少し肌寒いけど、日差しを避ける屋根もなければ飲み水もろくにない状況ではこのほうが助かるのも事実。今日一日このままだったらいいんだけど。
まだ薄暗いうちに目が覚めて、眠っている有利を起こさないように気をつけて起き上がった。硬い板の上で寝たから、身体中の節々が痛い。
「おや、姫。もう起きちゃったんですか?もう少し眠っていらしたらどうです?」
ヨザックさんはもう起きてる。
目を擦りながら有利の向こうを見ると、サラレギー王は毛布にくるまって眠っていて、更にその向こうでコンラッドは船縁でつまらなさそうな顔で頬杖をついて遠くを見ていた。
まったくこっちを見もしない横顔を見ていると、昨日のあれは夢だったんじゃないかという気がしてくる。なんて空しい……。
「目が冴えちゃったんで」
溜息を吐きつつ有利の肩が毛布から出ないように自分が抜けた穴を直してからヨザックさんの横へ這って移動した。


105.いつか、また(2)


「ちっとは眠れましたか?」
はい、と素直に言いかけてギリギリで思い止まる。コンラッドに頭を撫でてもらえたから安心できてしまった……とはとても言えない。
この距離でもコンラッドにこっちの会話が聞こえているのか……聞こえていたら、頭を撫でてくれたのはヨザックさんだと思ってるわたしがお礼を言わないのはおかしい。かといって頭を撫でてなんてないヨザックさんはお礼なんて言われたら訳が判らないだろう。
考えた挙句、無難な答えが思い浮かんだ。
「おかげさまで、もう十分深くに」
笑顔でそう答えたら、ヨザックさんは一瞬だけ眉を寄せた何か言いたそうな顔をしたけど、すぐにニッコリと笑う。
「それはよかった。こーんな状況なんで、姫や陛下にゃきついかと思ったんですが……」
そう言って、眠っている有利を見て安心した様子で肩をすくめる。
「陛下もグッスリ熟睡されているようで」
「ヨザックさんも、眠れました?」
「あー……ええ、まあ、護衛にあるまじきことに熟睡を。申し訳ないことに」
「悪いことなんてないですよ。むしろいいことじゃないですか」
船縁に肘を掛けて薄暗い海を眺めながら、そうでなければコンラッドが頭を撫でてくれるなんてことはなかっただろうと、こちらこそ申し訳ないことにヨザックさんが熟睡してくれてよかったと思ってしまう。
ヨザックさんだと安心できないとかいうわけじゃないはずなのに、心も身体も理性とは違って非常に正直だ。ヨザックさんがだめなんじゃなくて、コンラッドが特別なだけで……どっちにしてもやっぱりヨザックさんには言えないな。
コンラッドみたいに船縁に肘をついて進む先の海を見ると、驚いたことにちらちらと見える陸地までの距離は眠る前とほとんど変わっていないように見えた。
「………これって、今日中にたどり着けると思います?」
「無理ですね」
ヨザックさんはあっさりと言い切った。いや、わたしも同意見ではあるんだけど、でもそんなあっさり……。
「漕ぎ手も頑張っちゃいるんですけどねえ……波が思った以上に荒い。距離が伸びてくれないんですよ。これなら凪に入ったほうがまだぐっとマシなんですが、それも期待できそうにないですし」
曇り空を見上げるヨザックさんに、つられたように一緒に空を見上げた。どんよりと雲は厚く重苦しい。
「お人形さんとの約束が気になるんですか?心配しなくても、陛下があんなのお許しになりませんよ」
「いえ、別にそれは心配してないんですけど……」
サラレギー王とひとつ毛布にくるまるなんてことを有利が許すとは思えないし、それ以前にわたしにそれが出来る自信もない。サラレギー王を殴り飛ばすのがオチだと思うと、友好のためにもそれだけはできない。
いや、できないとか言ってないで、できるようにならないといけないんだっけ?サラレギー王には好意的でいてもらわなくちゃいけないんだから……。
「身売りのような真似をして」
神族の人たちの保護をしてくれるとサラレギー王が約束した後に言われた、皮肉に満ちたコンラッドの言葉がずしりと重く頭上に降ってきて、いやいやと思い直して首を振る。
状況が切羽詰ってるからって、それはできるようにならないといけないものじゃないはずだ。明らかに友情の範囲を超えてるじゃないの。
思うに、サラレギー王の好意が本物ならそんなそれこそ身売りみたいなことまでしなければいけないのはおかしいし、もしそれが全部演技ならわたしの身を差し出したくらいでは何の意味もない。
「………言い訳かな」
これもサラレギー王と個人的に親しくなる努力をしたくない言い訳なんだろうかと、落ち込んで船縁に突っ伏したら上からヨザックさんの不思議そうな声が聞こえた。
「船酔いですかー?」
「いいえ、元気です。現状を考えてちょっと疲れただけー」
縁に手を掛けて俯いたまま、軽く言って手を振ると今度は苦笑が降ってきて、大きな手で頭を撫でられた。慰めなんだろうけど、どっちかって言うと「いい子いい子」って言われてるみたいに。
大きくて暖かい手に、でもやっぱりコンラッドの手ほうが落ち着くだなんて……絶対にヨザックさんには言えないことだった。


分厚い雲が向こうから照らされる太陽の光で少し明るい色に変化した頃、ようやく有利も起き出した。それと合わせるようにサラレギー王も目を覚ます。
「うへー、肩とか腰がいてー」
「本当に、最悪の寝心地だったよ」
肩を押さえて凝った筋肉を解すように首を回して腕を伸ばす有利の横で、サラレギー王は髪を軽く梳くように指を通しながら不機嫌そうな様子で溜息をつく。
「もうこんな夜は嫌だけど……陸地はまだ遠そうだね」
「え?あ、本当だ。海での距離って目測が当てにならないものかな。波のせいもあるだろうけど」
サラレギー王と一緒に船の進路の先を見て、有利は疲れたように溜息をついた。
「……よし!じゃあここは目覚めの一発目ということで、船漕ぎをやろうかな」
「うえ!?またですか陛下!じっとしててくださいよ!」
ヨザックさんの悲鳴もなんのその、有利は肩を回してやる気満々で前へと移動してしまう。
「筋肉には適度の刺激が必要なんだぞー。あんたもそんな立派な筋肉を持ってるんだから知ってるだろ?」
「そりゃそうなんですが、何も陛下御自ら船漕ぎなんてなさらなくてもー」
またコンラッドとサラレギー王のいるところに残された。何もしないのに櫂を動かす二人の傍にいくのは邪魔になるけど、ここはお世辞にも居心地がいいとは言えない。本当は一緒に船を漕げばいいんだけろうけど、それはだめだと有利にもヨザックさんにも止められてできない。
「ユーリは元気だね。あの強さには憧れるよ。わたしはひ弱だから、あんな風に目覚めてすぐに運動なんてできなくて」
できるだけ邪魔にならないように有利のほうへ移動しようかと思ったら、サラレギー王に話し掛けられてしまった。
仕方なくサラレギー王に向かって座り直す。
そうしたら、彼の向こうの船縁で遠くを眺めていたコンラッドもこちらに移動してきた。
「陛下、朝のうちはまだ冷えますので上着を着てください」
心配性の過保護な保護者や恋人だった頃のようなコンラッドから目を逸らす。
iあの頃、有利やわたしに対していたような態度を、他の人にしているのを見たくない。もう何の関係も無い間柄なのに、ものすごい我侭。
「……あなたもご苦労なことだね、ウェラー卿。いちいち監視にやってきて」
サラレギー王は溜息をついて上着を羽織った。
監視って、誰を?何を?
顔を上げると、コンラッドと目が合ったのは一瞬ですぐに視線を逸らされた。
「本当に不思議だよ。あなたは一体どういう関係で、どういう立場なの?」
「……私を陛下の護衛にと、陛下ご自身で指名されたはずですが」
……ということは……監視って毎回わたしたちが二人きりになると近寄ってくるのは、サラレギー王に近づくわたしを警戒して来てるってこと?
なんか、ものすごく、非常に腹が立ってきた。
わたしやヨザックさんが有利に近づくコンラッドを警戒するのは前科があるからわかるけど、お世話になってる状態でわたしがサラレギー王に危害を加えるはずもないのに!
仕方ない、護衛には護衛の立場があるのだとなんとか自分に言い聞かせようとしていたら、白い手が伸びてきてわたしの頬に触れた。
「なに……!?な、んですか?」
その手の持ち主がサラレギー王だったから、一気に後ろに逃げるのをどうにか堪えて、でも驚いて身体は後ろに仰け反った。
「ああ、急に触ってごめんなさい。でも、もやっぱり疲れているね。日射しと潮風で肌がカサカサになっている。わたしも同じだけど、は本当に可愛いから……もったいない。本当に口惜しい」
「船旅ですから、最初からその辺りは覚悟していましたし……」
「だけど今までは真水で塩分を洗い流していたから、まだよかったでしょう?聖砂国に着いたら、薬効成分たっぷりのお湯に浸かって肌を労わりたいね。ね、もそうでしょう?」
「そ、そうです、ネ」
だから、いちいち人の顔とか手とか、とにかく触る癖を何とかして欲しい。
両手でわたしの手を取って撫で擦る絵面は、美少年だから傍目には様になっていても、男の人が苦手なわたしにとってはセクハラでしかないんですけれどもね。
サラレギー王の手を振り払いたい衝動をどうにか堪えていると、後ろから有利の悲鳴が聞こえた。
「うわああっ!う、腕が、腕が!」
「有利!?」
片膝をついて大きな動作で振り返ったけど、前方にいる有利が暴れていたから船の揺れにはそれほど影響はなかったと思う。
有利になにかあったのかと心配したのに、有利は腕を痛めたとかの様子ではなく、櫂を握った手から人差し指だけを右手の方へと伸ばして蒼白になって振り返る。
「大変だ、コンラッド!あんた左腕ちゃんとあるか!?」
「ありますよ、陛下?」
いきなりなんだと眉をひそめるわたしたち三人をよそに、有利は櫂を振り回して必死に漕ぎ始めた。
「腕があそこに!た、助けないと!救助だ、急げ急げっ」
「は……?」
有利が指差して向かい始めた方向を見て絶句した。
海のど真ん中に、腕が空に向かって伸びていた。白い棒みたいなそれは、波に揺れるでもなくすらりと伸びている。
有利の悲鳴で腕の存在に気づいたヨザックさんも、小シマロンの船員の人たちも慌てたように腕に向かって船を漕ぐ。
有利じゃないけど、わたしも振り返ってコンラッドの両腕が揃っていることを確認してしまった。
ちゃんと、両方ともある。
ほっと息を漏らして、だけど思い出したことに気分が悪くなってこめかみを押さえて船の縁に寄りかかった。
海から伸びた腕はコンラッドの腕よりずっと細くて華奢だけど、血の通っていないような真っ白な腕は、もう失われたあの左腕と様子が似ていた。
わたしが壊した、コンラッドの左腕と。
ヴォルフラムと二人で訪れた眞王廟で、鍵を壊さなければいけないと言われて、壊した。
握っていた冷たい、硬い手が、砂のように崩れていったときのことを思い出して涙が滲む。
こんなところで感傷に浸ってる暇なんて、ないのに。

腕を掴まれて、すぐ傍から聞こえた声に驚いて顔を上げた。
わたしの両腕を掴むその手は、コンラッドの右手と左手。どちらも揃っている。
「見ても気持ちのいいものじゃない。聞こえる会話もつらいなら、耳を塞いで」
そう言って、視界を塞ぐように頭から毛布を掛けられた。
「ちょ……」
誤解、誤解です。海から覗いた腕が怖いんじゃなくて……す、水死体かもしれないことに気分が悪くなったんじゃなくて……でも本当のことなんて言えない。
「み、見えないほうがもっと不安」
ごそごそと毛布を剥ごうとしたら、右手をぎゅっとコンラッドに握られた。左手で。
「あなたはそんなものは見なくていい。説明が必要なら俺がするから」
それは確かに海を怖がってる人間が、海での水死体なんて見たらますます恐怖が募って始末が悪いだろうと思う。わたしだってご遺体なんて、わざわざ見たいとは思わない。
でもそういうことを言ったりされたりしたら、誤解しちゃいそうになる。
そんなことを思いつつも、毛布に埋もれて顔が見えないのをいいことに、ぎゅっとコンラッドの手を握り返したら、コンラッドの手もまるで大丈夫だと言うみたいに力を篭めた。
きっとわたしが怖がっていると思ったんだろう。
握った手の感触は、以前とは違うような気もするし、でもちゃんとコンラッドの手だという気もする。この左腕は本当にどうなっているんだろう?
久しぶりに握ったコンラッドの手に抱いた疑問はそこまでだった。
毛布の向こうから、有利の二度目の悲鳴が聞こえた。
「ぎゃっ!握った、こいつ手を握ったっ!」
「有利!」
「ユーリ!」
思わず腰を上げたけど、毛布を被った目隠し状態では動くこともままならない。同時に横でコンラッドも立ち上がったらしいのは、握り合った手の位置で判る。
「あ!落ち着いて陛下!こいつら魚人姫ですよ。大丈夫、悪気はないんです、引きずり込まれませんから落ち着いて」
ヨザックさんの声が聞こえて、隣でコンラッドも安心したような溜息を零した。
「もう大丈夫です、彼らは水死体じゃなくて魔族の一員だ」
頭から被せられた毛布が取られて、周囲の光景がまた見えるようになった。
海から伸びていた手に右手を掴まれた有利。そのズボンを掴んで後ろに引っ張っているヨザックさん。有利のズボンは脱げかけてずれている。
後ろで水の跳ねる音が聞こえて振り返ると、こっちの傍からも海から手が覗いた。
「ひゃっ!」
「落ち着いて、。ヨザックが言ったように彼らは君や陛下に悪意は持たない。魔族の一員だから。魚人姫だ」
「魚人姫……人魚姫じゃなくて?」
水面近くまで上がってきたその姿は。
マグロ。マグロに人間みたいな両手と両足が生えている。
「……う……うわぁ……」
本当に魔族って、色々な種族がいるよね……。
「あー、そういえばおれ、国で魚人姫を一匹……一人?担いで汚水溜まりから運んだな」
向こうから有利の思い出したような呟きが聞こえて、コンラッドが小さく笑う。
「なるほどね。それなら恩返しに来たんだろう」
見上げたその笑顔は優しげで……いつかの頃を、傍にいたあの頃を思い出す、そんな笑顔で。
ぎゅっと胸が切なくて苦しくて海に目を戻したら、何匹……何人も集まっていた魚人姫が船の周りを泳いでいて、船の陸に向かう速度が上がり始めた。
陸まで運んでくれるんだ。
「あ……ありがとう」
海に向かってそう言うと、水を跳ねながら白くしなやかな手が振られる。言葉が通じたと思っていいのかな。
怖いものじゃなかったことにほっと息をついて、あれが腕だけでなかったことに安心したところで、はたと今の状態に気がついた。
コンラッドと手を握って、左手はしっかりと彼の服を掴んで縋りつくような体勢。
「ぎゃっ!」
悲鳴を上げて慌ててコンラッドの手を離して後ろに飛びのいたら、騒ぎの間中は有利のほうを見ていたらしいサラレギー王が振り返った。
、どうかしたの?」
「い、いいえ!何も!」
この期の及んでまだコンラッドに頼っちゃう自分がどこまでも情けない。
そう思うのに、コンラッドの手を握った左手をそっと胸に抱き寄せるようにして右手を添えて、覚えているその温かさに、心強さに泣きたくなって目を伏せた。
あの頃にまた戻れたらなんて、そんな風に思っても仕方が無いのに。







つい嬉しくなったり、苦しかったり、悲しかったり、大変だった船旅もようやく終わりです。


BACK 長編TOP NEXT