サラレギーの部屋を出て、揺れる船の廊下を歩きながらにも素早く状況を説明しておくことにする。
先に船が沈むのは嘘だとは言っておいたけど、何がどうなってこんな状況にしようとしているかは判っていないだろうから。
「さっき遠くにこの海域の終わりが見えたんだ。見たらも驚くよ。海の色がくっきり違うから。それで神族の子が……ほら、あのおれが操舵室に連れてきた子だよ。あの子が、絵で救命ボートが欲しいって訴えてきたんだ」
「え、こっちじゃなくて、彼女たちが救命ボート?」
「……聖砂国に戻されたくないんだよ。今まで越えてきた、あの海域を救命ボートで戻ってでも」
「あの海域を!?救命ボートなんかじゃ、転覆して終わりじゃ……あ、だから」
「そう。だからこの船を彼女たちにあげたい。あの神族の操舵手なら、きっともう一度あの海域を抜けられる。でも救命ボートじゃ奇跡でも起こらない限り全滅だ」
まっすぐにその目を見て強く言うと、は呆れたような気が抜けたような笑顔で溜息をついた。
「有利らしい」
それは、が賛同してくれた瞬間だった。


104.嘘と真実(2)


には細かくは言わなかったけど、小シマロンの若い操舵手たちから聞いた話は衝撃的だった。
サラレギーが神族の人たちを当たり前のように奴隷と言ったときも驚いた。けど、それが生まれたときから次期王様として教育され、今は王様で庶民生活を知らないようなサラレギーだけじゃなくて、シマロンでは常識の制度らしい。
ジェイソンやフレディーのように強い法力を持つ子供は高値で売れる商品で、力を持たない神族は雑魚だって、そんなことを当たり前のように、それどころか自慢げに語った。
例によっておれはその話に爆発してしまったわけで。
そうだよ、ジェイソンやフレディーだって養子として施設から出されていたんじゃない。
あの子たちだって人身売買で刈りポニに買われて引き取られていたんだ。
小シマロンではそんな扱いで、だけど聖砂国からもこんな風に命を賭けて逃げ出してくる人々がいる。
二人は大陸で育ったから、故郷がどんなところかも知らずに帰りたいと泣いていた。
おれも、そこがどんな土地かを知らないままに二人を送り返した。
その結果が、おれの懐にある二人が送ってきた、血で記された手紙なんだ。
この船にいる神族の人たちは、おれが連れてきたんじゃない。でもそんな土地だと判ってしまったところに連れ戻すなんてできない。同じ過ちは繰り返したくない。
揺れで踏み外さないように、しっかりと手すりを握って階段を上がりながら、にもおれの作戦の細かい話を……といっても細かいも何もない。今やってることがそのまま答えの作戦を続けて説明する。
「だから、この貨物船を彼らに明け渡すために沈むってことにするんだ。それでもうすぐこの海域を抜けるおれたちが、救命ボートに移る。救命ボートは四つ。ひとつで三十人は乗れるけど、どう見ても神族の人たちが乗るスペースまではない。だから定員オーバーと意思疎通の不可能を理由に彼らを船に残すって寸法だ。彼らはこの船でもう一度あの海域を戻ってシマロン以外の国に保護を求める」
慎重に階段を登って甲板に出る扉までたどり着くと、外からは避難のための慌しい駆け足と怒号が飛び交っているのが聞こえた。
扉を開けて甲板に上がると、右へ左へと、小シマロンの船員達が慌しく荷物の積み込みに走り回っている。
その向こう、船の行く先の海を遠く見渡すと、海域の境目が少しだけ近くなってきているように見えた。
波の荒れたこちらは灰色の空と海、まっすぐにラインを引いたようにそこから向こうは青空と薄緑色の海。自然の悪戯にしたって驚きの光景だ。
振り返って、後から階段を上がってきてたに向かって手を差し出す。
「……自分で立てておいて、正直どこのどいつが引っ掛かるんだよって作戦なんだけどさ」
「そんなことないんじゃない?現にサラレギー王は一緒に避難するって決めたんだし」
嘘でこんな大きな船を泥棒してしまうっていう話なのに、は笑顔でおれの手を握った。


海域の境が近づいているからか、さらに揺れは収まりつつあって、これならおれとだけでも甲板を歩いていいだろうと思ったけど、あっちの船倉で軋みが酷くなっている、なんて嘘八百で避難準備を急がせていたヨザックがすぐに気づいて駆け寄ってくる。
「陛下!姫!」
首尾良くいったということを、親指を立てて示すとヨザックはにんまりと笑った。
「ほーらね、坊ちゃんの演技力でも、あの王様なら騙せるって言ったじゃなーい」
「それはサラが純粋ということか?それともおれの演技力があるってこと!?」
「純粋ねえ……」
ヨザックは何か言いたげな顔をしたけど、軽く首を傾げるだけで操舵室を見た。
「残るはあそこだけですね」
「そうだよ。でもって大問題だ。口封じに渡す金もないし、交換条件に出せるような話もない」
「え、事情を知ってる人がいるの?」
は驚いたように目を瞬いた。そりゃそうだ。味方じゃない相手に事情を知っている奴がいるなんて、この作戦では致命的な話だろう。
「なーに、簡単なことです。いざとなりゃ上下の唇を縫い止めちまえばいいんですから」
「ブラックな冗談はやめてくれ!想像しちゃったじゃないか!」
指で針を摘んだような振りをしていうから余計に。
操舵室へ向かいながら首をすくめたおれに、もヨザックの意見を否定しているようで肯定するようなことを言い出す。
「でも口を縫うのはともかくとして、最悪の場合は強硬手段に訴えるしかないよね」
までこんなところで超武闘派な意見はやめて!」
おれの妹はときどき本当に恐ろしい。
「そう?ちょっとの間だけ眠っててもらって、この船で一緒に神族の人たちと大陸に戻ってもらうなんて、まだ平和的解決だと思うけどなあ」
「……ちなみに眠ってもらうというのはどのように」
がヨザックを紹介するように手を向けると、どこのチンピラかというような仕草でヨザックが指の骨を鳴らした。
おれは半泣きになりながら、揺れる甲板を渡って到着した操舵室へ駆け込む。
「諸君!乗員はこの船から退去することになった!そこで君たちにお願いだ!さっきこの部屋で話してた事実は内緒にしといてくれ!君たちのためにもぜひとも!!……って、あれ?」
操舵室には小シマロンの操舵手が三人と、神族が二人、計五人がいたはずなのに、駆け込んでみると三人分しか人影がなかった。
神族の舵取りと少女、そして年かさの花形操舵手。
あとの若い操舵手二人……神族は奴隷だと小シマロンの制度をおれに自慢げに語っていた二人は、簀巻きにされて床に転がっていた。
「な、なにごと?」
若い舵取りに片足を載せて縛り上げていた花形操舵手は、駆け込んできたおれに慌てて頭を下げる。簀巻きにされた二人は猿轡まで噛まされているが、何の布を使用したかは追及しないでおくのが武士の情けだろう。
「あ、陛下。失礼しました。お見苦しいところを!」
「いえこちらこそ、お取り込み中に失礼を……一体なんのお取り込み中なんだ」
恐縮された態度を取られて、こっちまで恐縮しながら頭をさげていたら、後ろでとヨザックも室内に入ってきて、扉を閉めた。外の甲板と空間が隔てられた。
「おれはあんたたちに口を噤んでくれるように頼みにきたんだけど……」
「その必要はなさそうですね」
ヨザックが扉を背に、外を警戒しながら言うと花形操舵手はごくりと唾を飲み込んで頷く。
「我々は心を決めたのであります、眞魔国の陛下。海の男の命である船と運命を共にします。これは全員の望みでして」
「もがー!」
花形操舵手は近くでもがいて首を振る簀巻きにした若者を蹴って黙らせた。神族の二人は呆気に取られているだけで、どうやらこの事態に関与している様子はない。
「この貨物船は老朽化し、今となっては旧式かもしれませんが、前小シマロン王ギルバルト陛下が私どもにお預けくださった大切な船です。ですから我々三人は、舵取りとして愛する船からの脱出を固辞します。サラレギー陛下にもそうお伝えください」
真面目な顔をして告げる花形操舵手くん。
この船が本当に沈むというのなら、ここはたしかに最大の見せ場だろう。だがこの船は沈まない。そして彼らはそれを知っている。何しろおれたちの作戦会議を聞いていたんだから。
「えーと、ちょっと待ってくれ。この船は壊れないって、君は知ってるはずだよな」
「はあ。ですから、サラレギー陛下にそのようにご説明いただきたいというだけのことでして……だって陛下」
どう解釈したものかと思わず手を振ると、花形操舵手は途端に表情を崩して、掌で首筋を撫でた。決まり悪げな顔で、舵輪を握る神族をちらりと見てから、またおれを見る。
「彼らや、船底にいる連中は、放って置いたら同じことを繰り返すのではなかろうかと心配なのです。この悪夢の海域を抜ける技には長けていても、そこから先はまともな航海士も詳細な海図も持っておりません。陛下は他国へと仰いましたが前回同様、またシマロンについてしまうかもしれません」
何がそんなに恥ずかしいのか、彼はもじもじとロープの端を指先で弄り、耳まで赤くしている。そのロープの先が何を縛っているのかはこの際として。
「私は……そのー……この天才的な舵取りを、奴隷なんて身分のままにしておくのが惜しいのです。ええそうですとも、悔しいのです」
「悔しい?何が」
「腕です。この荒波を避け、航行など絶対不可能な難所を克服する技を、死ぬまでにどうにかして私も身につけたいのです!」
勢い込んだ花形操舵手は、だけどすぐに俯いて床に向かって呟くように語る。
「……様々な技能や才能を持った人間だとは、考えたこともなかったんです。この人達が同じ人間だなんて、生まれてこの方、思ったことも……知ろうともしなかったんであります」
恥じ入るような力のないその声に、おれは自然に緩みそうになる頬をどうにか抑えようとしながら失敗する。
そうだよな、おれも「常識」なんて言葉を簡単に使っちゃったりするけど、それが正しいのか間違っているのかなんて、きっかけでもなければ考えたりしないと思う。実際、おれは眞魔国の「常識」を色々知らなくて問題を起こしたりもしたもんだし。
花形操舵手は、ゆっくりと顔を上げておれを見て、それから視線をずらしてを見た。
「当たり前だと思ってました。でも陛下は彼らのために真剣にお怒りになられた。そちらの殿下は、彼らのためにサラレギー陛下へ頭を下げて真摯に彼らの救済を請われました。驚きました……奴隷のためにそんなことをする、奴隷のことをそんなに考える人がいるなんて……彼らが人間だなんて、考えもしなかった」
いつの間にがそんなことをしたんだろうと振り返ると、は少し顔色を悪くしていた。
どうしたんだろうと声を掛けたかったけど、今までの考えをひっくり返したほどの衝撃を、決意を必死に語っている花形操舵手の言葉を遮る気にはなれなかった。
だっておれはこのとき、ぎゅっと口を引き結んで決意を固めたような花形操舵手に、猛烈に感動を覚えていたんだ。
「知ってしまったらもう、この人達を奴隷とか呼べないのでありまして……」
言葉だけで彼の意識を変えられたなんて思わない。おれやはあくまできっかけなんだって思う。だけど、こうやって彼が「考えてくれたこと」が、嬉しい。
おれが感動で叫びたいのをぐっと堪えている間に、テーブルに置かれていた海図をより分けたヨザックは、ここから聖砂国へ進むために必要なほうをくるくると巻いて懐に入れた。
外海の海図は、これから海路を戻る彼らに必要なものだ。
「ほら緊急船長代理、外海の海図だ。アンタはこいつをしっかり読んで、難民連中を然るべき所に送り届けろよ」
嵐の海流を越えた向こうの海図を押し付けられた花形操舵手は、それをしっかりと握って頷く。
おれは散らばっていた紙の一枚を掴み取って、大急ぎでペンを走らせた。
「うちに向かえれば一番なんだけどさ……食料や水が足りないかもしれないし……カヴァルケードかヒルドヤードかカロリアか……その辺りに着ければ融通が利くはずだ。とにかくシマロンに制圧されてない国に行くんだ。上陸は無理でも、補給はさせてくれるから。そうお願いしいとくから……ほらこれ、格好悪いけどおれのサインを入れておいた」
海図の裏に乱暴に記された文章は、文章というよりメモみたいだった。たどたどしいし、文法も怪しい。けどやヨザックに添削してもらっている暇はないからこのままで強硬だ。
とにかく意味が通じればいい。下手すぎてだれも真似できないおれの署名があれば、ヒスクライフさんやフリンも手を貸してくれるだろう。
時間のない慌しいやり取りで、海図とおれの署名入りの紙を花形操舵手がしっかりと握るのを確認して、おれは最後に神族の少女に向き直って、その顔を覗き込んで通じていない言葉で必死に言いたいことを伝える。
「しっかりやるんだよ、頑張るんだ。あまり力になれなくてすまない。一緒に行けたら一番良かったけど……無責任な言い方しかできないのが悔しいな。とにかく、諦めずに頑張ってくれ」
ぐっと両肩を握って伝えたいことを伝わっているかも判らないまま告げると、ヨザックとを振り返って行こうと頷く。
操舵室を出て行こうとしたところで、少女に腕を掴まれた。
「え、いや、だからおれは一緒に行けな……」
引き止められたのかと思った。だけど振り返ると、少女は抱え込んだおれの厨房服の袖を捲り上げて、枯れ枝みたいな人差し指に力を込めておれに押し付ける。
「いてて、痛いって」
彼女は爪でおれの腕に線を描き始めた。すぐに血が寄って赤くなる。
「イテっ!……な、なあひょっとしてこれが神族の別れの挨拶なのか?」
振り返って訊ねても、もヨザックも花形操舵手も知るはずがない。
こんな細い腕のどこにそんな力があるのか、腕を引いてもがっちりと抱え込まれて引くことができない。
長い引っかき傷は曲線を描き、やがて五センチ四方の模様になった。六角形の中に対角線を結んでできた星がある。ダイヤモンドを簡単にしたようなマークだ。
「……ベネラ」
少女は小さく呟いて、嬉しそうに微笑んでおれを見上げた。出会ってから初めて見る。明るい希望に満ちた笑顔だ。
「ベネラ、に」
「ベネラ?きみ、ベネラが判るのか?知ってるのか!?それって誰だ?どこのことだ!?」
訊ねても、答えはない。言葉が通じていないからだ。たとえ彼女が説明してくれたとしても、今度はおれが解読できない。彼女はただ、おれの腕につけた傷を指差してもう一度ベネラにと繰り返す。
「陛下!これ以上ここに篭ってると別の奴が来ちまいますぜ!」
もう時間が限界だった。他の誰かが様子を見にきたら、せっかくの花形操舵手の心意気が無駄になる。
ヨザックに急かされて、首を振って気持ちを切り替えた。もう行かなくてはいけない。
「……無事で。今度は絶対におれの国で会おう」
そう約束して、おれはとヨザックと一緒に操舵室を飛び出した。







「当たり前」を疑うことは、傍で思うよりずっと難しいことだと思います。
とはいえ、ここからは救命艇で聖砂国を目指すことに。これまた大変……。


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