サラレギー王の部屋を出て、それでほっと息をつけるかといえば、そうはいかない。 右腕の、大きな手に掴まれた箇所が熱い。 布越しで彼の体温もそんなに高いというわけでもないのに、何故か熱い。 判ってる。そんなことじゃない。この熱はそんな意味じゃない。 強く、掌の跡が残るほど強く握られた、その痛みが愛しいのだと。 もしこのとき、声を上げて泣くことができたなら、少しは楽になれたのかな。 後になっても、それは判らなかった。 103.永遠なんて(4) 強く掴まれた腕は、引っ張るというより引きずられているというほうが近かった。サラレギー王を守って歩いていたときのような、丁寧さなんてない。 船が揺れて転びそうになっても、コンラッドが強引に引きずり上げるから転倒することはない。でもそのたびに腕の掴まれた箇所と肘と肩の関節が軋むように痛んだ。 「……あなたは」 黙って廊下の角までわたしを引きずってから、コンラッドは小さく抑えた声で呟いた。 「あなたは、人の忠告を聞きもしない」 まるで苛立ちを無理に抑えているような、低い低い声に顔を上げても、コンラッドは前を向いたままで振り返ってはいなかった。 「忠告……」 「彼を信用するなと言ったはずだ。どうしてあんなに無防備に彼の招きに応じるんだ」 「迎えにきたのはあなたじゃない!」 「体調が優れないから部屋に戻ったのだとか、いくらでも断る理由がつけられるでしょう」 「そんな命令、あなたにされる覚えはないわ」 違う。こんな言い方をしたいわけじゃない。冷たく、突き放すように、お互いを傷つけるように……それとも、突き放されて傷つくのはもうわたし一人なのかもしれないけれど。 腕を掴んだ手にぎゅっと力が込められて、痛みに顔をしかめているとコンラッドが到着したわたしの部屋の扉を開けた。 この扉に、押し付けられたのはつい先日のことだ。 「……それに、一番信用できないのは、あなただと思うけど」 有利を海に突き落としたのはコンラッドだ。冷たくそう指摘すると、コンラッドが振り返った。 一瞬だけ合ったその視線に、まるで傷ついているかのような色が見えた気がして堪らなくなる。 裏切ったのはコンラッドなのに、わたしを捨てたのはコンラッドのくせに、どうしてそんな目をするの? でもコンラッドはすぐに避けるように目を逸らして、わたしの腕を引いた。 「さあ、着きました。早く着替えを……」 そのとき、どうしてそんなことをしたのか、自分でもよく判らない。 でも、何かに猛烈に腹が立って、何かが狂おしいほど悲しかった。 それだけだ。 船がコンラッドの立つ方向へ傾いたとき、床を思い切り蹴ってその腰に飛びついた。 強くタックルしたつもりだったけど、それでもコンラッドを床に押し倒せたのはたまたま足が引っ掛けるように絡んだからだ。 激しい音を立てて床に叩きつけたコンラッドの腰に手を伸ばして、上に乗ったまま剣を鞘から引き抜く。 「なっ……」 突然のわけの判らないだろう攻撃に、それでも倒れながら身体を捻って完全にはうつ伏せに倒れたりしなかったコンラッドは、素早く仰向けになろうと転がる。 わたしは必死にその上から振り落とされないように乗り上げて、仰向けに転がったコンラッドの首に冷たい鉄の剣を押し当てた。 驚いたように目を見開いたコンラッドから、すぐに表情が消える。 「何の真似ですか」 「それを聞くの?」 刃物で脅すような真似をして、でもコンラッドは少しも怯えていなくて、わたしがこの刃を引くことなんてできないと、確信した表情。 わたしを見上げてくるコンラッドの茶色の瞳を、ようやくまっすぐに見ることが出来た。 銀色が散った瞳には、わたしが映っている。わたしだけが映っている。 冷たい目をした、酷い顔で。 「……俺を、殺したいですか?」 「教えてあげない」 意外そうな顔をして欲しかったのに、コンラッドは表情を少しも変えなかった。 濡れた髪から水が滴り落ちて、コンラッドの顔に落ちた。 嫌な位置に落ちた。瞳のすぐ横で、こめかみを通って床に落ちたそれは、まるでコンラッドが泣いているみたいで。 泣きたいのはわたしなのに。 今すぐに冷たい剣なんて放り出して、その唇に噛み付くようにキスをして、心の底から罵りたい。 酷い男、酷い男、酷い男。 何も告げずにいなくなって、裏切って、有利を傷つけようとした。許せない。有利を傷つけようとしたことだけは、絶対に許せない。 「あなたには、もう何一つ教えてあげない」 ……でも愛してる。 忘れることができたなら、思い切ることさえできたなら、もっとずっと、楽になれるのに。 「俺が憎い?」 ええ、憎いわ。どうやっても、わたしの中から消えてくれないんだもの。 嫌いになれたらいい。でもなれない。 忘れられたらいい。でも忘れらない。 思い切れたらいい。でも思い切れない。 有利を、わたしにとって、わたしの命より大事な有利にまで危害を加えられたのに、それでも嫌いになれないなら、一体どうやったらこの人への想いを断ち切れるのだろう。 自分でもこんな執着、怖い。 コンラッドはもうはっきりと絆を断ち切ってみせた。勝手に執着しておいて、憎いなんてひどい八つ当たり。 判ってる。 これはわたしのわがままだ。 「教えてあげないって、言ったでしょう?」 大声を上げて泣きたいのに、ゆっくりと微笑む。コンラッドの瞳に映る顔は、酷く醜い。 いやだ、こんな顔、コンラッドに見せたくないのに、な。 「……けど、これで判ったよね。わたしに殺されることなんて、絶対にないと思っていたのに、簡単に剣を取られた。あなたが油断していれば、わたしにだってこれくらいはできるの」 「それを示したかったんですか?」 「教えてあげない」 何一つ、教えてなんてあげないわ。 あなたを忘れらなくて、心の底から好きだってことも。 それで勝手に憎むなんて、そんな暗い想いを抱いていることも。 有利に手を出されたから憎いんじゃない。わたしの中から消えてくれないから憎いのだということも。 だからあなたは、自分が思うままに信じていればいい。 わたしがあなたを許せなくて、殺したいほど憎んでいると信じればいい。 そう信じていれば、あなたはわたしの諦めの悪い醜さに気づかないから。 あなたに、それだけは知られたくない。もうとっくに嫌われて、呆れられていても、この気持ちだけは知られたくない。 だから、何一つ教えない。まだ好きだと気づかれるかもしれないから、何一つ、わたしの心は教えないの。 コンラッドは溜息をついて、剣に手を掛けた。 「今すぐにこの刃を引くつもりがないなら下ろしなさい。こんな問答で風邪でも引かれたら、何のために部屋まで送ったのかと、俺がサラレギー陛下に叱られる」 「叱られたらいいのに。水を掛けたんだから、それくらい仕方ないとは思わない?」 「思いません。風邪を引いて熱でも出せば、苦しいのはあなた自身だ。それこそ愚かしいと思わないのか」 「思わない」 コンラッドの瞳に映るわたしは、にっこりと微笑んで軽く首を傾げた。 サラレギー王に怒られて、それでわたしのことを恨めばいいんだ。 大シマロンで再会したときに、意識を失う前に聞こえたコンラッドの言葉を思い出す。 ううん、あれはもう、自分の夢だったのかと思うようにもなったけど。 『忘れるくらいなら憎んで欲しい』 そうね、コンラッド。今ならわたしもまったく同じ考えだわ。 忘れるくらいなら、憎んで、嫌って。 そうしたら、あなたの中にずっとわたしが残る。欠片でも、残る。 ああ、なんて往生際が悪い。 離せばコンラッドがいなくなってしまうと剣を下ろすことも出来ずにそのまま固まっていたら、船がまた大きく揺れた。 そのせいでコンラッドに圧し掛かるようになって、その首から赤い血が一筋、流れ落ちた。 わたしが押し付けた剣が食い込んだところから、赤い血が。 「やっ……!」 引き攣れるような悲鳴を上げて剣を放り出す。そんなつもりじゃなかった。コンラッドに傷をつけるつもりだなんて、そんなつもりじゃなかった。 その傷を癒そうと伸ばした手を、コンラッドに掴まれた。 はっと息を飲む間もない。 力強く押し返されて、跳ね除けられる。 そのまま壁に叩きつけられて息が詰まる。両手を壁に縫い付けられて、すぐ目の前にコンラッドの顔が迫っていた。 「殺すだとか、これくらいできるだとか言っておいて、たかがこれしきの血に怯えてどうします」 コンラッドは呆れたような目で溜息をつく。 「あなたにそんなことはできない。これで判ったでしょう」 「いいえ、違う。有利を傷つけるなら許さない」 「あなたにはできない」 「あなたがわたしを決めないでっ!」 両手を壁に押し付けられたまま、背中を壁から浮かしてその首筋に噛みついた。正しくは、噛み付くような口付けを。 傷の上にしたそれに、痛みのせいかコンラッドがびくっと震えた。 さっき以上に突然なわたしの行動に驚いているのか、コンラッドが硬直している間に、ゆっくりと舌で傷口を辿ると、口の中にコンラッドの血の味が広がる。 つけるつもりのなかった傷だから、わたしがつけた傷だから、癒さなくちゃ。 ギーゼラさんに教わった癒しの魔術は、本当は相手の魂の奥深くに語りかけながら治ろうとする気持ちを引き出すものだと聞いている。 合意も得ずにいきなり魔力を使っているからか、要素が薄い場所だから上手くいかないのか、それともコンラッドにわたしがつけた傷を残しておきたいとでも心の底では思ってしまっているのか、赤く走った傷はうっすらと赤い線を残していた。それでもここまでは癒せた。 要素の薄い場所で無理に魔力を使ったせいか、急に酷い頭痛が襲ってくる。痛みに顔をしかめながら、それでももう一度、今度こそ完全に傷を消そうと唇を傷跡に寄せると、コンラッドに頭を押し返された。いつの間にか両手を押さえ込んでいた手が離れている。 「な……なにを!?」 珍しく焦ったような声が聞こえたのに、残念ながら頭痛に悩まされながら傷跡を凝視していたせいでその表情まで確認することはできなかった。 「なにって……あともう少し」 「だから一体なにを………」 ぼうっと見ていた目標地点に大きな手が当てられて、強く肩を掴んでそこから遠ざけられた。 「馬鹿な!こんな小さな傷にこんな土地で魔力を使うなんて!」 「だってわたしがつけた傷だから……」 ズキンと一際大きな痛みが襲ってきて、思わずこめかみを抑えてしまった。 「!」 「……平気」 抱えるように抱き寄せられて、コンラッドの肩を軽く押し返した。そんな必死になられるほどすごい魔力を使ったわけじゃない。 「剣を突きつけた相手に傷ができたからわざわざ癒すなんて、君は本当に何を考えているんだ!?だったらなぜこんな馬鹿な真似をした!」 「そんなの、決まってる」 なぜなんて、わたしにも判らないに、決まっている。 押し返したのに簡単に抱き上げられて、自分で歩けるのにベッドまで運ばれてしまった。 こんな揺れの中でも人ひとり抱えて歩けるなんて、コンラッドのバランス感覚はどうなっているんだろう。 「頭痛が酷いのか……他に症状は?」 「だから平気だってば」 ベッドに降ろされてからもう一度コンラッドを押し返す。本当に小さな魔術だったから、すぐに頭痛の波も引いていく。 軽く息をつくと、改めてコンラッドの首に手を伸ばした。 「やめなさいと言っている」 コンラッドは厳しい顔でわたしの手を掴んで無理やり降ろさせる。 「本当に君は何度言っても聞かない。魔族の土地を遠く離れた場所で魔術を使うなと、俺以外からも散々言われているはずなのに。それも、たったこれだけの傷に使うなんて」 「だってわたしがつけた傷だから」 本当は残していたいくらいだ。刻み付けておいてやりたい。 わたしがあなたをいつまでも消せないように、あなたにも、わたしの跡を。 あなたの心がわたしを消してしまうなら、せめて身体にその跡を。 でも、コンラッドの身体には今まで眞魔国を護ってきた、たくさんの傷跡がある。これ以上その身体に傷跡なんて増やしたくない。だから消すの。 わたしの醜い独占欲の跡なんて、この人に残したくない。 「もう傷なんて癒えている。跡だって残らない。だからやめなさい」 咎めるように強く手を握られて、コンラッドの首筋を見た。赤く走った線は細く、今にも消えてしまいそうで、確かにもう跡にも残りそうになかった。 それが少し残念で、とても安心する。 そうか……傷が欲しかったのは、わたしのほうだ。 心にその存在を刻みつけているのなら、いっそ身体にも刻みつけて欲しかったんだ。 小シマロンを二人で旅していたときに、この人に抱かれたいと願ったその延長だったんだ。 「……なんだ」 ほっとした。傷跡を残したいなんて思ったけど、コンラッドを傷つけたいわけじゃなかった。 「わかった。もうしない。着替えるから出て行って」 あっさりと頷いたことにコンラッドは怪訝そうな顔をしたけど、わたしが再度部屋の入り口を指差すと溜息をついて立ち上がる。 「無茶をしたんだ。とにかくゆっくり……眠るのは難しくても、できる限り休んでください。必要ならヨザックが来るまでは俺が傍に……」 「いらないわ。あなたはサラレギー陛下の護衛でしょう?これ以上、陛下に借りを増やしたくないの。もう十分すぎるほどたくさんお世話になっているから」 コンラッドは眉を寄せて、機嫌の悪そうな顔をしたけれど、それ以上は何も言わずに部屋を出て行った。 一人になった部屋は、それでも船が揺れて軋む音で、静かにはならない。 「上着を返しそびれちゃった」 コンラッドが出て行ってから、肩に掛けられていたそれに気がついた。遅すぎる。 「……また後で返せばいいよね」 着せられた上着ごとぎゅっと自分を抱き締めて、ベッドに倒れ込んだ。水滴がシーツに染み込んで、ただでさえ時化続きで湿気ていたシーツが濡れてしまう。 でも今は、そんなこともどうでもいい。 どうせわたしの中から消えてくれないなら、目に見える跡も残してくれたらいいのに。 ずっとずっと、消えない跡を。 切れた紐を括り直した小さな袋を服の下から引っ張り出して、中から片方だけのイヤリングを取り出す。 「知ってる、コンラッド?琥珀はね、永遠を閉じ込めたような宝石なんだって」 だとしたら、こんな色の瞳を持つあの人が、わたしをずっと捕らえているのも納得だ。 イヤリングを握り締め、僅かに残る頭痛と血の味に、そっと目を閉じた。 |
自分で自分を推し量ることも難しく、気づいたことに癒されることもなく。 |