階段下にコンラッドがいたことにびっくりして、残り後一段だった階段を踏み外してしまった。
「ひゃっ……」
「おっと!」
背中に回っていたヨザックさんの手に力が入って、お陰で膝が曲がっただけで転ぶことなくすんだ。代わりに、しっかりとヨザックさんに抱き締められている状態。
「なんでここで踏み外しますかね」
「す、すすすすすみません」
動揺している理由が、足が滑った驚きか、ヨザックさんに抱き寄せられたことなのか、それともそれをコンラッドに見られていたからか判らない。
ヨザックさんは笑いながらぽんぽんと軽く背中を叩いて手を離してくれた……んだけど、今度は廊下を進むのに横に並んで腰に手を回された。
「あの……」
「姫は手すりを掴んでください。オレが支えてますから」
「いえ、あの、階段はともかく廊下は大丈夫……」
ちらりとヨザックさんの向こうのコンラッドを見た。手に水差しを持って、じっとこっちを見ている。
反対に、ヨザックさんはコンラッドがいるのに気づいているはずなのに、一瞥もくれない。
ひ、一声も掛けなくてもいいのかな。だって相手は大シマロンの正式な使者の人なのに。
わたしの戸惑いが判っているのか、ヨザックさんは腰に添えた手で先に進むようにと、わたしを前に押した。


103.永遠なんて(2)


「ヨ、ヨザックさ……」
「さっさと部屋に入りましょう」
「いやでも」
ヨザックさんは戸惑うわたしに軽く眉を上げると、壁に押し付けるように身を寄せて狭い廊下の片側を空けて振り返った。
「先に行かしてもらおうかと思ったけど、うちのか弱い殿下を安全に確実にお送りするために、ゆっくり進むことにしたんで、お先にどーぞー」
「い、いたたた……」
壁とヨザックさんに挟まれて、手すりが背中を擦ってます。痛い、痛いってば!
「……そのか弱い殿下がお前に潰されているようだが」
「大きなお世話だ。小シマロンの陛下に水を持って行く最中ってとこか?急ぎだろう。さっさと行けよ」
「お前こそ、魔王陛下のお傍を離れていてどうする。どうせ通り道だ。そちらの殿下は俺が送るからお前は戻ればどうだ」
「はっはー、面白い冗談だ。大事な大事な殿下をお前みたいな危ない奴に任せるほど、オレは酔狂じゃねえよ。とっとと行けって」
「痛い、本当に背中が痛いってば!コ……ウェラー卿!早く行ってくださいーっ」
コンラッドがいる限り、たぶんヨザックさんは解放してくれないだろうと、ヨザックさんの服を掴みながら、右手は廊下の先を指差した。
「……判りました。ではお先に失礼」
ヨザックさんに潰されてたからそのときコンラッドがどんな顔をしていたのかは判らないけど、平坦な調子の声から推して知るべしというやつだ。精々呆れたように肩をすくめただけだろう。
壁に押し付けられながら首を捻って進行方向を見ていると、大きく左右に揺れているのに、バランス感覚がいいのかコンラッドは壁に手をつくだけでスタスタと歩いて行ってしまう。本当はヨザックさんもあの速度で歩けるんだろう。
コンラッドの背中が大分先に進んでから、ヨザックさんはようやく壁とのサンドイッチ状態から解放してくれた。
「いたた……」
「すみませんねえ。でもあいつが後ろについてきてたら、姫だって落ち着かないでしょう?」
ヨザックさんはわたしのすぐ背後に回って、後ろからついてくる位置に移動する。揺れで手すりから手が離れたとき、即座に対応できるようにだろう。
でもここは甲板じゃないから、滑らないだけさっきよりは歩きやすいし、もう大丈夫だと思うんだけどね……。
もっともらしいことを言うヨザックさんに、わたしは手すりをしっかりと握って溜息をついた。
「あのね、ヨザックさん。そんなに警戒しなくても、わたしだってもうコンラッドには頼らないから」
そう。ヨザックさんのあの態度は、コンラッドじゃなくてわたしに注意していたんだと思う。うっかり口が滑ったせいで、ヨザックさんはわたしが今でもコンラッドのことが好きだと知っているから。それでも、忘れられないのだと。
「……気づいてましたか」
「さっき最後の一段を踏み外したのも、まさかあんなところに人がいると思ってなかったから驚いたせいだし」
これはちょっと嘘だけど。
でもコンラッドは、今さらわたしとヨザックさんが抱き合ってたって気にもしないに決まっている。わたしとサラレギー王との結婚話のときだって、ありえないからって顔色一つ変えなかったくらいだし。大体、「何かすれば殺す」とまで言ったわたし相手にコンラッドがどうこうなんて、もうありえないだろう……ああ、自分で断言して落ち込む。
とにかく。だからヨザックさんが、コンラッドの前だとわたしを抱き寄せるとしたら、その意味はわたしに対しての訴えしかないはずだ。
思わず苦笑が漏れてしまう。
前を行っていたコンラッドが角を曲がって、その背中が見えなくなった。
「もう届かないのは判ってます。手を伸ばしたりしないわ」
「いや、姫のことだから、オレをさっさと陛下の下へ戻すためなら、あの男の手を取るかもしれないなと思ったもんで」
「それは考えないでもないですけど、それだとヨザックさんは心配で落ち着かないでしょ?大丈夫、急がば回れの精神に切り替えたんで、あの人の手は取らない」
「……だったらいいんです」
どうにかこうにかようやく部屋までたどり着いて、扉を開けところでまた船が傾く。
扉を開けて最初に目に入った光景は、横倒しになっていた椅子がこちらに向かって滑ってくるところだった。
「わっー!」
一気に迫ってきた椅子は、わたしの横から突き出した足でヨザックさんが蹴り飛ばした。
「たく、倒れちまえば滑り止めも意味ねえなあ」
「そ、そうですね」
船の中がドッキリハウスみたいになっていて、油断も隙もない。
よろよろとした足取りで、揺れる足元のバランスを取りながら部屋に入るとベッドに一直線。倒れ込むようにしてベッドに登ると、枕と毛布を抱えて座り直した。
一緒に部屋に入ってきたヨザックさんは、椅子と机を棚に寄せて手際よくそれを紐で括る。
「危ないんでこれは固定しときますね。時化を抜けたらオレが外しますから、姫が自分で外しちゃダメですよ」
「わたしの自己判断は当てにならないということですか……」
「そうは言いませんがね。いいですか、姫。くれぐれも」
「はい。ウェラー卿が来ても部屋には入れません」
右手を宣誓の形で上げて先回りすると、ヨザックさんはよろしいと言わんばかりの表情で頷いて扉に向かった。
「ときどき様子を見に来ますが、何か御用があれば小シマロンの船員を捕まえてオレを呼び出してください。ご自分で上がってこないでくださいよ。いいですね?」
「判ってます。無理はしません」
余計にヨザックさんの負担になっているようじゃ意味がないもの。
「部屋に篭ってますから、ご心配なく」


そう力強く約束したのに、ヨザックさんが出て行ってすぐに、いきなり宣言を翻すことになった。言い訳になるけど、最初はちゃんと言い付けを守るつもりでいたんです!
くれぐれもコンラッドには気をつけるようにと言い聞かせてヨザックさんが出て行くと、深い溜息をついて床に固定されたベッドにしがみついた。ゆらゆらと船の揺れがますますひどくなってきたからだ。
でも寝転ぶと、船酔いの胸焼けが酷くなるような気がする。
「きついなー……」
そんなことを言ってるそばから、ベッドから転がり落ちかける。
「き、きついなー!」
慌ててベッドのパイプを掴んで床へのダイブは止めたものの、そのままシーツが滑るようにずれて、結局床に落ちた。
「……時化を抜ける頃には、間違いなく痣だらけになってるわ」
強かにぶつけたお尻を擦りながら、蒙古斑みたいになっていないだろうかという心配が。
「でもこれ以上ヨザックさんを痣だらけにするわけにはいかない……せめてわたしの分だけでも」
ベッドに上がるのは諦めて、毛布を下に敷いてベッドの足に手を掛けどうにか位置を安定させようと努力していたら、扉を叩く音が聞こえた。
最初は波間で船体が軋む音だと思っていた。それがドンドンと強く叩かれて、びくっと震えてベッドにしがみ付く羽目になる。
「申し訳ありませんが、サラレギー陛下がお呼びです」
「……コンラッド?」
誰かと思ったら、ヨザックさんにくれぐれも注意しろと念を押されたその人だ。
居留守を使いたいのは山々だけど、残念ながらコンラッドにはさっき廊下で顔を合わせている。
しかもサラレギー王の呼び出し。
コンラッドの用事なら知らん振りを決め込んでしまおうかと思ったのに、「部屋にいるのに出てこない」なんて報告をされたら堪らない。
サラレギー王には、できるだけ良い心象を持ってもらわなくちゃいけないんだから。
「……ごめんなさい、ヨザックさん……」
両手を握って、今は操舵室に戻っているヨザックさんに小さく懺悔すると、仕方無しに四つん這いで扉に向かった。こっちのほうが早くて安全なだけで、決して立てないほどの揺れだったわけじゃない。
扉に手をついて立ち上がりながら、扉越しに声を掛ける。
「何の御用ですか?」
「サラレギー陛下がお呼びです」
「だから何の御用かと……」
聞き返したら、返答は別の声で返って来た。
「少し話がしたくて」
「……サラレギー陛下!?」
まさか本人が来ているなんてと扉の向こうから聞こえた声に、驚いて扉を開けた。勢い余った上にまた船が傾いて、そのままたたらを踏んで突っ込む形で廊下に飛び出してしまう。
「わっ!」
「危ない!」
伸ばされた手は、馴染んだ頼り甲斐のあるものではなくて、細い少年の腕。
その手に抱き留められて、支えてくれた人ごと壁にぶつかった衝撃に蒼白になる。
「も、申し訳ありません、陛下!」
すぐに離れようとしたのに、肩をぎゅっと抱き締められた。
思わず握り締めた拳を、慌てて開いて我慢する。殴っちゃいけない、殴っちゃいけない。
に怪我がなければいいんだ。女の子だもの。気をつけないと。わたしなら大丈夫。ウェラー卿が庇ってくれたから」
え?と驚いて顔を上げると、薄い色のサングラス越しに微笑むサラレギー王の後ろで、憮然とした表情のコンラッドが壁とサラレギー王の間に挟まれていた。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ。それより陛下、彼女は私がお連れしますから、部屋からは出ないようにお願い申し上げたはずですが」
今度こそサラレギー王から離れたわたしには目もくれず、コンラッドは守るべき少年を後ろから腕の中に引き寄せたまま、咎めるような口調で覗き込んだ。
「だって絶対にに会いたかったのだもの。ウェラー卿が説得に失敗したらと思うと待っていられなくて」
サラレギー王はコンラッドの手を払おうとしたけれど、また揺れると危ないですからと、コンラッドは手を離さなかった。
コンラッドが、今守るべき人は、サラレギー王だ。有利ではない。
……もちろん、わたしでもない。
わたしはすぐに微笑んで、扉を閉めながらサラレギー王に向かって首をかしげる。
「ご心配いただかなくても、陛下のお召しでしたら喜んでお伺いさせていただきます。さっきはウェラー卿が、どのような御用か仰って下さらなかったので問い返しただけです」
「それは嬉しいな!……ところで、ユーリとあなたたちの護衛の男は、まだ操舵室に?」
「ええ。この海域を抜けるまでは篭っていると思います」
ここで嘘をついても仕方がないので素直に頷くと、サラレギー王は表情を輝かせてわたしに向かって手を差し出す。
「なら、わたしの部屋で一緒に話でもしよう。この荒れ模様にひとりだと落ち着かないのではないかな」
そんなことはない。確かに一人でじっとしているのはつらいけど、サラレギー王と二人きりになるなら、部屋に篭ってるほうがずっと気楽ですー………とは、言えない。
「ウェラー卿、もう大丈夫だよ。手を離して」
まだ後ろから抱えられているサラレギー王は、不愉快そうにコンラッドの腕を払い落とそうとしたけど、コンラッドはその手を離さない。
「いえ、急に揺れたときが危険です。このまま部屋まで」
「部屋まで!?」
「ですから、部屋から出ないでくださいとお願い申し上げたではありませんか」
「わたしは大丈夫だ。女性のならまだしも……」
「では、殿下を支えていたほうがいいでしょうか?」
不愉快そうなサラレギー王に、コンラッドが淡々と提案して、わたしは慌ててそれを拒否する。
「大丈夫です!わたしは大丈夫ですから、ウェラー卿はそのままサラレギー陛下を守ってください。陛下、護衛の任にある彼が過保護なのは仕方ありませんわ」
サラレギー王のお下がりや、義務でなんて守られたくはない。コンラッドだからこそ。
……未練たらしいことこの上ないなあ。
サラレギー王は不服そうだったけど、それ以上はコンラッドの手を無理に振り払うことなく、わたしに行こうと促してくる。
壁に手をつきながらそれに従って、肩越しに少しだけ後ろを振り返った。
できればサッと行ってサッと帰って来たい。少なくとも、ヨザックさんが次に様子を見に来るよりは先に部屋に戻っておきたい。でないと、今度こそなけなしの信用が消え失せてしまう様子が目に浮かぶようだ。
ごめんなさい、ヨザックさん……でもサラレギー王も一緒だから大丈夫、だと思う……。








さっそく部屋でじっとしてません……。


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