スカーフは綺麗に洗って、当て布をしながら丁寧にアイロンまであてた。 どこをどう見ても靴跡など残っていないし、これで完璧だと何度も確認した上では目の前の資料室のドアを憂鬱に眺めていた。 ドアを開けようとして、何度も躊躇して、項垂れながら深く溜息をつく。 「なんでこんな日に限って……ダスティが見つけられないんだろう……」 自分で呼び出したのだから自分で行かなくてはと思っているくせに、それでもどこか逃げ腰で幼馴染みを探したのに、朝から昼に至るまでに結局見つけ出すことができなかった。 ことごとく空振りに終わりとうとう昼休みになってしまったので、仕方なくここまで来たけれどヤンと顔を合わせるのは気まずい。せめて第三者がいればと幼馴染みを探したのに。 ノブを握れずドアに掌をついてそこに額を当てると、深く溜息をつく。 「……それは昨日、私も寮で思ったね」 聞こえるはずのない声が、資料室に入る前から聞こえてはその場で固まった。 油の切れた軋む歯車のようなぎこちなさで、ゆっくりと首を捻りながら、身体を起こす。 すぐ近くに立っていたのは、不機嫌そうに眉を寄せた、黒髪の上級生だった。 「昨日、寮に帰って君の事を聞こうとアッテンボローを探したけれど、見つからなくてね」 「ギャァアーー!!」 覚悟を決める前に現れた当人に、は頭の天辺から抜けるような悲鳴を上げて壁際まで後退りした。 青銅の蝶(4) の激しい反応に、ヤンは不機嫌そうな眉間のしわを消して目を瞬く。 「君が呼び出したんだろう」 「はい!はい、まったくその通りですっ!」 は壁に張り付いたまま、片手を上げて宣誓のポーズを取る。よほど混乱しているということだけは自覚できたが、どうすればその混乱が収まるのかが思いつかない。 目を白黒させて冷や汗を流すに、ヤンは息をついて右手を差し出した。 「それで、返してもらえるんだろう?」 「あ、は、はい」 慌ててスカーフを返そうと手を出しかけて、我が目を疑う。 綺麗に畳んで返す準備をしていたのに、驚いた拍子にぐしゃりと握り締めてしまっている。 出しかけた右手をすぐにまた後ろに引っ込めたに、ヤンはいよいよ不機嫌そうに右手を揺らした。 「君は何がしたいんだ」 「で、できれば明日まで待って……」 「だから、何がしたいんだと……!」 「だってしわだらけに!」 本人としては珍しく声を荒げたヤンは、思いもよらない返答にぱかりと口を開ける。 「なに?」 「お、お返ししようと思ったんですけど、握り締めてしわだらけに!あ、明日こそ綺麗にして持ってきます!」 ヤンは出していた右手を一旦引いて、収まりの悪い黒髪に手を突っ込んで頭を掻いた。 「綺麗にって君、そもそも一体なんで私のスカーフを取って行ったんだ」 「わ、悪気はなかったんです!」 「いや、だから……」 「いきなりスカーフが降ってくるなんて思ってなくて!まさか踏みつけることになるなんて!」 は必死に身を乗り出して説明をする。 「泥がついて、だから洗って返そうと思って、だから、あと一日待ってください!」 の勢いに圧倒されて、ヤンは唖然として目の前の後輩を眺めた。 今、彼女は何と言っただろう。 スカーフが降ってきて、踏みつけた。 泥がついたから、洗って返そうと。 またしわが出来たから、あと一日待てと。 両手で握り締めている拳の隙間からはアイボリー色の布地が覗く。あれでは確かにしわができたどころか、よれよれだろう。 呆然と頭を掻いた姿勢のまま、あまりの必死具合にヤンは思わず吹き出した。 「な、なんだ……そういうことか……」 先ほどまで不機嫌の塊のような表情だった上級生がいきなり笑い出して、はつま先立ち一歩手前の、身を乗り出した姿勢のままでぽかんとしてそれを眺める。 「あ…の……?」 「それならそうと、どうして昨日説明しなかったんだい?」 「それは、その……寮に帰ってから、説明すればよかったって、気が付いて……」 だって先輩の制服を踏むなんて、と口の中でもごもごと言葉をこね回すが視線を落とすと、握り拳からはみ出していた布をヤンが指先で摘んだ。 「しわくらい、構わないよ。洗ってくれたら充分さ」 握った布を引っ張られて、は慌てて力を込めて抜き取られないようにする。 「そ、そういうわけには!明日きちんとして返します!」 「今返してもらえるほうがありがたいけどね」 そう言われて思わず手を開くと、ヤンはしわだらけのスカーフをひらりとはためかせて手元に引き寄せた。 「ああ、確かに結構しわだらけだ」 「や、やっぱりもう一度洗って……」 が慌ててスカーフを追って手を伸ばすと、ヤンはそのスカーフを乱雑にポケットに捻じ込んでしまった。 「どうせ締めてしまえば一緒だよ」 手品師のように両手を広げ、手には何も持っていないと示したヤンの苦笑の表情がすぐ目の前にあると気付くまで数秒かかった。 抜き取られたスカーフを追ったせいで、ヤンに抱きつくくらい近付いている。 「す、すみません!」 慌てて飛びのいたに、ヤンは指先で頬を掻きながら軽く首を傾げた。 「君は結構、不器用らしいねえ」 「……すみません」 恥ずかしくてぐっと喉で押さえるように絞り出した声は不機嫌に掠れていて、返答した本人も驚いたが、目の前の上級生もはっと姿勢を正した。 「いや、馬鹿にしたつもりはないんだ」 「す、すみせません。そういうつもりじゃなくて……」 お互いに、自分の発言や態度を言い訳しようと口を開くと、相手の言葉も同時に聞こえてやはり同時に口を閉ざした。 は真っ赤になって両手で口を塞いだが、ヤンはきょとんと目を瞬いて小さく吹き出す。 「すまない、なんと言うか……」 肩を揺らして笑いながら、ヤンは間を取るように軽く手を挙げた。 昨日と同じ場所で、ヤンが口にした今日の謝罪はずっと軽くて、だが今度はの表情も自然と和らぐことが出来た。 どうにかこうにかスカーフの返却ができたことで、の肩から力が抜けた。 それとも、目の前の上級生自身が気楽な様子になったからかもしれない。 「あの……」 「ん、なんだい?」 が声をかけると、ヤンは昨日までは聞けなかった気負いのない声で答えた。 そういえば、最初に言葉を交わしたときはこんな話し方をしていたような気がする。その後の印象が強くて、ヤンのことは嫌な奴とか、気難しそうだと思っていたのに。 「えっと……昨日、えーとここで、会ったとき……」 昨日の話をした途端、ヤンの表情が曇った。 余計なことを言ったかとが後悔すると、すぐにヤンはそれを否定するように首を振った。 「君に失礼なことをしたと、反省しているよ」 「え!?」 昨日はその一言の謝罪すら、随分と迷った挙句にようやく口にしたのに、今日はするりと謝られて、が驚いたように一歩下がるとヤンは眉間にしわを寄せた。 「ラップの言うとおり、君には八つ当たりをしてしまった。軍事技術工科の設立と、君は何の関わりもないのに……いや、君はただ入学してきただけなのに」 「え、あ……い、いえ、気にしてません」 思い切り腹を立てはしたのが、そのことは脇に置いてが首を振ると、ヤンは少しほっとしたように息をついた。眉間のしわが減る。 昨日今日とこの場所で見せたあの表情は、機嫌が悪いのではなくてバツが悪かったのだとようやく気が付いた。 思い返せば、あの幼馴染みが気難しい、頭の固そうな相手を気に入るはずがない。 きっと、はとことん間が悪かったのだ。 「ヤン先輩は、本来は戦史研究科で入学したとラップ先輩からお聞きしました。軍事技術工科のせいで廃止になったと……」 「ああ……だけどそれは言い訳だよ。それで君を侮辱するようなことを言っていいわけじゃない。君は君の目標があって入学してきたのだから。それに……」 そう言われると、今度は学費がタダだからと士官学校を選んだことに申し訳ない気持ちになってくる。 急に落ち着かなくなって、は謝罪を続ける先輩に手を上げてそれを遮った。 「しゃ、謝罪していただなくて結構です」 「いや、だけど」 「その、わたしは先輩のように、士官学校に目標があったわけじゃないんです」 「え?」 「う、うちにはお金がなくて……でも、工科技術を学びたかったんです。士官学校なら学費がかからないから……」 口にしてみると、士官学校の先輩に向かってこれほど失礼な話はないかもしれない。 立派な軍人を目指して、そのために士官学校に入ったという人物なら国防とか愛国心とか、それとも自分の大切な人を守りたいだとか、そういった志があるだろう。 金銭の問題だけで入学したのだと聞けば怒り出すかもしれない。 母親が一人で努力して自分を育ててくれたことを思うと、自身は決して金の問題を軽んじてるわけではないが、学校設立の趣旨からは確実に外れている自覚はある。 まるでにもそんな志があるのだと思われて謝罪されることが居たたまれなくて、幼馴染みにすら話していなかった本当の理由を口にしてしまったことを後悔する。 恐る恐る顔を上げたの目に、唖然と口を開けて固まっているヤンが映った。 今度こそ怒鳴りつけられる前に逃げ出そうかと考えていると、ヤンの口が閉じられる。 閉じた口はそのまま端が持ち上がり、唇が震え、こらえ切れないように隙間から空気が漏れた。 その途端、ここは廊下だというのにヤンは大声で笑い出す。 腹を抱えて笑うその姿は、壁を叩いていないだけで昨日のラップとそっくりだった。 |
や、やっとヤン夢らしい展開に……! |