怒りも呆れもせず、ひたすら笑うヤンに今度はのほうが唖然とする。
あまりにも信じられない理由が、笑いのツボにでも入ったのだろうか。
それとも、出来の悪い冗談として取られたのかもしれない。
どうしたものかと笑い転げる上級生の扱いに困り果てるを見て、ヤンはようやくどうにか笑いを収めながら、目の端に浮いた涙を指先で弾いた。
「ま……まさか、同じような考えの子がいるとは、ね……」
「は……?」
不可解な言葉に首を傾げるに、ヤンにはまたおかしそうに笑った。



青銅の蝶(5)



ヤンはまだ残る笑いを手で押さえながら、資料室のドアを開けた。
一度を振り返り、中に入ったところを見るとついて来いと言っているのだろう。
後に続いて無人の資料室に入ると、ヤンは背の高い書棚に並ぶ本の背表紙を指先で辿りながら歩く。
「私は、君と同じだよ」
「え?」
「私はね、歴史を学びたかったんだ。だが、金がなくてね」
が目線より少し上にある黒髪の後頭部を見て首を傾げると、そんな動作が見えていたわけでもないだろうけれど、ヤンは立ち止まってすぐ横にあった本を一冊引き抜いた。
「士官学校ならタダで歴史が学べると思ったんだ。残念ながら、戦史研究科は廃止されてしまったけれど」
おどけたように肩を竦めるヤンの表情には、の恐縮をほぐしてやるための嘘という雰囲気はない。
「そんな人間は私だけかと思っていたが、案外と私や君の他にもいるかもしれないな」
照れくさそうに笑ったヤンに、の頬もようやく少し緩んだ。
「わたしも……そんな理由の入学者はわたししかいないと思ってました……」
微笑みながら、ここにはいない幼馴染のことを思い出す。
やっぱり、あの幼馴染みとは人の好みがそっくり似ているらしい。
最初の悪い印象が抜けると、ヤンはずいぶん話しやすい先輩だった。
「じゃあ先輩は、女が工科を目指すことがおかしいと考えている訳ではなかったんですね」
ヤンはの最後の確認のつもりの疑問に、驚いたように慌てて首を振る。
「ああいや、そういうつもりはない。そんなことはないよ。私の知っている子にも、整備士を目指している女の子がいたからね」
「そうなんですか?」
最後に引っ掛かっていたことも否定されて、やはり嫌な先輩というのはタイミングの不味さからきた印象だったと保証されたようでほっとする。
「うん。と言っても、実はどこの子かも覚えていないのだけどね。私は子供の頃は商人の父親について宇宙を飛び回っていたから、どこで会ったかもはっきりしないんだよなあ」
記憶を辿るように天井を見上げて、ヤンは小さく笑った。
「その子は父親の工場によく忍び込んでは怒られていたようでね、あのときもそうだった。見かねた私の父が助け舟を出して、私に子守りを命じてね。年下の、しかも女の子の相手なんてしたことがなかったから、弱り果てたのを覚えているよ。私に出来ることと言ったら、歴史の話をすることくらいだったけれど、その子が大人しく聞いてくれて本当に助かった」
懐かしそうに語るヤンの横顔を見ながら、は眩暈を覚えて書棚にもたれかかった。
上級生を目の前にして失礼極まりない体勢だが、倒れるよりずっとましだろう。
どこかで覚えのある話で、どこにでも転がっていそうな子供の頃の話だ。そう思いたい。
だけど整備士を目指した小さな女の子と、その子守りをした歴史学者志望の男の子、という組み合わせも、果たしてありふれているものだろうか?
は思わず溜息を漏らしかけて、両手で顔を覆った。
まさか、だ。
まさか、こんなところで、再びあの男の子に会うことがあるなんて。
しかも信じられないことに、あれだけ憧れていたのに、その第一印象は最悪だった。
「ふらふらと鋼鉄の間を歩き回っている女の子を、工場の人達は花ならぬ鋼鉄に惹かれる蝶のようだと可愛がっていたね……ひょっとして、君もそのくちかい?」
ヤンが見下ろすと、は俯いて両手で顔を覆っている。
「ど、どうしたんだい?あ、ひょっとして昼食がまだだったとか」
「いえ……」
息をついて両手を降ろすと、ゆっくりと顔を上げる。
「すごい偶然があるんだな、と驚いて」
困ったような、心配するような表情だったヤンは、の微笑に目を瞬いて、そして不調ではないのだと判ると、ほっとしたように胸を撫で下ろして微笑んだ。
「そうだねえ……狭い士官学校の中とはいえ、同じ志望動機の者同士が同じ時期にいるなんて。おまけに同じような夢を持つ女の子と、私は二人も会ったよ」
同じような、ではなく同じ子だと知れば、この先輩はどういう顔をするだろう。
奇遇を驚くか、気づかなかったことにばつが悪くなるか、それとも懐かしさを覚えてくれるだろうか。
あれだけぼやけていたはずの男の子の顔が、今は鮮明に思い出せる。
が興味深く話を聞くと、とても嬉しそうに歴史の講義をしていた、あの男の子が。



懐かしい、きっと二度と会えないと思っていた初恋の少年に再会できたの心は、だけど懐かしさが込み上げるだけで、さすがにあの頃の胸の高鳴りまでは甦らなかった。
「……思い出って所詮、思い出ね……」
ふっと笑って小さく呟いた声は幸い、隣のヤンには聞こえていない。
容姿の美醜の問題ではない。ヤンは特別に美男子というわけではないが、見栄えは悪くないと思う。あの頃と違いちょっと頼りなく見えるけれど。
人柄も悪くはない。上級生だからとやたらと威張り散らすわけでもなく、むしろ一度会っただけの下級生への暴言を悔いて謝ろうとしてくれたくらいだ。
単にその当時の気持ちは、その当時のものだと思っただけだ。
隣に立つヤンを先輩としては好ましく思うが、初恋の少年だったと判っただけで異性としてまで見るかと言われれば、答えはNoだ。
再会の感慨に耽っている時に、腹が減ったのかと聞かれること事態が、既に恋愛としてはマイナスだと思う。もっとも、ヤンはこれが再会だなんて知らないのだから、当然といえば当然の反応だと判ってはいるが、雰囲気というものがなかったことは確かだ。
スカーフは返したし、お互いに非礼も謝ったし、誤解も解けた。
ヤンが手にしていた本を書棚に戻すの眺めながら、がそろそろ辞去を告げようと口を開いたとき、書棚の向こうで資料室のドアが開く音が聞こえた。
誰かが入って来たのかと書棚の間から顔を覗かせると、向こうも顔を覗かせた。
もう何年も一緒に居る幼馴染みだ。
「ダスティ」
「あれ、。お前なんでまたここにいるんだ?」
「用事があったからだよ。あんたどこにいたの?朝からずっと探してたのに!」
「馬鹿、どこって校内にいたに決まってるだろ……っと、ヤン先輩?」
うるさい足音を立てて資料室に入ってきた幼馴染みは、傍まで来ての隣にいるヤンに気付いて目を瞬いた。
「やあ、アッテンボロー。私も昨日、寮で君を探していたんだけど、まさか昨日も脱走していたのかい?」
「ええ?昨日は寮から出てませんよ。自分の部屋には戻りませんでしたけど」
「……どこにいたのよ、あんた」
「他の奴の部屋で徹ポー」
「なに、徹ポーって」
「徹夜でポーカー」
は額を押さえて溜息をつくが、ヤンはその後ろで声を出して笑う。
「ヤンはいたかアッテンボロー……候補生?」
アッテンボローと一緒に来ていたのか、足音が聞こえてその後ろから顔を覗かせたラップは、後輩とは対照的にの存在に目を丸めた。
そして昨日まではあったはずの険悪な雰囲気が見えないことに、ふむと僅かに唸って顎を撫で、それから小さく吹き出す。
ラップの笑いの意味が判らず首を傾げる三人に、笑いを漏らした本人は口を押さながら、小さく漏らした。
「……誘惑……」
ラップの呟きが冗談に満ちていたからアッテンボローは即座に一緒に吹きだしたが、言われたは笑うどころではない。
真っ赤になって、思わず足を踏み鳴らす。
「してません!」
よりによってヤンを相手に言われたせいで、なぜだか余計に恥ずかしい。
昔の恋は昔のものだと実感したばかりだったのに。
必死の様子のがおかしかったのか、二人はますます大きく笑う。
「ちょっとダスティ!あんたのせいなのに、あんたが笑うな!」
「俺のネタだから、俺が笑うんだろ?」
先輩に詰め寄るわけにはいかず、幼馴染みだけを締め上げるが本人は悪びれることなく手を振るだけだ。
「……何の話だい?」
一人だけ意味が判らないヤンが首を傾げて訊ねてきて、口を開きかけた幼馴染みと先輩に、は蒼白になって悲鳴のような声を上げた。
「なんでもありません!」
怒りにギリギリと拳を握り締めると、意味が判らず首を傾げるヤンを見て、しばらく二人は笑い続けた。








定より延び延びでしたが、これにて青銅の蝶は一旦幕です。
士官学校先輩後輩コンビが好きなので、また続きを書きたい野望はあります。
(これは四人だからコンビじゃなくてカルテットかな?)
恋らしき恋にまだ発展してませんし(^^;)

この話は自作お題のタロットから「魔術師」を当てています。
魔術師の寓意は熟練、器用さ、意志力、悪知恵、才能、独自性など。
正位置は愛の始まり、いつでも新鮮、スタート好調、入学、独創性など。
逆位置は嘘の多い恋、進展しない、気持ちが伝えられない、失敗するなど。
スタート好調と入学から出来た話です。ヤンとの出会い(再会)のスタートは不調でした
が、士官学校生活全体のスタートとしてみれば、早々の出会いで好調ではないかと。



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