にとって、士官学校の生活は可もなく不可もなく、と言ったところであった。 何しろ入学したてで、寮生活にしろ講義にしろ、まず慣れることが第一で、良い点を見つけることも、悪い点をことさら並べ立てる余裕もなかったからだ。 専門科目については、まだ基本も基本、基礎も基礎から始めるために、実家で父親が健在だった頃には工場に出入りしていたは理解に困ることはなく、一般教養に関しては、教本読みから始まる初期の段階で興味を惹かれるはずもない。 射撃や格闘訓練、空戦技術シミュレーションなどの士官学校らしい実践教科はまだ本格的に始動していないので、評価することもできない。 が新しい生活に慣れることに腐心している間に、不満を零していたはずの幼馴染みのほうがずっと早くにこの生活を楽しむ術を見出していると知ったのは、入学してまだひと月ほどしか経っていない、十月のことだった。 青銅の蝶(2) 学校の食堂で、教本の図面を眺めながらスプーンを動かしていたは、正面に誰かが座っても顔も上げなかった。 咳払いが聞こえてようやく正面に目を向けると、ジャーマンポテトとライスをそれぞれ山盛りにした皿中心の昼食トレイを置いた幼馴染みが座っている。 「……なに、そのチョイス。炭水化物ばっかり」 「いきなりメシにツッコむのかよ。しょうがないだろ、育ち盛りはエネルギーが必要なのに、肉の分配量は限られてるんだから」 腹持ちのいい食材で胃を膨らませるのだと不満そうな内容を零している割には、アッテンボローの機嫌は良さそうだ。 明るい声色の幼馴染みに、はようやく教本を閉じて話を聞く体制に入る。 「何か楽しいことでもあったの?」 「ああ!ここの生活も、なかなか悪くないかもなって思うようになってきたよ。要は自分で楽しみを見つければいいんだ」 三日前同じように昼食が一緒になったときは、生活指導教官のドーソンの髪型から制服のスカーフの結び方まで注意する無意味な指導の細かさに腹を立て、これからの生活が思いやられると嘆いていたのに、どういう心境の変化だろう。 幼馴染みの性格上、ここは先を促して欲しいのだろうとカップスープを一口すすってから、興味深げに首を傾げた。 「だから、何があったの?自分ばっかり楽しんで」 「面白い先輩に出会ったんだ。ここって規則規則で抑圧が多いから、ちょっと昨日の夜に命の洗濯に出かけたわけなんだけど……」 「待って、夜って?まさか脱走したの!?」 「大声出すなよ。命の洗濯だって」 頭を突き出して声を潜めるアッテンボローに開いた口が塞がらない。 もともと反骨精神旺盛だったけれど、まさか入学してたった一ヶ月で、もう規則を破るとは思わなかった。 「三日前にドーソン教官がどれだけ嫌味ったらしくてねちっこいか愚痴を零してたくせに!」 アッテンボローに合わせても昼食のトレイを横に押しのけながら、声を潜めて顔を寄せる。 「面白い先輩って、まさか脱走をそそのかされたの?」 「違う。塀をよじ登って寮に帰ってきたところで、見回りの先輩に見つかってさ」 は大声を上げそうになって、慌てて両手で口を押さえた。 脱走や門限破りと言っても、一回目の今回は見つかっても懲罰くらいで退学にまでなりはしないだろう。だが、入学してたった一ヶ月でそんな問題を起こせばこれから先、問題児として教官たちのブラックリストに載ってもおかしくはない。 その割にアッテンボローの表情は晴れやかで、とてもではないが口やかましい生活指導教官に突き出されたようには思えない。 面白い先輩という最初の評を思い出すと、おのずと答えが浮かび上がった。 「見逃してもらえたの?」 「肩をすくめて苦笑しただけだったよ。話の判る上級生もいるもんだ」 目上からの抑圧には反発するけれど機転もよく、抜け目はないし、目端も利く。 この幼馴染みは昔から、上級生にはとことん嫌われるか、よく可愛がられるかのどちらかだった。 どうやら、さっそく気の合いそうな上級生を見つけることができたのが楽しいらしい。 「さっき集めた情報では、昼休みはよく資料室で本を読んでるんだってさ」 そして、ジャーナリストを目指していただけあって、行動は素早く、情報収集も的確だ。 「さっさと食えよ。後で先輩に礼を言いに行くからさ」 「……え、なんでわたしまで?」 当たり前のように一緒に行くと言われて目を丸めると、さっそく口一杯にジャーマンポテトを頬張ったアッテンボローは、数回咀嚼しただけで無理やりそれを飲み込んだ。 「だって……いい先輩には、会ったほうがお前も楽しいだろ?」 水を飲んで口の中を整理してから一言だけ説明すると、後はもう昼食に集中してポテトを掻き込んで行く。 呆れて唖然とするに気付くと、アッテンボローはスプーンを振って、早く食えと再度促す。 この幼馴染みとは昔から気が合うから、アッテンボローが気に入った先輩ならも確かに好感を持てる人物ではあると思うけれど、いきなりぞろぞろと挨拶に行けば相手が迷惑なんじゃないだろうか。 言い出したら聞かない、そして無鉄砲な幼馴染みをよろしくお願いしておこうと、仕方なしにも食事を再開した。 その上級生がよく篭っているという資料室は、学生の出入りの少ない校舎端にある書庫として使われている部屋だった。おかげで人気はまったくない。 「さあて、ヤン先輩はどこかな」 昼食を取って腹いっぱいになったところで、うららかな日差しの差し込む資料室につれてこられたは昼寝でもしたい気分でまったりと幼馴染みについて歩いていた。 おかげで、うっかりとその先輩の名前を聞き逃したのだ。 もっとも、しっかり聞いていたとして、その名前だけで一ヶ月前の不愉快な話を思い出したかどうかは疑問であっただろうけれども。 だが、顔を見ればすぐに判る。 「あ、いた。ヤン先輩!」 資料室の奥の机で、分厚い本を広げていた黒髪の上級生が振り返る。 衝撃を受けて思わず立ち止まった幼馴染みには気付かずに、アッテンボローはそのまま恩人の元に歩み寄った。 「ええっと……?」 「自分はダスティ・アッテンボローといいます。昨夜は本当にありがとうございました!」 「ああ……」 顔を見ただけではアッテンボローが誰だか判らなかったらしい上級生は、元気な下級生の自己紹介にようやく納得したらしく苦笑を浮かべて頷く。 「気にしなくてもいいさ。門限破りを捕まえて、寮監に報告して、調書を取って、とそんな手続きが私も面倒だっただけだからね」 「面倒大いに結構ですよ。おかげで俺はドーソンの野郎……っと、ドーソン教官の長ったらしい説教とねちっこい懲罰を喰らわずに済んだんですから」 「礼を言われるほどのことじゃないし……言われてもあまりよろしくないことだねえ」 そう言って笑ったヤンは、ふとアッテンボローの後ろにまだ誰かいることに気付いたらしい。 少し身体を傾けてその背後を窺った。 驚きで足を止めたのライトグリーンの瞳と視線がぶつかって、思わずという様子でくしゃりと顔をしかめた。 一瞬の邂逅だったアッテンボローのことは覚えていなかったが、同じく短時間の邂逅だったのことは覚えていたらしい。 アッテンボローとは人物評がそう大きく外れたことはなかったが、今回だけは大ハズレだと、は恨みを込めて幼馴染みの背中を睨みつけた。 「あー……」 「あ、すみません。こいつは・と言いまして、俺の妹分で」 「誰が妹分よ!?」 勝手に子分にするなと憤慨しても、幼馴染みは笑うだけだ。 「俺の恩人はこいつにとっても恩人ってことで、一緒に礼に窺いました」 勝手に決めるなとが唸りながら幼馴染みを威嚇していると、ヤンは頭に乗っていたベレー帽を手にして、まるで雑巾を絞るように両手で握り締める。 「ああー……うん。候補生のことは……知っているよ」 ヤンの歯切れの悪い調子にも気にした風もなく、アッテンボローは目を丸める。 「え、そうなんですか!?なんだよ、お前そういうことは早く言えよ」 「早くも何も、相手の名前も言わずに引っ張ってきたのはダスティでしょ」 「そうだっけ?でも俺が好きそうな先輩の話くらいはしろよな」 そうして、幼馴染みの機嫌が悪いことも気にしない。 女が工科に入学するとは珍しいなどと、女性蔑視とも取れる発言をするような男を、この幼馴染みが気に入ると思うはずがない。 あんたは騙されてるのよ、とさえ言いそうになったは、それさえ憎き相手に先を越された。 「悪いけれど、用事があるからこれで……」 ヤンは眉間に皺を寄せて、開いていた分厚い本を閉じると席を立つ。 「あ、はい。お時間をとらせてすみませんでした」 アッテンボローも昨夜受けた印象と少し違うものを感じたのか、少しの間を空けて慌てて敬礼する。それとも単にまだ上位者を見送る時には敬礼という習慣が身についていないだけかもしれない。 元気な下級生の横を通り抜け、不服そうな表情をどうにか消して敬礼するの横を通る時、ヤンは一度足を止めた。 「……えーと……」 のほうを見ようともせず、だがその目の前で立ち止まって、分厚い本を片手に、ベレー帽を握り締めた手の甲を額に当てて、ヤンはその場で数十秒ほど固まった。 困惑するのはも同じだ。 上級生を相手に何か用かと喧嘩腰になるわけにもいかず、敬礼した手を降ろしていいのかも迷う。 たっぷり一分は立ち止まっていたヤンは、やがて何も言わずに本を抱えたままよろよろと歩き去った。 「……何、あれ?」 扉が閉まり、その背中が資料室から見えなくなった途端に呆れたように呟くに、アッテンボローも首を傾げる。 「お前、ヤン先輩と何かあったのか?」 「……べっつにー」 説明するのも不愉快だ。 女のくせに機械好きなんてと、幼い頃も同じ歳頃の子供にからかわれたことはあるが、隣に立つ幼馴染みは、そんなからかいには怒るよりもせせら笑って相手を小馬鹿にしていた。 「女のくせに、男のくせにって、今からそんな凝り固まった偏見を持ってるなんて、大人になったら石頭どころか、頭が石そのものになるんじゃないのか?」 それこそ、子供のくせにこんな生意気な反論をしてみせたくらいだ。入学式の日にあった出来事を話せば、恩人を庇いつつも微妙な調子でに同調してくれるかもしれないけれど、陰口を叩くようで楽しくない。 もう用は終わったと、入り口に向かって歩きながらは簡潔にまとめた。 「石頭ならぬ、頭が石の相手とはどうやっても相容れないってだけの話!」 これであの男の話は終わりだとばかりに怒鳴り返して勢いよく扉を開ける。 「なんだそりゃ。ヤン先輩はどちらかどころか、完璧に話の判る相手だろ」 「ダスティにとってはね!わたしが気に食わないだけ!」 「あ、おいちょっと待てって」 荒い足取りで先を行くの後を追おうと扉を閉めたアッテンボローは、そこで扉の影にいた人物に気付いて飛び上がった。 「ヤン先輩!?」 「え!?」 幼馴染みの悲鳴に振り返ったも硬直する。 気まずそうに指先で頬を掻く黒髪の上級生は、また歯切れ悪く小さく唸ると、何も言わずにアッテンボローの横を通り過ぎて、の前で立ち止まった。 顔色を悪くして冷や汗をかくを知ってか知らずか、再び長い沈黙のあと、眉間に皺を寄せた不機嫌そうな表情で、今度こそを見た。 「その、この間はすまなかったね……」 「え……」 が何のことだと聞き返すに聞き返せず返答に詰まっている間に、ヤンは汗を拭うようにベレー帽で額を押さえながら歩き去ってしまった。 とアッテンボローは呆然とその背中を見送って、ヤンが廊下の角を曲がって姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。 「お……おおおお前、ヤバかったぞ!?ヤン先輩じゃなきゃきっとヤバかったぞ、今の!」 真っ青な表情で駆け寄ってきた幼馴染みに肩を揺さぶられて、は目を回しそうになりながら、同意する。 「……そんな気がする」 少なくとも、先月の感じの悪い上級生と同じ人物とは思えずに、最悪だった印象は宙に浮くことになった。 |
入学一ヶ月で門限破りに挑むアッテンボローが好きです(笑) 士官学校って規則が厳しそうなのに、そういうものにこそ挑戦しそうな子ですね(^^;) |