とっくの昔に終わった話でも、心に残ることはある。 それが終わるどころか、始まる前に過ぎ去ってしまった初恋なら尚更だ。 ・の初恋は十歳の時に、ほんの数日だけ一緒に過ごした男の子に抱いたものだった。 の父親は船の製造や整備を請け負う工場を経営していて、当時から機械いじりが好きだったは何度怒られても工場に足を運んでいたものだった。 その日も工場に作業の見学にやってきていたは父親に見つかって怒られたものの、客の商人が仲裁に入ってくれて、親同士の契約話の間の話し相手をしてくれたのは、客の男の息子だった。 明らかに子供の相手は苦手という様子だった男の子は、更に女の子であるに困惑していたものの、会話に困って至った歴史の話にが興味を示してからは違った。 今思えば、当時のが本当に人類の歴史の話を聞いて面白かったのかは判らない。 ただ、なんで、どうして、とのする質問にすべて答えてくれた男の子が、たった二つしか歳が変わらないのに、ひどく大人びて見えたのは確かだった。 船の定期メンテナンスが終わるまでの数日間、男の子の話を聞くことが楽しかった。 思い返せば、恐らく男の子の話の半分も理解できていなかったような気がするけれど、ただ頭のいい男の子に憧れて、年下のの相手を真剣にしてくれたことが嬉しかった。 船のメンテナンスが終了すると、男の子は父親と共に宇宙へ商売の旅に戻っていった。 そのときになって、もう男の子に会えないのだと気付いて泣いた。 今ではもう、数日間の恋の相手の顔も名前も思い出せない。 青銅の蝶(1) 「くそぉ……なんで俺が軍人なんぞにならなきゃいけなんだよっ」 隣を歩く幼馴染みの愚痴に、は今日から毎日着用することになる制服のベレー帽を被り直して赤茶色の髪を押し込めながら肩をすくめる。 「うるさいなあ、そんなの志望校に合格できなかったダスティの自業自得」 「違うぞ!親父の奴がこの鍵に俺の不合格を祈っていたことが原因だ!」 ポケットから取り出した錆び付いた古い鍵を握り締めて、憎々しげに唸りを上げる幼馴染みに苦笑するしかない。それは彼が父親から、幸運の鍵だと渡された品だった。 そんなことを言って、呪いとか幸運とか非科学的なことは信じてもいないくせに、古びた鍵を今でも大事に持ってきているのだから、どれだけ憤慨していても、仲のいい親子だ。 はこの幼馴染みが本当はジャーナリストを目指していたことを知っている。それは彼の父親の職業でもあり、父親が将来の夢に影響を与えた事は間違いない。 ところがその父親は自分の妻の父、つまりダスティにとっての祖父との約束で、息子を軍人にする気だったのだ。それも生まれた時どころか、それが結婚を許された条件だったので、ダスティがこの世に発生するよりずっと以前から。 自分を犠牲にするのかと憤慨したダスティであったが、亡くなった祖父に負債を感じる父親に、士官学校と元の志望校の両方を受験するという折衷案を出して……士官学校には合格し、志望校に落ちたのだ。 「恥ずかしがったりしないで、本当はジャーナリストになりたいって言えば、おじさんも折れてくれたかもしれないのに」 事の顛末を聞いたが呆れてそう言うと、そんな恥ずかしい真似だけは絶対に嫌だと拗ねて顔を背けた。 そのくせ、未だに思い出したように愚痴が出てくるらしい。 「おっと、戦略研究科は右側の席だ。、お前は何科だっけ?」 「今年新設された軍事技術工科。正反対みたいだよ」 「新設科って色々不安定そうなのに、なんでわざわざ士官学校に入るんだよ……」 わざわざ軍人なんかを志望するなんてと、不満を零す幼馴染みに笑って手を振って、別れて歩き出す。 「そんなの、タダで学べるからに決まってるじゃない」 別れた幼馴染みに聞こえないように小声で呟いた。 両親が揃っている彼はうっかりしているかもしれないが、三年前に父親を亡くしてからの家の家計は決して楽ではない。 学校を卒業後、すぐにでもどこかの工場で働いて母親と妹のためになろうと思ったのに、当の母親に、金の事はどうにかするから上の学校に行けばどうだと勧められたのだ。 もできればすぐに現場に入るより、一応の知識や経験を身につけたいという気持ちはあったが、家計を圧迫するのは避けたい。 そう迷っていた頃に、士官学校に新たな科が設立されることを知ったのだ。 それも、整備士など機械工学系の職を目指すには、正にうってつけとしか思えない軍事技術工科。士官学校ならタダで学べる。 これは運命だと飛びついて、見事合格を果たした。 運命論など信じない性質だが、このときばかりは喜んで、神様なのかそれに似た存在に感謝したのだから、古びた鍵に掛けられた呪いを、このときだけ都合よく恨む幼馴染みと大差ないのかもしれない。幼馴染みとは動機が違うが、その不埒さも大して変わらないだろう。 軍事技術工科の入学式の席を見渡して、は軽く息をついて肩をすくめる。 士官学校に入学する男女比率は元より大きな差があって、女子は少ない。それはわかっている。その中でも女子は、経理研究科や戦略研究科などに集中しているので、数えるほどしか同性はいなかった。 しかも新設科だ。先輩も存在しない。 「ま、仲良しクラブに来たわけじゃないからいいか」 工学技術が身につけばそれでいいのだから、切磋琢磨する相手に男も女もないだろう。 今はそれよりも、退屈な入学式の間、どうやって居眠りをせずにいるかという問題のほうがずっと深刻だった。 退屈な入学式が終わり、各科ごとに分かれて簡単な校内施設案内を受けて、退屈な訓示を受けてその日は終了ということだった。 そうなれば本日は寮に戻ってもいいのだが、新入生はこれから五年間も学ぶ学校内を探検したくなる。寮の門限にはまだ程遠いので、ゆっくりと校内を見て回ることができる。 同じ科の子たちと校内を見学していたは、気づけば一人になっていた。 工学科の作業工場施設に夢中になっていたせいだ。置いていかれたらしい。 「……しまった」 は溜息をついて、ベレー帽を外して手に握る。 「後悔してもしょうがない。今日はもう帰ろうかな」 迷子になったわけではないし、寮は学校と隣接している。みんなまだ学校内にいるはずだから探せば会えるかもしれないけれど、寮に帰るというのも一つの選択肢だ。 一人になっても落ち着いているつもりで、実は動揺していたらしい。 工場から出たは、見覚えのない風景に足を止めた。 「……あれ?」 入ったのとは違う場所から工場を出たようだ。人気もなければ校庭もない、舗装されていない道に沿って植え込みが続き、その向こうは芝生が少し広がり、壁がそびえている。 いかにも学校敷地の端だった。 「……どこ、ここ?」 思わず呆然と呟いたとき、植え込みが小さく音を立てて驚いて後ろに飛びのく。 驚きで見開いたライトグリーンの瞳に映ったのは、植え込みからボサボサの髪をかき上げて顔を出した、黒髪黒眼の少年だった。 「あー……ひょっとして君、迷子の新入生?」 妙に気だるげな声で、今までここで昼寝でもしていたのだろうか。 見た目もそうだが、その言葉からして恐らく上級生だろう。わかっていても、相手があんまり偉そうに見えないせいもあって、十六歳にもなって迷子と問われても肯定する気になれない。 「ち、違います。校内を見学して回っていただけです」 「一人で?」 「……途中からは、そうです」 「そうかい?じゃあ案内しなくていいね。やれやれ、よかったよ」 あっさりと言って黒髪の上級生は芝生に寝転んだ。持っていた本を顔に乗せて、どうやら本当に昼寝中だったらしい。 先ほど彼の姿が見えなかったのは、植え込みで寝転んだ身体の半分以上が隠れていた上に、その場所が目の前すぎたせいのようだ。現に今は上半身が見える。 今更迷子だと訂正して道を聞くのも恥ずかしく、このまま立ち去ろうとして僅かに迷った。 果たして黙って立ち去っていいものか、だが一声かけるとしたらなんと言うべきだろう。 それとも昼寝に戻ろうとしているのだから、声をかけるほうが問題になるのだろうか。 しばらく沈黙が流れて、馬鹿馬鹿しくなってきた。 名前を聞かれたわけでもないし、顔を合わせたのはほんの数十秒のことだ。このまま黙って帰って、後でこの上級生が無礼な下級生に腹を立てたところで、顔なんて覚えてないに違いない。 黙って立ち去ろうと踵を返したところで、後ろから声をかけられた。 「ああ、ちょっと待って君、新入生?」 振り返ると、工場の中を通り抜けてきたとは違い、工場を迂回してきたらしい上級生がこちらに向かって呼び止めるように手を上げている。 「おっと、まずい」 植え込みから小さな小声が聞こえて、が思わず先ほどの上級生のほうを見ようとすると、「そのままっ」と鋭い小声が聞こえた。 「君、私がここにいることは内緒だよ」 何が何だか判らない。先に言葉を交わした上級生は、現在隠れて昼寝中だったのか。 呆れた思いで肩をすくめていると、もうひとりの上級生がすぐ側までやってきた。 「この辺りで黒髪の上級生を見なかったかな?三年次なんだけど、ちょっと頼りなく見えて、どう見ても士官候補生というにはかけ離れたイメージの」 黒髪以外の外見について、こんなにも曖昧なのに、こんなにもイメージに沿う表現はない。 は吹き出しそうになってどうにか堪える。 確かに、横の植え込みに隠れている上級生は、目の前にいる上級生のように見た目からして真面目で頼り甲斐のある上級生という感じではなかった。 声を出して笑うことは堪えても、顔の筋肉が引きつっていることまでは誤魔化せない。 笑いを堪えるに、上級生もどうやら何か勘付いたようだ。 声を出さずに口の動きだけで、に「とぼけて」と伝える。 一拍置いて、笑いを飲み込んでからは言われた通りに知らないふりをした。 「申し訳ありません。心当たりがありません」 「そうか、それならいいんだ。ヤンのやつ、今日はどこに隠れているのかな……。ああそうだ君、ここはもう校内の外れだから、見学なら戻るといい。なんなら行きたいところに案内しよう。……っと、名前は?」 「・です」 「私はジャン・ロベール・ラップという。もう丸二年もこの学校にいるから、判らないことがあったら遠慮なく聞いてくれて構わないよ」 「ありがとうございます」 ラップと名乗った上級生はを促して歩き出し、このままでどうするのだろうかと思っていると、突然鋭く後ろを振り返った。 驚いてラップを見上げると、にやりと笑顔を見せるので、視線を追う。 ちょうど黒髪の上級生が植え込みからこっそりこちらを窺おうと顔を半分ほど出していたところで、見つかってしまったとばつが悪そうな顔で頭を掻きながら立ち上がる。 「なんだ、気付いていたのか。ラップも人が悪い」 「新入生に嘘を強要したお前の方が悪い。今日は新入生の誘導係だったくせに、サボるなよ」 「私はサボタージュしたわけではないよ。今度の夜の見回りと当番を代わって欲しいと頼まれたから、誘導係はスミスに譲っただけさ」 「そのスミスが逃走したことを知っていたくせに、行方をくらませたままの奴があるか」 「スミスの逃走を私のせいにされちゃたまらないなあ」 ヤンと呼ばれた黒髪の上級生は植え込みを掻き分けて芝生から道へ出てきた。 「さあ、足止めして悪かったね、候補生。どこに行きたい?この不良上級生が案内してくれるよ」 「おい、ラップ勝手に」 「え!?あ、いえ、も、もう寮に帰るところでしたから、大丈夫です!」 断ったほうが失礼だったかと、言ってしまってから一瞬ひやりとしたけれど、ラップもヤンも特に怒りはしなかった。むしろ案内を命じられたヤンのほうはほっとしたような雰囲気だ。 「そうかい?遠慮しなくていいんだよ。ああ、強制するつもりもないよ。じゃあ寮まで送ろう。実は近道があるんだ。ちょっとイレギュラーだけどね」 ヤンとは違い、ラップのほうは人当たりがよく、下級生の面倒見もいいらしい。 ラップは当り障りのない話題を続けながら、普通なら寮に帰るために向かう校門の方向へは歩かない。どうやら本当にイレギュラーな抜け道でもあるらしい。 ヤンは積極的に会話には参加してこなかったが、下級生を同級生にだけ押し付ける気はないらしく、一緒に行動する。 「そういえば候補生は何科で入学したんだい?戦略研究科なら色々教えてあげられることもあるかもしれないんだけど」 二人ともエリートなのかと驚いた。戦略研究科は一番人気の科で、試験も難易度が高いと聞いている。ラップはともかくヤンはあまり秀才タイプには見えない。 もっともどの科であろうとそれこそピンからキリまでいるだろうから、一概にエリートと言ってしまえるかどうかは判らないだろう。 「戦略研究科には友人が入科しましたけど、残念ながらわたしは軍事技術工科です」 「軍事技術工科?」 それまで、ラップに話を向けられなければ口を挟まなかったヤンが急に顔をしかめた。 ラップは顔に手を当てて、小さく何かを呟く。 「へえ、今年新設された科だね。それにしても女の子が入るには珍しい分野だ」 どこか不機嫌な声につられて、もムッと眉を上げる。 「確かに女子入学者は少ないですが、わたしだけではありません」 「それはそうだろうね。いくら陸戦訓練なんかは別科合同で行うと言っても、女子一人の科があっては大変だ」 「よせ、ヤン。彼女に当たるな」 「ああ、ラップ。悪かった。八つ当たりしたつもりなかったけど、私はこれで失礼しよう。彼女も怒っているようだし」 そう言いながら、ヤンはに一瞥もくれずに背を向けた。 立ち去る友人の背中を見て、ラップは額を押さえて溜息をつく。 「……悪かったね、候補生。できれば許してやってほしい。普段はああいう失礼な物言いをすることはない奴なんだが……」 普段しなくても、今されれば一緒だ。 むかむかと気分が悪くなったものの、上級生の言葉は絶対だ。 は無理に頷いて了承する。 「大丈夫です。わたしは気にしていません」 言葉とは裏腹に心情はそのまま顔に出ていたらしく、ラップは困ったように眉を下げて指先で頬を掻いた。 「言い訳になるけど……実は私とヤンは本来、戦史研究科で入学したんだ。予算の都合上で去年廃止されてね……代わりに新設されたのが軍事技術工科なんだ。きっと君に八つ当たりしたことで、あとでヤンの奴も後悔すると思う。それで許してほしいというのもおかしなことなんだが……」 正直なところ、そんな都合は知るものかと思ったものの、ヤン本人ならともかくラップにそれを言っても始まらない。むしろ気を遣ってくれているのに失礼に値する。 ラップは上級生だ。上から頭ごなしに押さえつけてもいいはずなのに、にお願いしているのだから、ここは納得して見せるべきだ。 「はい、大丈夫です。気にしてません」 にっこりと笑ったに、ラップはもう一度すまなかったと心底申し訳なさそうに謝った。 |
……また茨道っぽい設定ですが、士官学校時代の後輩です。 ヤンとはお互い印象最悪で始まりましたが、さてどうなるのでしょう?(^^;) |