ジークフリード・キルヒアイスと初めて会ったとき、なんて馬鹿でかい子供だろうというのが第一印象だった。
十七歳だった少年は二十歳の青年になり、身長もあれからまだ伸びた。
妙に大きく一歩踏み出した、おかしな格好のままで睨みつけるように見上げると、青年は驚いたように手を伸ばしてくる。
「泣いていらっしゃるのですか?」
その長い指先で目尻を撫でられて、驚いた拍子に涙が零れたことに気付いた。



花も嵐も踏み越えて(2)



「こ……れはっ!」
上級大将閣下の腕を、書類を握っていた手で払いのけると、空いていた手で涙を拭う。
「ただの欠伸です。そう、欠伸!」
「欠伸、ですか?」
首を傾げたキルヒアイスは、腕を押しのける手にある書類に気がついた。
「ローエングラム侯から、話はお聞きになったのですね?」
強引に涙を払い落とした手を止めて、もう一度青年を振り仰ぐ。
知っているのか。
この青年は、が左遷されることを、予め知っていたのか。
途端に刺々しい気分になり、書類を持った手を背中に隠した。
「ええ……ええ、そう!今から追い出される準備に、自分で取り掛かるところです!」
「追い出される?」
どうして驚いた顔をするのか。知っていたのではないのか!
かつては気弱げな子だな、と思っていた柔らかな眼差しが驚きで丸められ、ますます腹が立ってくる。宮廷の侍女たちが優しい眼差しと表現していたキルヒアイスの穏やかな視線も、の目にはそう映っていた。
青年になった今の彼は上手く視線を制御する術を心得たが、初めて会ったまだ少年らしさが抜けきれていなかった頃の彼は、常にアンネローゼを憧憬の眼差しで見つめていた。
この子は伯爵夫人が好きなのか。それなのに思い切ることも、忘れることもできないのかと、奇妙な同情をしていたから、そのときのことは良く覚えている。
「失礼!」
「待ってください」
憤慨のまま歩き出したを、何故かキルヒアイスが追ってくる。
「何か!?」
お忙しい上級大将閣下が左遷医師に何の用だ、とは卑屈すぎて言えなかった。
「ローエングラム侯から、話があったのではなかったのですか?」
「あったから出て行く準備をすると言っているのでしょう!」
これ以上、惨めになることを言わせるなと睨みつけると、キルヒアイスは困ったように眉を下げる。
「泣かないでください」
「どこが泣いているように見えるのよ!」
「私には、泣いているようにしか見えません」
とうとう敬語すらどこかに飛んでいってしまったの目尻を、長い節立った人差し指がそっと撫でた。
「訳を話してください……
どうしてそんなに切ない目をするのか。いま、名前を呼ばなかっただろうか。
グルグルと頭の中で回る疑問に、は憤慨で立ち去るよりも、彼の上官とはまた違う色合いを見せる青い瞳を、まじまじと見つめてしまった。


この青年は、こんなに強引だっただろうか。
先ほど彼が出てきた部屋に連れ戻されて、ソファーに落ち着けられたは呆然とテーブルの上に置いた書類を見詰めていた。
もっと気弱げで、どちらかといえば情けない男だと思っていたのに。
もちろん、この若さで上級大将という地位に駆け上がるほどの実力者が、気の弱い、情けない男であるはずがない。
ただ公式の場ではなく、私的な時間は昔抱いた印象のままだろうという思い込みがあったのだ。
これだからこの目は節穴なんだ。
腹立ちを通り過ぎると、今度は酷く落胆した。
「どうぞ、落ち着きますよ」
キルヒアイスはコーヒーカップを目の前に置いて、の書類が誤って汚れないようにテーブルから取り上げた。
上級大将閣下に給仕をさせてしまった。
ぼんやりとカップの中の黒い水面を眺める。
落胆すると、一気に虚脱してしまった。
実力主義者に無用だと切り捨てられたことは、にとって致命的だった。
実力だけがすべてだと、それだけを誇りに走り続けてきたのに、存在そのものを否定されたも同然だ。
「うっ………」
泣いていないと突っぱねていたのに、俯いた視界は滲んで、膝の上で握り締めた拳に雫が零れ落ちる。
「く………」
隣に誰かが座った。
誰かといっても、室内にはの他にもう一人しかいない。
「く?」
思わず漏れた呻き声の続きを促されて、とうとう我慢できずに大声で叫ぶ。
「………くっ……悔しいぃっ!!」
一度心の底から吐き出すと、後は耐え切れずに激しく泣き喚いてしまった。


どれくらいが泣いていたかというと、少なくとも淹れもらったコーヒーが軽く冷め切ってしまうくらいの時間は経過していた。
二十五年の人生で飲み込んできたありとあらゆる罵詈雑言を吐き出して、職業柄最低限しかほどこしていない化粧がすべて剥げるくらいに泣きじゃくった。
その間キルヒアイスはただ相槌を打ちながらの頭を胸に抱き寄せて、琥珀色の髪を撫で続けてくれた。
泣き止んでみれば、この上なく恥ずかしい。
五歳も年下の男に、文字通り泣き言を漏らして喚き続けたのだ。
恥ずかしくて抱き寄せられた胸から顔を上げることすらできない。
気付いた時点で起き上がってそのまま逃げてしまえばよかったのに、すっかり身体が硬直している。
「誤解です」
キルヒアイスはその節立った指で、の柔らかい髪を梳くように撫で続ける。
声にも呆れた色など滲ませず、そっとの膝に取り上げていた書類を置いた。
「誤解があります」
何が誤解だ。愚痴を言うのがお門違いだという話だろうか。
それはそうだ。の人生にどれだけ不満があろうとも、それは自身が選んで進んできた道だ。
意地を捨てきれず、頑固に意志を押し通してきた結果だ。
苛酷な戦場を生き抜き、たった二十歳という若さで上級大将にまで昇りつめた青年には、の泣き言などただの負け犬の遠吠えに過ぎないに決まっている。
「あなたは、ローエングラム侯のお考えを誤解なさっています」
「ローエングラム侯の?」
思ってもみないことを言われて、つい驚いて顔を上げてしまった。
泣きはらした、化粧の剥げた酷い顔で。
慌てて顔を伏せると、必然的に再び青年の胸に顔を埋めることになる。
耳の上で小さく笑う声が聞えて、泣いて赤くなっていた頬がますます朱に染まる。
「貴方に新無憂宮から辞してもらうとの話の中で、侯はグリューネワルト伯爵夫人もこの後宮を去るのだと仰いませんでしたか?」
「………仰いました」
キルヒアイスは髪を撫でていた指を滑らせて、の肩を抱き寄せる。
「侯は、貴方を買っているからこそ、新無憂宮から出て欲しいのです」
は咄嗟に顔を上げたい衝動を堪えて、ただ眉をひそめた。
「判りませんか?だって貴方が宮廷医のままだと、後宮を出た伯爵夫人は貴方の診察を受けられないではありませんか」
「………は?」
何を言われたのか、理解できずに間の抜けた声を上げてしまう。
「宮廷医は新無憂宮の、皇族のためだけの医師です。貴方が伯爵夫人を診察できないと、侯はとても困ります」
「はあ!?」
今度こそは声を裏返してキルヒアイスの腕から起き上がった。
恥ずかしいという感情を、こいつは正気かと疑う気持ちが上回ったのだ。
だが正面から見据えたキルヒアイスは微笑さえたたえていて、その表情に嘘は微塵も見えない。
「正気!?医者なんて世間に五万といるのに、そんな理由で他人の人生に挫折を強いたわけ!?」
「医者は五万といますが、グリューネワルト伯爵夫人が心を許し、ローエングラム侯が信頼なさっている医者は、貴方しかいません」
まるで規定の事実だと言わんばかりの口調に、は顔を真っ赤に染める。
それは、にとって自尊心を満足させる、最上級の誉め言葉でもあった。
ラインハルト・フォン・ローエングラムほどの権力者なら、金と権力でいくらでも国中の名医を探し出して召し抱えることもできるはずだ。
なのにまだ歳の若い、経験も未熟なを、必要とするなどと。
大切な姉のためになら、他人の人生を強制的に転換することも厭わない利己心ともいえるし、大切な姉の健康を任せようと思うくらいに、の腕を買っているともいえる。
「ああっ、もうっ!」
は既に乱れていた髪を掻き毟って、短く毒づいた。
年下の青年の前で大泣きしたことが恥ずかしいのか、人生で初めて人前で弱音を吐いたことが情けないのか、言葉足らずな元帥が腹立たしいのか、自分でもよくわからない。
そのすべてかもしれない。
「悔しいっ!」
そのすべてを詰め込んで叫ぶと、膝から書類が滑り落ちた。
軍医としてオーディンの軍中央病院へ移動する命令書だ。
「悔しいと思うのでしたら、もう大丈夫ですね」
緋毛氈の絨毯から一枚の書類を拾い上げ、キルヒアイスはにこやかな笑顔のままだ。
「大丈夫……?」
「先ほどの貴方は、雨に濡れる花のように儚げでしたから」
この男の頭は大丈夫だろうか。
女性なら誰でも頬を染めて恥らうような言葉に対して、は本気で呆れ返った。
先ほどの貴方、と言われるの行動といえば、大声で泣き喚き、ありとあらゆる罵詈雑言を吐き捨て続けていたのに。
どこが雨に濡れる花で、どこが儚げだろう。
あえて花に喩えて言うのなら、腐臭がする毒々しいラフレシアが枯れかけたような、見るに耐えない醜態だ。
「……あなたこそ頭、大丈夫?」
それとも視力検査をした方がいいのだろうか。いや、あの罵詈雑言も聞いてのことだから、やはり脳の精密検査が必要かもしれない。
もしも人と趣味が異なるのだとしても、それはあまりに特殊すぎる。
「もちろん、しっかりとしていますよ」
キルヒアイスは笑顔での頬を撫でて、涙の跡を親指で拭う。
「いつもは毅然として何者にも負けない目をしている貴方が、私の胸で泣く姿は、とても可愛らしかった」
「か……可愛い!?」
生意気だとか、男女めとか、貶されたことなら数限りない。幾人かの好意的な人間からの誉め言葉も、その性格が格好いいとか男前とか、打たれ強いところがお前の長所だとか。
「自分勝手とか、利己的とか、冷血女とならいくら言われてたって納得してきたけど」
「貴方が冷血?」
自身が納得したということに、何故かキルヒアイスが首を傾げる。
「そんなことはない。貴方はいつだって、グリューネワルト伯爵夫人の御身を気遣っていたではありませんか」
「それは職務だからです!」
「そう。とても尊い職務ですね。人の身体のことを気遣う仕事だ」
ぴくりと頬が引き攣る。医者の職務が尊いのは確かだ。人の健康を、そして命を守ろうとする職業だ。
だがは自分のために医者になったのだ。病に苦しむ患者のためではない。
「…そう……医師は……尊い仕事かもしれない……けどわたしは、そんな敬虔な思いで仕事を選んだわけじゃない。ただ意地で、だから、そんなことを言われるのは筋違いよ」
自分が、人として医者として、誉められた人間ではないこと、誰よりも自分が知っている。
だというのに、それを聞いたキルヒアイスはわずかに吹き出した。
……吹き出した?
唖然として見上げるのはしばみ色の瞳を、優しげな青い瞳が見下ろす。
「私は、貴方がそうやって厳しい評価で自分を戒める人だと知っています。貴方自身は、気付いていなかったのですね」
「は……」
「自分で自分を尊いと思う人間は、得てしていずれ傲慢になってしまうものです。ですが貴方は、自分が誉められた人間ではないと思っている。だから、いつでも、いつまででもそうやって真っ直ぐな眼差しを持ち続けていられる」
とんだ好意的解釈もあったものだ。
は、ただ知っているだけだ。戒めているわけではなく、ただ自分を知っているだけだというのに。
「貴方が、好きです」
「は……へぇ……?」
今、話が亜空間から亜空間へ飛んで行きはしなかったか?
好き?
……誰が、誰を?
とてつもなく間の抜けた返答だというのに、キルヒアイスはまるで気にした様子でもなく、の手を握り締める。
「自分に厳しい貴方が好きです。本当は可愛らしいことを隠すために、いつも強気な姿勢を崩さないところがますます可愛い」
この男の趣味は変だ!
……」
腰が砕けてしまいそうな甘い声で名前を呼ばれて、は絶叫しながら転がるようにソファーから逃げ出し、そのまま部屋を飛び出す。
あの男には二度と近付かない!
そう心に決めて後宮まで止まることなく走り続けた。
キルヒアイスの手に、辞令書を残したまま。








キルヒアイスの趣味が変!……という話でした(身も蓋もない)
この時点ではキルヒアイスの一方通行ですね。
法皇のタロットの寓意は「善良、親切、信頼、年上の異性(まんま)、深い愛情」など。
あるいは「逃避、束縛、周囲の反対する恋、欠点が出る、ありがた迷惑」なども。
「周囲の反対する恋」な辺りを次の小話で一つ……。


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