人生設計が大いに狂ったのは、皇帝が急死したことによる。 反乱軍がイゼルローン要塞を陥落させ、そこを足がかりとした大掛かりな逆侵攻を防衛すべくラインハルト・フォン・ローエングラム元帥、以下その幕僚たちがアムリッツア会戦で勝利を収めた頃、首都星オーディンでは皇帝フリードリヒ四世が突然崩御した。 ・フォン・は寵姫を担当する、つまり実質的に現時点で唯一の後宮の住人たるアンネローゼ専任の侍医という役職にあった。それゆえ宮廷医師という立場であっても、皇帝の急死については何一つ、責任はなかったのだ。 だというのに、凱旋を果たしたローエングラム元帥は、いくつかの政務的処理を終えるとを呼び立てて、そして無情の宣告を言い渡した。 「解雇……?」 意志の強そうな光を宿す、はしばみ色の瞳を瞬かせた気の強そうな美女を前に、ラインハルトは再び同じことを告げた。 「卿には、今月中に荷物をまとめて新無憂宮から出てもらう」 白皙の青年は、あっさりとそう言って二つの書類をテーブルの上に差し出す。 「次の任官先は、医療研究員と軍医がある。どちらが良いか卿が選ぶといい」 選ぶといいじゃない、この若造が! 叫びたい衝動を、ぐっと堪えて心の中で罵った。 花も嵐も踏み越えて(1) ・フォン・は代々で宮廷医師を務める家系に生まれた。の父もやはり宮廷医師だった。 ただし、が生まれてすぐに決められたのは医者になる道ではない。 そもそも男社会の帝国において、医者という職業につくのは大方が男であり、数少ない女医は、そのほとんどが産婦人科医である。 ましてや、宮廷医師ともなればこの時代では、女性は皆無だったのだ。 女に生まれたが宮廷医師になる道は、やはり皇妃や寵姫の出産時に赤子を取り上げる役目を負う以外にはないと、両親は落胆した。 確かに次代の皇帝を取り上げる大切な役目ではあるが、本音を言えば宮廷医師の中での出世はないも同然だったからだ。 次の子に期待を掛けた両親は、しかしその年に高熱を発する病気に見舞われた父親が生殖機能を失ったことにより、家の未来に絶望した。 せめてたった一人の子が男であればと常に言い続ける両親に、は傷つくより腹を立てた。 そして、そんな両親を見返してやるという意地だけで、同輩の、あるいは先達の男たちの、偏見や蔑みを蹴倒して優秀な成績と異例の早さで医師免許を取得したのだ。 正式に医者となってからはいくつかの現場を転々とし、やはり同僚や上司に胡乱な目で見られ、時にセクシャルハラスメントを受けては返り討ちにし、患者からも若さと、そして女である為に必ず最初は信用されないという屈辱を受けながら、経験を積んだ。 すべては意地だ。とにかく意地だった。 その後、宮廷に召し上げられたのは家の代々の功績によるものではあったが、唯一の女性宮廷医師はその性別ゆえに皇帝の寵姫、グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼの侍医を任されていた。もちろん一人ではなく、数人でチームを組んで。 純粋に実力とは言えないまでも、グリューネワルト伯爵夫人と同年にも関わらずチームの中心を担う、いわば侍医の中でも花形を務めるほどだったのだ。 女であることに、初めて感謝した瞬間だった。 誠心誠意、職務に励んだ結果、伯爵夫人からも、深い信頼を得ていた。 それがたった一日でこれか。 二つの書類を前には拳を握り締める。 宮廷医師という立場にある以上、権力版図が変わればこういうこともあるのだと覚悟はしていたはずだ。 だが、自分はグリューネワルト伯爵夫人に信頼されているという、そして宮廷で唯一の女の医者だという油断があったのは否めない。 医者としては誉められたことでないと重々承知しているが、は誰かのために医療者になることを志したわけではない。 ただ、意地だけでここまで栄達してきたのだ。 宮廷を追われるという挫折は、両親を落胆させるだろう。それが悲しいのではない。 やはり女だからと落胆されるのが、悔しい。 踏み越えてきた同僚たちは笑うだろう。権力が流れる方向も読めぬとは、やはり女は無能だと笑うだろう。 皇帝の急死なんて読めるか! 悔しい。 二つの書類の前で、は拳を握り締め、そして唇を噛み締めた。 たかだか左遷だ、医者であることまで辞めさせられるわけではない。そう思えない。 医者としてだけではなく、人間としても誉められたものでもない。それもわかっている。 は意地だけで、自分のためだけに医者になったのだ。宮廷医師にまで昇り詰めたのだ。 目の前の青年に、もう一度心の中で若造め、と毒づいた。 ラインハルト・フォン・ローエングラムとは何度も会ったことがある。 仕事としてグリューネワルト伯爵夫人の側にいるときに、面会に来た彼と赤毛の青年とは何度も会っている。 宮廷医師は病気のときにだけ主人の下に訪れるわけではなく、高貴な方々の健康維持もその重要な仕事のうちだ。日々の問診で、熱を測り血圧を測り、体調はどうだとか便通に異常はないかとかを尋ね、実際に病気になれば薬を処方する。 そういう、日常の健康診断のときが、時々ふたりの訪問と重なったのだ。 が宮中に上がったのは三年前からで、十七歳の少年を見ながら伯爵夫人の弟は出世するだろうとは思っていた。だがその友人のジークフリード・キルヒアイスまで、上級大将になるほどの実力者だとは見抜けなかった。 ああ、悔しい。どうせそれくらいの節穴な目しか持っていない。 いっそ医者という職業自体を放り出してやろうかとすら思ったが、それでは左遷に負けて逃げ出したみたいだ。 結局、ここでも意地なのか。 決心を固めると、右の書類を手に取る。 「そちらでいいのか?」 「ええ、こちらで間違いありません」 青年は少し驚いたように蒼氷色の瞳で、のはしばみ色の瞳を探るように見る。 似ている姉弟なのに、雰囲気がまるで違う姉弟だ。心の底からそう思う。同じ蒼氷色の瞳でも、アンネローゼのそれには温かみがある。 「お話がこれだけなら失礼いたします。後任の者に、引継ぎをしなければなりませんので」 「ああ、下がって良い……そうだ、姉上のことだが、それは引継ぎの必要はないぞ」 一礼をして踵を返しかけていたは、おかしなことを聞いたという顔でラインハルトを見返す。 アンネローゼから世間話に聞いた話や、姉の元を訪ねてきたときの様子から、彼が姉に心酔して傾倒していることは間違いない。 それなのに。 「姉上は近くこの新無憂宮を引き払うことになる。もはや侍医の存在は無用だ」 ああ、なるほど。後宮から女がいなくなるなら、女の医者も無用だろう。 はもう一度礼を取り直して、その忌々しい部屋を出た。 握り締めていた書類を床に叩きつけたい衝動を堪えて、一歩踏み出す。 後任の者に引継ぎをして、私物やその他の物を整理して、この宮廷から出て行く準備に取り掛かる為に。 一歩ごとに、床を蹴りつけたい衝動にも耐えなくてはならなかった。 荒れた様子を見せて、後で「ああ、あれは左遷される屈辱に塗れていたのだ」と言われるのには耐えられない。 追い出されるにしても、背中を丸めて惨めにこそこそと立ち去るのはごめんだ。まっすぐに前を見据え、背筋を伸ばして出て行ってやる。 この意地のせいで、人生どれだけ苦労してきただろうとしみじみ思っても、それを捨てることはできなし、その気にもならない。 この意地があったから、今の自分がいるのだから。 人としても医者としても、誉められた人間ではないと自分でも知っているけれど、だからと言って自分を嫌ってもいない。 目に力を入れていないと泣いてしまいそうで、唇を噛み締める。 女と侮れ、蔑まれたことは何度もあったのに、こんなにも泣きたくなったことはない。 「……無用か」 小さく呟いて、それが原因かと悟る。 医療の世界に女は無用だと何度も言われ、それを実力で跳ね返してきた。 女だからという理由だけで、否定されてきた。 だが今回は。 「……医者として、無用だと言われたんじゃないか」 にラインハルトが認めるほどの実力があれば、解雇される必要まではなかったはずだ。 ラインハルトが実力主義なのは、既に周知の事実なのだから。 彼は女であることを理由に、有益と判断した人物を切り捨てたりはしないだろう。 そうと判ったとき、腹立ち紛れに一歩強く床を踏んだ。同時に、隣の部屋の扉が開く。 「ドクトル・。後宮から出ていらしたのですか?」 出てきたのは、赤毛の髪の長身の青年。 ジークフリード・キルヒアイスだった。 |
自作お題、タロットシリーズの法皇の話です。 キルヒアイス夢なのに、最後にしか出てこない……。 |