襲来の輪舞曲(3)





昨夜、目の前で行われたラインハルトから妹へのプロポーズに、キルヒアイスはすっかり妹の所業を忘れていた。完全にそちらに気を取られてしまったのだ。
だが元帥府の廊下で不審な動作をするミッターマイヤーを目撃するに至って、思い出したくもないことを思い出す。
一旦申し込んだプロポーズを横に置き、今は考えなくていいと自己完結したラインハルトはともかく、今朝になると妹もいつも通りにラインハルトを送り出したので、少し見直していたのだ。
ミッターマイヤーの件を思い出した途端、またその感心は萎んでしまったのだが、それにしても一体あれは何をしているのだろう。
ミュラーの背中に隠れるようにして腰を屈めている行動は、かなりの奇抜な姿だ。キルヒアイスに従っているビューローも声を失くしている。
「……何をなさっているのですか?」
キルヒアイスが思わず、といった態で不審そうに聞いてしまったことも無理らしからぬことであったが、ミッターマイヤーが拘束していたミュラーを振り回したのは予想外だった。
すぐ横の窓に激突しそうになった年上の同僚を助けるために片腕を犠牲にしたのは咄嗟のことだ。
「つ………っ」
窓ガラスとミュラーに腕を挟まれた痛みに息を飲んだキルヒアイスに、ミュラーとヒルダとビューローが同時に声を上げる。
「提督!」
「閣下!」
「す、すまん!」
慌てて謝罪するミッターマイヤーの常にないひどい顔色に、大丈夫ですと言うはずだった言葉が自然と摩り替わってしまった。
「どうなさったのです、提督」
キルヒアイスの質問に促されるように三対の視線がミッターマイヤーに注がれる。
ミッターマイヤーは土気色の表情のままでただ首を振る。
「いや、何でもない。何でも」
「ですが……」
「本当に何でもないんだ!」
強く断定されて、それ以上は訊ねることも憚られる。しゃがんで書類を集め始めたミッターマイヤーに、四人で視線を交わし合ったがとりあえず書類集めを手伝うことにした。
ミュラーが苦しい言い訳に使ったとおり、書類の数はさほど多くはなかったので五人で拾えば大した手間にもならなかった。
それぞれの手から書類を受け取るミッターマイヤーに、最後に書類を手渡しながらキルヒアイスは気の重いことは先に済ませておこうと口を開く。
「ミッターマイヤー提督には不在の間にご迷惑をお掛けいたしました」
「なんの話だ?」
お互いに職務に励んだだけだろうにと不思議そうな顔をするミッターマイヤーに、キルヒアイスは少しばかり躊躇して言葉を濁す。
「その……妹がお世話になったそうで」
「妹?卿には妹がいたのか」
思わぬ切り替えしにキルヒアイスの方が驚いた。
そして、ラインハルトが説明をしそこねていることを知った。まさかのことを自分の縁者としてしか説明しなかったとは。
妹と聞いて、ヒルダが口を挟もうとしたが会話が続いたのでタイミングを逃してしまう。
「四日ほど前、夜の街で泥酔者に絡まれているところを助けていただいたと……」
ミッターマイヤーの顔に一度熱が篭り、そして一気に血の気が引く。
「か、彼女は卿の妹だったのか!?」
キルヒアイスから受け取ったばかりだった書類をまた取り落とした。
廊下に広がった紙をビューローが慌てて再び拾い集める。
「お、俺はローエングラム公の縁者だとお聞きして」
「ええ、その……閣下の邸宅でメイドとして召し上げていただいていて……私の妹なので過分のご厚情を賜ってはいるのですが……」
「あ、ああ、なるほどなるほど」
何故か焦った様子の返答に、キルヒアイスは不審を覚えて眉根を寄せる。
「提督?どうかなさいましたか」
「い、いや、何も!」
普段のミッターマイヤーとは思えない歯切れの悪さに、キルヒアイスはいよいよ顔を顰めた。
「妹が、何か他にもご迷惑を?」
「いやいやいや!何も、何もない!」
なにかあったと言わんばかりの反応だ。キルヒアイスは更に一歩踏み込んでみた。
「庇いだてしていただかなくてもよろしいのですよ。今度のことであれは一度、心底反省すべきですから」
「いや、本当に何もなかった。何もなかったはずなんだ。俺は何も見ていない……」
「あ、提督!」
妙なことを呟くミッターマイヤーに声を掛けようとしたが、止める間も無い。
脱兎の如く走り去ったミッターマイヤーに、キルヒアイスが伸ばした手は虚しく空をきるだけだった。
「………い、一体何が」
ミッターマイヤーの反応はあまりにも予想外で、追及するのが恐ろしい。だが同時に追及しないままというのも、なんとなく恐ろしい。
先に一緒にいたミュラーとヒルダを見やると、ヒルダが口元に手を当てながら、おずおずと注進してきた。
「あの……キルヒアイス提督」
「何かご存知なのですか?」
「い、いいえ。私は何も。ですがその……妹さんは今、元帥府に来られていますよ?」
が!?」
「……あ、もしかして」
ミュラーの脳裡に、ビッテンフェルトの影から顔を覗かせた可愛い少女が過ぎった。
「先ほどビッテンフェルト提督たちと一緒にいた少女ですか?」
「ええ」
どうしてビッテンフェルトと。いや、「たち」というからには複数人と同行していたのか。
予想外の話ばかりでキルヒアイスの思考がわずかに鈍っていると、ヒルダが順序立てて説明をしてくれた。
「最初は私がローエングラム公から、彼女に元帥府を案内する役をお引き受けしたんです。その途中でロイエンタール提督とお会いして、少し立ち話しているところにビッテンフェルト提督とワーレン提督がいらしたんです。提督方が彼女と話がしたいと仰られたので、今ちょうどロイエンタール提督の執務室に向かうところでしたけれど……」
その途中を目撃した途端、ミッターマイヤーの様子がおかしくなったというわけか。
それではどう考えても、原因はにあるとしか思えない。
一体何をしたんだ、あの妹は。
「……はロイエンタール提督の執務室でしたね?」
すっとキルヒアイスの顔から表情が消えて、ヒルダは思わず肯定し損ねた。こんなキルヒアイスは初めて見る。同じ初めて見る顔でも、ラインハルトが見せた穏やかな笑みとはまるで対照的だ。
「ビューロー少将は先に執務室に戻っていてください」
「あ、あのですがミッターマイヤー提督をお探ししないと」
戦闘中よりもある意味恐ろしい雰囲気を感じて控え目にビューローが手にした書類を持ち上げた。ミッターマイヤーの遺留品だ。
「……それは私が預かります」
こうしてミッターマイヤーの書類は、キルヒアイスの手に渡った。


仕事で別室へ行ってしまったベルゲングリューンを除いて、四人で入ったロイエンタールの執務室はビッテンフェルトが評した通り、確かに神経質なほど片付いていた。
これだけ完璧な整理整頓がひとりでできれば、一流のメイドと名乗ってもいいのだろうではないかと思わず唸らずにはいられない。
「どうだ、やはり男の癖にこの片付きようは不気味だろう」
ビッテンフェルトの失礼極まりない言いように、従卒にコーヒーを四つ入れるように言い渡しながらロイエンタールが肩を竦めた。
「執務室が整然としていてなにが悪い。卿の散らかりようの方が問題だ。だからよく物を失くすのだ」
「これだけひとりで整理できたら、兄さまにも褒めてもらえるだろうなあ……」
大きな独り言を漏らしたに、三人は顔を見合わせる。
あの温厚なキルヒアイスだ。こんなに無邪気で愛らしい妹なら、きっと猫可愛がりしているだろうと思っていたのだが、意外と内弁慶というべきか、家族には手厳しいのだろうか。
「キルヒアイスはあまり褒めてはくれないのか?」
ワーレンが代表して尋ねてみると、振り返ったは指先で眉を上に吊り上げる。
「褒めるより、こんな顔して怒ってばっかりですよ。昨日だって宇宙から帰ってきた途端に説教されました」
「ほお、あのキルヒアイスがなあ。てっきりこの上なく可愛がっていると思ったが」
「そんなことないですよー」
ビッテンフェルトの妙に感心したように呟きに、具体例を挙げようとしては硬直した。
どうして忘れていたのだろう。昨日怒られた原因を。
何故って、ラインハルトのその後の申し出があまりに強烈過ぎたからだ。
そちらの方にばかり気を取られて、すっかり失念していた。
ミッターマイヤーに会ったらどうする。
もだが、あちらだって気まずい思いをするのは目に見えている。そしてラインハルトが知っていることだけしか聞いていない兄は、もちろん当然の如くを連れて行って礼を言おうとするだろう。
それを避けるためには、キルヒアイスが元帥府に帰ってくる前に逃げ出さなくてはいけない。
どうして自分から喜んでこんな死地に赴いたのかと、数時間前の己に心の底から呪いをかけたくなった。おまけに元々の原因は勘違い。
「あの……」
来たばかりで恐縮ですが、急用を思いついたのでお暇を。
急用を思い出したのではなく、思いついたというあたりにの動転振りが表れている。
とにかくそう言おうと口を開いたが、ビッテンフェルトの声と重なってしまったために、の声はかき消された。
「そんなところで立っていないで、まあ座れ。自宅でのキルヒアイスの話をいろいろ聞かせてくれないか」
暇を告げることはできなかった。
ビッテンフェルトに背中を押され、椅子に落ち着けられてしまう。
従卒の少年が提督たちとの前にコーヒーを並べてしまい、ますます今すぐ逃げ出すわけにはいかなくなってきた。
僅かに揺らめくコーヒーの黒い水面をじっと見つめながら、きっともう少し余裕があるだろうと考える。
ラインハルトは、キルヒアイスが帰ってくるまでの間、元帥府の中を見て回れといってヒルダと送り出してくれたのだ。そんなに見学する場所はないとは言いながらヒルダはそれでもいくつかの候補を挙げていた。それでキルヒアイスが帰ってくるまでの時間ならちょうどいいだろうと。時間が足りないとは言わなかった。
だからきっと、たぶん大丈夫。
かなり薄弱な根拠で自分を奮い立たせたは、とにかく提督たちを満足させる情報を提供して早く解放してもらうことを目標に打ちたてた。
「自宅での兄と申しましても、そんなに目新しいことなどないとは思いますが……どういったお話をすればいいのか……」
「いやいや、既に十分目新しい話をいくつか聞いた。他にはそうだな、恋人などの女性関係は何かないか」
「女性関係ですか?それはもうさっぱり」
ここでいくつか情報が提供できれば三人を満足させられただろうにと、淡白な兄を理不尽に恨む。
「さっぱり?二十二にもなって、さっぱりなのか?」
「さっぱりですよ。だって休日はずっと邸にいますし、女の人から連絡があった例もないです。夜もまっすぐ帰ってきてます」
「ふーむ、忙しいからだろうか。もてそうな男なのに」
「忙しいことが理由になるか」
ビッテンフェルトが腕を組んで唸ると、ワーレンがロイエンタールを見ながら僅かに笑う。
その視線につられてビッテンフェルトとも金銀妖瞳の提督を見て、思わず同時に頷いた。
ロイエンタールの漁色家ぶりの噂くらいはだって知っている。
「そこで俺を見るな。家庭を持っている男が何を言うか」
現在独身のワーレンではあるが、死別した妻との間には子供がいる。確かに家庭は持っているものの。
「家族よりも、恋愛関係でいる恋人の方が意識して時間を作らんと相手と会えんだろう」
「相手に合わせさせればいいだけのことだ」
「うわ……」
恋人をなんだと思っているのだろうという意見に、は思わず呆れた声を漏らしてしまった。
三人の視線を受けて、慌てて口を押さえたがもう遅い。
三人とも目を瞬き、次いでビッテンフェルトは豪快に腹の底から爆笑し、ワーレンは思わずといった態で失笑し、ロイエンタールは肩を竦めて、だがそれでも小さく笑った。
怒られると思ったら、ロイエンタールまで笑っているので、口を押さえた両手を恐るおそると降ろす。
「さ、さすがキルヒアイスの妹だ!もっと言ってやれ!」
「い、いえそんな、今のはそういう意味じゃなくて……」
じゃあどんな意味だと聞かれたら返答できないけれど。
「失礼します」
ノックとヒルダの声が聞えて、部屋の主のロイエンタールより先にビッテンフェルトが入室を促した。
「おお、フロイライン!ミュラーも入れ入れ!」
だがドアを開けて入ってきた人物は、もうひとりいた。
燃えるような赤毛を見て、思わずは悲鳴を上げかけて両手で口を押さえる。
恐れていたキルヒアイスの登場に驚いたこともあるが、その穏やかな笑顔に、笑っていない目が乗っていればなおさらだった。








お兄さん、すでに怒り気味です……。


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