ロイエンタールの後ろから現れた相手は、振り返らなくても声色どころか声の大きさだけで誰だか嫌というほどわかってしまう。 だがどうやら同行者がいたようだ。苦笑しながら同僚をたしなめる口調で、だがまったくフォローする気のない発言を重ねた。 「おいおいビッテンフェルト、この場合はそちらではなく元帥府に連れ込んでいるのかと言うべきだろう」 ふたりに違いあるとすれば、ビッテンフェルトは半分は本気で、そしてもうひとりは九割方が冗談だという点くらいしかない。 どちらにしても不本意な言われようにロイエンタールは眉間にしわを寄せて振り返った。 「とんだ言いがかりだな。ビッテンフェルト、ワーレン、彼女はキルヒアイスの妹だ」 「キルヒアイスの妹!?」 ふたりは同時に叫んだが、やはり声量の問題かワーレンの声はほとんど塗り潰されてしまう。 は耳に痛い音量に目を瞬かせながら、新たに現れた元帥府のメンバーに頭を下げて同じ挨拶を繰り返した。 「初めまして。いつも兄がお世話になっております。と申します」 「ほお、キルヒアイスには妹がいたのか!まったく私生活がわからん男だからな。こんなに可愛い妹なら紹介してくれても良さそうなものだろうに」 「可愛い妹なら卿にだけは紹介するまいよ」 ワーレンが笑いを噛み殺しながらそう言うと、ビッテンフェルトは心外だとばかりに眉を寄せる。 「それを言うならロイエンタールにこそ、キルヒアイスは紹介したくなかったと思うぞ!?」 「俺を卿と同レベルに扱うな」 誰が好きこのんで同僚の家族という面倒そうな相手に手を出すものかとロイエンタールが苦虫を噛み潰したように冷たくつき返した。 だがビッテンフェルトは別の意味で取ったようで、やはり苦々しい表情でふんと鼻を鳴らす。 「どうせ卿は女性には困っておらんだろうさ!」 そういう意味ではないのだが。 ……だがそういう意味になるのだろうか。 同僚に姉や妹の紹介を頼む必要がある男にとってはそうかもしれない。 「フロイライン!そんな男の隣にいると妊娠するぞ、こっちにくるといい!」 「俺はどんな男だ!」 ビッテンフェルトに手招きされて、その言葉でロイエンタールの側から離れるのはそれこそ逃げるように思われないかと戸惑う。 「ビッテンフェルト提督、その辺りにしていただきませんと、が困っていますわ」 ヒルダが仲裁に入ってくれてほっと息をつくと、ベルゲングリューンも軽く肩を叩いてくれた。 「提督方流の冗談だから、気楽にしているといい」 「は、はあ……」 そう言われても、こういった話は兄とその親友の軽口の応酬でもほとんど出てこないので、どうにも戸惑うばかりだ。 「しかし、キルヒアイスの妹となればいろいろと話を聞かねばならんな!」 「え?」 がしりと腕を掴まれて、状況についていけないままにビッテンフェルトに引き摺られる。 「とはいえ俺の執務室は結構散らかっているからな。ロイエンタールのところなら神経質に片付いているだろう。場所を借りるぞ!」 「神経質とはなんだ」 「それより勝手に決定されていることはいいのか?」 ワーレンは苦笑しながらロイエンタールの肩を軽く叩いて、だがビッテンフェルトをたしなめるどころか後を追って歩き出す。 「提督!をあまり困らせないでください」 引き摺られていくに、ヒルダが慌てて追いかけてきた。 このときミュラーがミッターマイヤーと一緒にいたのは単なる偶然に過ぎなかった。 廊下で方向を同じくしたというだけの話で、同じ元帥府に所属する以上日常のことでしかない。 職務のことではなく、お互いに次の休暇はいつになるなどの他愛もない話をしていると、聞きなれた大声が先の突き当たりで交差するT字路の廊下から聞えてきた。 「そうか、キルヒアイスはこれといった趣味も持ってないのか」 「無趣味というより、ラインハルト様やアンネローゼ様の側で過ごすのが趣味なんだと思いますけど」 「むう、閣下とひとつ屋根の下だからな。なんと羨ましい状況だろう。俺でも確かに外に出るよりは休日も家で過ごしそうだ」 「休日にまで卿が側にいては、閣下の気が休まるまい」 「卿が家に閉じこもってなにができる。メックリンガーのように芸術をたしなむわけでもないだろうに。すぐに飽きて昼寝でもして一日が終わるだけだ」 「失敬なことを言うな、卿ら!」 聞えてきたのはビッテンフェルトの声だけではなかった。 「なんだ、同期だけで集まって何をくだらない話をしているんだ、あいつら」 「……ですが、女性の声も混じっていたように思えますが」 女性は極端に少ない職場だ。まして、提督たちに混じって会話に参加できる女性というと、この元帥府には元帥の秘書官ぐらいしかいない。 半ば呆れた様子のミッターマイヤーが廊下の交差に差し掛かったビッテンフェルトに声をかけようと手を上げかけたところで、低い呻き声を上げて立ち止まった。おまけに持っていた書類を廊下に取り落として散らばらせてしまう。 急に止まった同行者にミュラーも驚いて二、三歩先に進んだところで振り返る。 「提督?」 一瞬で顔から血の気が引いて土気色になったミッターマイヤーに、驚いて目を瞬いた。 しかもそのまま硬直して、書類を拾う様子さえない。 ミッターマイヤーの視線を追ってもう一度進行方向を振り返ると、既にビッテンフェルトは通り過ぎて、ロイエンタールとワーレンが差し掛かっている。 「どうかなさいましたか?」 そのミュラーの声を拾ったのはロイエンタールだった。 「そこにいるのはミュラーか?」 なにが驚いたかといえば、ロイエンタールの声を聞いたミッターマイヤーが、まるでミュラーを盾にして隠れるように屈み気味に背中に張り付いてきたことだ。 「て、提……」 「しっ!俺はいないものとして振舞ってくれ!」 「どうしたミュラーそんなところに突っ立って」 ワーレンの問いに、ミッターマイヤー提督の盾にされて、と答えられればどれだけ楽だっただろう。 「い、いえ、つ、つまずいて書類を廊下にばら撒いてしまったので、ちょっと反省していたところです」 「わからんやつだな。そんなことをしている間に拾えばよかろうに。どれ、手伝ってやろう」 「断ってくれ!」 「だ、大丈夫です!そんなに数はないで小官だけで拾えますから!」 「なんだ、ミュラーがいるのか?」 ビッテンフェルトの声が戻ってきて、ミッターマイヤーは声にならない悲鳴を上げた。 背後から聞える不気味な唸り声にミュラーの背中に嫌な汗が伝う。 なにしろ奇行を繰り返す人物は、ぴたりと背中に張り付いているのだ。 原因はビッテンフェルトにあるのだろうか。 だが特にいつもと変わりはないように見えるのだが……。 ミュラーの目に、ビッテンフェルトの影にからひょっこりと顔を覗かせた少女が映った。 少し遠目ではあったが、少女の顔立ちが可愛らしいということは十分に判別できる。 なぜこんなところに女の子がいるのだろう。 同行していたヒルダが、三人の提督と少女に声をかけた。 「書類を拾うことでしたら、私がお手伝いいたしますわ。提督方は先にと行ってください。後から追いますから」 「それならミュラーも後からフロイライン・マリーンドルフと来い!面白い話が聞けるぞ」 ビッテンフェルトが不審なミュラーを気にすることなく素直に先に行くと言ったので、ミュラーの後ろでミッターマイヤーがほっと息をつく。 一体何なんだと疑問に思ったミュラーが動けるようになったのは、三人の士官学校同期生の提督たちが廊下の先に行き、ヒルダがすぐ目の前に来てからだった。 「一体どうなさったんです、ミュラー提……」 書類を拾うと言いながら一向に動く気配のないミュラーにヒルダが首を傾げるのとほぼ同時に、その後ろからミッターマイヤーがそっと顔を覗かせたので驚いて声を飲み込んでしまった。 「ビッテンフェルトはもう行ったか……?」 「ロイエンタール提督もワーレン提督も行かれましたよ……」 顔色が土気色のミッターマイヤーに目を見開くヒルダに、言い訳がましくミュラーは溜息混じりに首を振る。 「先に申し上げておきますが、小官にも事情はさっぱりません。ミッターマイヤー提督にお聞きください」 ミュラーの脇からヒルダの背後を窺いながら、いつでも盾にできるようにまだミュラーの腕を掴んだまま、ミッターマイヤーはようやく安堵に息をついた。 ところが。 「……何をなさっているのですか?」 背後から聞えた穏やかな青年の声に、ミッターマイヤーが奇妙な声を上げて飛び上がったのでミュラーは押されるようにして振り回された。 両腕を掴まれて自由にならない身体で横の窓にぶつからずに済んだのは、ひとえに後ろから声を掛けてきたキルヒアイスが間に腕を挟んで庇ってくれたからだった。 |
今回可哀想なのはむしろミッターマイヤーよりミュラーでした……。 |