襲来の輪舞曲(1)




「あ、忘れ物」
兄の書斎に掃除のために入室したは、テーブルに無造作に置かれた封筒を発見した。
昨日の夜、兄がローエングラム元帥府の印章の入った封筒に書類をまとめているところを見ていたのだ。
「いつもなら邸にはディスクでの仕事しか持って帰ってこないもんね。昨日長期の演習から帰ってきたばっかりだし、ぼんやりしてたのかな」
しっかり者の兄の珍しい手違いに少し嬉しくなって、封筒を取り上げた。元帥府の書類なので中を見ていいのかわからない。邸に持ち帰ってきた時点で重要機密ということはないはずではあるが。重量はさほどではないとはいえ、確かに封筒だけの重さではない。
「これはやっぱり届けないと!」
大好きな兄の職場訪問できる口実に、メイドを取り仕切る執事に外出許可をもらいに行こうと封筒を片手に書斎を出たところでアンネローゼと鉢合わせになった。
「まあ、いいところに。もうすぐ巴旦杏ケーキが焼けるところよ」
「本当ですか?」
メイドとして雇われているとはいっても、の元の仕事はアンネローゼの身の回りの世話だ。更に厳密に言えば話し相手として邸に連れてこられたのだが、じっとしていることが性に会わないとメイドとして働いていて、アンネローゼもラインハルトもそれを咎めたりはせず、むしろ微笑ましく見守ってくれている。館の他の使用人たちもキルヒアイスの妹という立場に甘えず与えられた仕事はきちんとこなすに好意的で、現状に頭を抱えているのは兄のキルヒアイスひとりだ。
本来の仕事はアンネローゼの話し相手なのだから、お茶の時間に呼ばれることが優先される。思わずよろめきかけただが、手に持っていた封筒の存在がそれを引き止めた。
「あ、でもアンネローゼ様、兄が忘れ物をしているみたいなんです。届けに行ったほうがいいかと思っていたところなんですけど」
忘れ物を届けるだけなら別にでなければならない理由はない。ようは行きたいのだと悟ったアンネローゼは微笑んで頷いた。
「では、せっかくだからジークたちにもその封筒と一緒にケーキを届けてくれるかしら?」
「はい!喜んで!」
執事に外出許可を得てくると、アンネローゼから少し多めにケーキを詰めたバスケットを手渡される。
「気をつけていってらっしゃい」
「はい、行ってきます!」
元気よく館を飛び出して行ったを見送って、アンネローゼはふと首を傾げる。
「忘れ物をした『みたい』……ということは、ジークに確認はとっていないのね」


足取り軽く、かといってバスケットの中のケーキが振り回されないように気をつけながら元帥府に到着したはさっそく入り口の受付で用件を告げた。
「キルヒアイス上級大将の家人の者です。主人に届け物があるのですが」
「はい、聞いております。どうぞこちらへ」
受付の若い兵士の答えにおやと目を瞬く。聞いているとはどういうことだろう、兄に連絡はとっていないのに。
ここに至って、連絡も入れずにいきなり元帥府を訪ねる無謀さに気がついた。上から通達が来ていなければ、まずここで身分照会に時間がかかったに違いない。
うっかりしていたなあと思いながら案内された先で更に驚いた。
「どうしてラインハルト様の部屋なの?」
案内してくれた兵士が退出するのを待って裏返った声を上げたを、部屋の主は笑いながら手招く。
昨日の唐突な申し出があったので少し緊張したものの、今朝のラインハルトの態度には大きな異変はなかった。それは、今このときも変わらない。
「この粗忽者め。姉上が連絡をくださらなければ、受付で足止めを食らったぞ」
ちょっとからかうように言われたいつも通りの様子に、ほっと胸を撫で下ろすと、緊張が消えて気が楽になる。
「なるほど、アンネローゼ様が連絡してくださったんだ」
「キルヒアイスは今ちょうど所用で元帥府を出ていてな。それで俺に連絡された」
手招かれるままにデスクの前まで歩いていくと、書類とバスケットを両方差し出す。
「そっかあ、残念。仕事してる兄さまを見たかったなあ」
「……
封筒の中身を検めていたラインハルトが、今にも吹き出しそうな表情で顔を上げた。
「これはもう必要の無い書類だぞ」
「え!?うそっ!」
忘れ物ではなくて単に要らない物だったとわかって、はがっくりとうな垂れる。
「む、無駄足……」
「なら、キルヒアイスが帰ってくるまで元帥府内を見て回るか?」
「いいの?」
「構わない。そうだな、リュッケ……いやフロイライン・マリーンドルフがいいか」
ラインハルトは隣室にいる秘書官を呼び出した。
執務室に入る前に通った続きの小部屋にいた女性だ。ラインハルトよりは少しくすんだ色の金髪で、たおやかなアンネローゼとは違い、快活な印象を受ける。
彼女のことは才能豊かな女性だと、何度か邸でも名前を聞いたことがある。ラインハルトは時々冗談交じりでを揶揄するときにその名前を口に出していた。
「お前もフロイライン・マリーンドルフの半分ほどでいいから、聡明さをわけてもらうといいのに」
何度か言われたことのあるセリフを思い出して、思わず溜息が漏れかける。
確かに知的なお顔立ちで……。
張り合えるものと言ったら、元気のよさくらいしかないだろうなあと唸りそうになる。
それでも、視線に込められた意味は嫉妬ではなく羨望だった。
「彼女は・キルヒアイス。聞いてのとおりキルヒアイスの妹だ。フロイラインには本来のものではない仕事になるが、キルヒアイスが帰るまで元帥府内を案内してやってもらえないだろうか」
「まあ、キルヒアイス提督の。はい、喜んでお引き受けさせていただきます」
ラインハルトに承諾の一礼をすると、有能そうな秘書官は微笑をたたえてに向き直る。
「閣下の秘書官を務めている、ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフです」
「兄がお世話になっております。・キルヒアイスです。よろしくお願いします」
慌ててが頭を下げると、ヒルダは笑顔で手を差し出した。
「お世話になっているのはわたしの方ですわ。こちらこそ今日はよろしくお願いします」
と握手を交わすとヒルダは上官に向き直って退出の挨拶をした。
「それでは閣下、フロイライン・キルヒアイスをご案内してまいります」
「よろしく頼む。、フロイラインに迷惑をかけるなよ」
「わかって……」
ついいつのも調子で返しかけて一旦口を噤んだ。外であんな気安い態度を取っていいはずはないという分別くらいはついているつもりだ。
「はい、ラインハルト様」
ラインハルトはいつもの優しい笑顔で見送ってくれた。


「閣下は本当にあなたを大事になさっているのね」
ラインハルトの執務室を出て、ヒルダが驚いたようにそう言ったのでは軽く首を傾げる。
「ええ、はい。ラインハルト様は使用人にもお優しいですよ」
「使用人?」
「あ、えっと、わたし、お邸でメイドとして働いているので。本当はアンネローゼ様の話し相手にって雇っていただいているんですけど、アンネローゼ様は細々したことはご自分でこなされてしまうから、暇で」
「ひ、暇で?」
本来の仕事が暇だからメイドという感覚がわからないのか、驚いたように目を瞬くヒルダに失敗したかと僅かに焦る。
何しろ、がおかしな子だと思われると兄に直接迷惑が掛かるかもしれない。
「わたし、じっとしているのが苦手で、アンネローゼ様もそれをご存知だから好きになさいって言ってくださるんです」
執務室前の控えの部屋から廊下に出ながら、は慌ててフォローのつもりで付け足した。
「そう……働き者なのね」
ヒルダが笑顔でそう言ってくれたので、ほっと胸を撫で下ろす。
「まずはどこから回りましょうか」
ヒルダは思案するようにを導きながら、兄とは色の違う漆黒の髪を持つ少女を見やった。
大事にされていると思ったのは、ラインハルトが本当に愛しげに彼女に微笑んだからなのに、ひょっとして気付いていないのだろうか。
まさか邸のメイドすべてにあんな優しげな表情を見せるはずがない。ヒルダの前では休憩中などに比較的穏やかな顔もすることもあるが、それでもあんなラインハルトは見たことがなかった。しかもあれは、ヒルダがいることを失念していたとしか思えない。
それほどプライベートに関わることを見せることはない上官なのに。
つまりはヒルダとは逆に、彼女にはそうだと気付けないほどラインハルトのあの態度が当たり前なのだろう。それでも、羨ましいと思うより微笑ましいと思えるのはこの少女の無邪気さゆえかもしれない。
元帥府を見て回るといっても、諸提督の執務室以外でいうと情報編纂室や各省庁への連絡室など限られてくる。どう回るのが良いだろうと思案していると、廊下の向こうからこの元帥府でも重鎮にあたる人物が前から歩いてきた。
「これはフロイライン、客人か?」
ダークブラウンの髪の美男子が不思議そうにヒルダの横のついている少女を見下ろした。
少々顔立ちは可愛らしいが、それ以外で言えばどこにでも居そうな少女が国の重要施設でうろついていれば目立ちもするだろう。
ヒルダが紹介する前に、後ろに従っていたベルゲングリューンの方が気付く。
「閣下、彼女はキルヒアイス提督の妹さんです」
リップシュタット戦役以後、配置換えで所属を移動したが、ベルゲングリューンはそれまでキルヒアイスの幕僚だった。とも何度か顔を合わせたことがある。
も、この軍人らしい厳しい顔つきだが気の優しい兄の部下を好いていた。
「ほう、キルヒアイスの。それならば挨拶をしておこうか。俺はオスカー・フォン・ロイエンタールだ。大将の位を頂いている」
と申します。ロイエンタール提督には兄がいつもお世話になっております」
深々と頭を下げて、笑顔で答えた少女にロイエンタールは内心で少し感心した。
これでも元帥府の、ひいては国の重鎮ともいうべき立場にある身なので、大抵初対面の相手は一歩引くか、緊張にどこか不自然な動きをするものだが、さすが上級大将で国家のナンバー2とも言うべき立場にある男を兄に持つだけはあるというところか。
更に考えてみればキルヒアイスはラインハルトと住居を同じくしている。国家元首といえるラインハルトと普段から接しているならば、その部下相手に怯むはずもない。
「今、閣下から彼女の見学の案内役をお引き受けしてきたところです」
「しかし見学と言っても、新無憂宮やせめて軍港ならともかく、元帥府では見るべきものもほとんどあるまい」
「そうですね、情報編纂室や地下のトレーニングルームやシューティングルームといった他は食堂などのありきたりの場所しかありませんし。ですがキルヒアイス提督がお戻りになるまでなら、ちょうどよい時間になるのではないかと」
ヒルダがそう答えると、ロイエンタールは軽く思案して別のルートを提案した。
「どうせなら、今日出仕している他の者の執務室を回ればどうだろうか。キルヒアイスの妹ともなれば、みな一目くらいは会ってみたいだろう」
普段は他人のことになど淡白なロイエンタールですら、キルヒアイスの私生活に関しては少し興味がある。なにしろ、ラインハルトはともかくその他の提督たちの中では、最も謎の男と言っても過言ではない。もちろんそれはオーベルシュタインを除いてではあるが。
オーベルシュタインの私生活など知りたいとも思わないが、常に温厚な態度で部下に対してまで丁寧に接するキルヒアイスは、秘密主義というわけではないのだろうが、意外にも周囲に対して一線を引いている。
それはむしろ、周囲がラインハルトに対する遠慮があって踏み込まないだけともいえるが、ともかくキルヒアイスと私的付き合いが深い人物は元帥府にも皆無なのだ。
「そうですわね。施設を回っても、そんなに面白くはないでしょうし、むしろその方がいいかもしれませんわ。フロイライン・キルヒアイスはいかが?」
「わたしですか?えっとフロイライン・マリーンドルフにお任せいたします。それと、わたしのことはどうかとお呼びください。フロイラインだなんて似合わないし」
「そうかしら?では私のこともヒルダと呼んでちょうだい、
「はい!」
傍で見ているロイエンタールにはどこからどう見ても、多少度胸は据わっているが普通の娘にしか見えない。
見えないというより、本当に普通に市井の生活を送っているだけなのだろうと指先で顎を撫でたところで、聞き覚えのありすぎる近くで聞くには耳に痛い大声が聞えた。
「なんだあ?ロイエンタール!卿はそんな少女にまで手を出しているのか!?」








最初に会ったのはロイエンタールでした。次に出てきたのはもちろん……。
ちなみにベルゲングリューンはロイエンタールの幕僚になっておりますが、
ビューローはキルヒアイス麾下のままということで。


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