混迷の遁走曲3(解決編1)







スカートの裾を翻し、夜の街を練り歩くひとりの少女。
薄桃色のスカートの裾から伸びたすらりと健康的な足は休むことなく歩み続けるが、目的があってのことでないことは、その速度の遅さから伺い知れる。
春から夏に移ろうとしている季節とはいえ、薄手の白いブラウス一枚の少女ひとりで出歩く時間ではない。
頭の高い位置でひとつに纏めた黒い髪と、上質のエメラルドのような深い翠色の瞳が印象的な、小柄な少女であった。
16歳という年齢より幾分子供じみて見えたのは、怒りが隠しきれていないせいか。
くりくりとした愛嬌のある大きな瞳には、未だ冷め切れぬ怒りの残滓がちらついていた。


喧嘩の最初の理由はチシャサラダだった。
丸きり子供の喧嘩のようだが、本当なのだから仕方が無い。
食べたくないという主人を叱り飛ばしたら、虫の居所が悪かったらしくメイドのくせに命令するなとこましゃくれた金髪のガキ(注:年上)に反論されたので、メイドに命令されるような情けない真似をするなと捩じ込んでやった。
言い方が悪かったのは今なら認めなくも無いが、相手の反論だってまったくもってまともではなかったのは確かだ。
お前のようなメイドはいらない、と言われたので売り言葉に買い言葉、お世話様でしたとシュワルツェンの館を飛び出したのが2時間前。
子供相手に(くどいようだが年上)ムキになるなど、今となっては恥ずかしい。
今時分、母親代わりの姉君にこってり叱られているに違いないからそろそろ帰ろうかと、クビになったはずのメイド、が思案していたところで、いきなり手首を掴まれた。


「姉ちゃん、いくらだ?」
最初は意味がわからなかった。
は小首を傾げた。
「なにがですか?」
少女の愛らしい仕草が気に入ったのか、突然掴んだままの手首を離さないで、男が酒臭い息を吐いて笑った。
「なにがって、ナニがだよ。いくらかって。3人一遍に頼めねえかなあ。料金はずむぜぇ?」
赤い顔をして笑った男の後ろで、連れらしきふたりの男がどっと笑った。
男たちは全員20代後半から30代半ばといったところだろうか。
軍服をだらしなく着崩していて、それだけでもには不快であった。
の身近にはふたりほどの軍人がいて、ふたりとも帝国でも最重要のポストを占めるほどの人物なのだが、そこまで上り詰める前からふたりとも、こんなにだらしない姿を晒したことはない。
まだ若いせいもあるが、あのふたりが年齢を重ねてもこんな姿を見せることは終ぞ想像すらできない。
「あの……手、離してください」
控え目に抗議すると、突然手首を掴む力が強くなる。
「なんだぁ?商売女がなに気取ってんだよ。いくらかさっさと答えろってんだろぉ、あ?」
「い……った……ちょ…ちょっと……」
ぎりぎりと締め上げられる痛みに、眉を顰めながら頭の中で男の言葉を反芻したは、半瞬で態度を一変させた。
「商売女ってだれのことよ!?」
街角で客引きしている売春婦と見られていたと、ようやく気がついたは憤慨して男に詰め寄る。
「大体、初対面の相手になんて口の利き方するのよ!あんた何様!?お金で人の頬を叩いて恥はないの、恥は!!」
自分が随分と偉くなったように他人を虐げる態度を取る相手を、は最も嫌悪する。
そうして、そういった人間ほど格下と信じる相手に罵られて悔い改めるどころか怒り出すものだから、当然三人の男たちの顔に唖然とした動きの後、怒りが立ち上り始めた。
「……このアマぁ!!」
は自由になる方の手で拳を握った。
軍事のプロ、しかも3人もの男を相手に、通常ならばまず勝てない。
だが今回の相手はかなり泥酔していて、しかもを完全に侮っている。
は可憐な容姿には似合わず、護身術にはかなりのレベルまで精通している。
それは艦隊指揮のみならず白兵戦にも優れる兄とその親友に仕込まれた賜物で、彼女の師たちの実力を知っていれば、男たちももう少しまともに身構えただろう。
握り締めたの制裁が相手の顔面に入る直前、横から暴風をまとったような勢いで唸りを上げて拳が飛んできた。
の手首を掴んでいた男が吹っ飛び、それに数拍遅れて風圧がの頬をかすめた。


なにが起こったのか。
が目を瞬くと、その眼前に広い背中が現れた。
「卿らはか弱き女性を相手になにをやっているか!」
凛とした男の声。
を庇うように酔っ払いたちの前に立ちはだかった男は、どうやら同じ軍人のようだった。
「なんだぁ〜てめぇ………」
殴り飛ばされた男が、赤く腫れた頬を摩りながら立ち上がる。
「濫りに臣民に対して暴力を振るうことあたわず!軍規が堅く戒めていることでもある。それを守れぬとあらば卿らに帝国軍人たる資格はない!」
はこの突然現れた蜂蜜色の髪の男に内心、大いに拍手を送る。
まったく、彼女の兄やその親友が作ろうと努力しているのもそういう軍機構や国であって、それこそが健全な国家の形というものであろう。
軍人がその権力で、民を好きに処遇していては、旧貴族の支配体制からなんら代わっていないことになるではないか。
と、がひとり男の後ろで頷いているうちに、酔っ払いのひとりが飛び掛ってきた。
男はの腕を引いて横に避難させると、一撃を避けられ踏鞴を踏んだ男のその横っ面に拳を叩き込む。
たちまち酔っ払いたちと乱闘が始まってしまった。


ホテルの一室で、はようやく一息ついてソファに沈み込んだ。
天井を仰ぎながら、痛む頭を抑えるように額に手を当て、溜息をつく。
目を覆うようにして額に当てていた手の指の間から、ちらりと横を見る。
ベッドの上には、幸せそうに眠る蜂蜜色の髪の男。
もう一度深く溜息をつくと、は立ち上がって着ていた軍服の上着を脱いで椅子の背もたれにかけた。
白い薄手のブラウスは、ボタンを全て失くしてだらりとだらしなく開いている。
裾の一部がスカートからずり上がって見えていて、より一層悲惨な状態を醸し出していた。
結果から言うと、乱闘はを助けに入った男の圧勝だった。
相手は3人もいたのだから、大した腕前だ。
相手が酔っ払っていたことは、この際考慮しない。
なにしろ、この男も酔っ払っていたのだから。
ほとんど一方的に3人の酔っ払いをのした後、酔っ払いどもが芸の無い捨て台詞とともに消えて、は男に近づいて深々と頭を下げた。
「あの……助けていただいてありがとうございます」
なに、気にしなくてもいい。
こんな時間に女性ひとりで無用心だろう。
相手の反応をいくつか予想していたであったが、無反応というのはその範疇外だった。
相手がなにも言ってくれないので、このまま頭を上げていいものかどうか、躊躇する。
どうしようか、と思っていると突然男の体が崩れ落ちた。
思わず反射的にそれを支えようしたに反応したのか、男も手を伸ばしてきた。
が、二人の手は交わることなく、男の手はのブラウスを掴んで引っ張ったのだ。
結果、ボタンは男の体重と倒れる勢いの負荷に耐え切れず弾け飛び、そのブラウスに続くようにスカートのホックが曲がった。
ブラウスと同じく引っ張られたは、男の上に倒れるようにして、一緒に地面に転がる羽目になった。
何が起こったのかと、男の胸の上で呆然としたの耳に、騒々しい鼾が響いてくる。
眉を顰めるような酔っ払いだが、恩人であることに代わりは無い。
そのまま路上に放置しても凍死するような季節ではなかったが、さすがにそれは忍びなくて、は男の軍服を苦労して剥ぐとそれに袖を通して悲惨な状態の服を隠して男を背中に担いだ。
は普段、しなくてもいいと言われつつもきっちりメイドとしての仕事をこなしていて、その上で護身術その他の技術を仕込まれたのだ。体力と腕力には並みの女性以上に自信がある。
半ば引きずるようにして男を連れて、一番最初に目に付いたホテルに連れてきて、ロビーからはボーイに手伝ってもらって部屋まで運び込んだのだった。
いくら体力腕力に自信があろうと、酔っ払いを運ぶのはさすがに骨が折れた。
男は軍人としては小柄ではあったが、体操選手のように引き締まった体は決して軽いはずもない。
ましてや、はそれよりもずっと小柄なのだ。
正直、何度かシュワルツェンの館に連絡して、兄の親友で自分の雇い主たる金髪の青年に助けを求めようかと思いもしたのだが、喧嘩して飛び出した手前、頼るのも悔しい。
それにこの男は軍人であり、軍高官のあの青年の不興を買った挙句に顔を覚えられるような事態になれば、それは恩人に対して忍びない。
兄に助けを求めることができればそうしていたが、生憎と赤毛の頼りになる存在は遥か宇宙の彼方だ。
意地と恩義だけでどうにか部屋まで運び込んだが、そこで精根尽き果てた。


「あの〜………」
無駄と思いつつも、男の体を揺する。
「わたしはこれで帰りますけど、部屋代は前払いしておきますから……」
聞こえているはずもないのだが、一応は告げておかないと。
その上で書き置きでもしていこうと思っていたは、男が突然起き上がったので思わず悲鳴を上げかけた。
しかし寸前でどうにか飲み込む。自分で起こしておいてそれはないだろう。
もう一度言い直そうとしていたは、男の次の言葉で肝を潰す羽目になる。
「気持ち悪い………」
兄やその親友はこんな醜態を晒すほど飲み過ぎたことはないが、父はそうでもなかった。
このセリフの後に起こる惨劇は、父の醜態と母の悲鳴をセットにして脳裏に残っている。
「いや、ちょっと……待って、ストップ!!!」
止まれと言われても、車は急に止まれない。
待てと言われても、酔っ払いの嘔吐も急には止まらない。
数年前の記憶の中の母と同じく、も悲鳴を上げた。


汚された服は風呂場で洗い、ついでに自分もシャワーを浴びた。
少し痛んだ右手首を見ると、酔っ払いたちに掴まれた部分に赤く跡がついていた。
着て帰る服もなくなって、もう今日はもここに泊まるつもりである。
洗った服はベッドサイドの椅子ふたつを利用して背もたれに掛けて干した。
ボタンの千切れとんだブラウスとホックの曲がったスカートではあるが、なにしろ他に着て帰る服がないのだから大事にしなくては。
そう。例え酔っ払いの嘔吐物にまみれた服であろうとも。
なんでこんな目に遭っているのか。
酔っ払いの鼾を聞きながら、ホテルの備え付けの乳液のビンを振っていはじわりと涙が滲んできた。
哀しいとか辛いだとか、そんな理由でではない。
ひたすら悔しくなってきたのだ。
それもこれもあの金髪のガキ(以下略)のせいだ。
あの子供が大人しくチシャサラダを食べていれば、酔っ払いに絡まれたり、こんな知りもしない男の嘔吐物にまみれたり、鼾を聞きながらひとつのベッドで眠る羽目になったりしなくて済んだものを!!
半ば以上八つ当たりの自覚もあるのが、余計にを苛立たせた。
乱暴に乳液のビンを机に叩きつけると、バスローブ一枚の姿で背もたれに掛けた洗濯物を落とさないよう気をつけて立ち上がる。
ベッドに潜り込む直前、机に叩きつけた乳液のビンが少し端により過ぎて落ちそうに見えたのだが、戻って置き直すのも面倒なのでそのままブランケットを引っ張った。







……こーいうわけでした。ミッターマイヤーは災難ですが、彼女も災難…?
まだ続くのかと言われそうですが、だって誰ともまともに言葉を交わしていませんし(^^;)


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