混迷の遁走曲4(解決編2)
肌寒さを覚えて、は寝返りを打った。 ぱたりとシーツの波間に何も着ていない白い手が落ちる。 「ん………」 うっすらと目を開けたは、分厚いカーテンの隙間から差し込む眩しい光に朝の到来を知った。 知らない男とひとつのベッドで共に寝たにも関わらず、実に驚くほど熟睡していたらしい。 さすがにちょっと自分の警戒心のなさを思うと苦笑が漏れた。 ベッドに男の姿は既にない。 下腹部に鈍い痛みを覚えて、不快に眉を顰めながら起き上がった。 ブランケットがはらりと落ちる。 素肌が空気に触れる寒さに、目線を落としてしばし固まった。 「…………っ」 声にならない悲鳴が、静かな部屋に上がる。 は何も着ていなかったのだ。 一瞬、蜂蜜色の髪の男の仕業かと疑ったが、すぐに疑問は氷解した。 着ていたバスローブがの眠っていた側のベッドの下に落ちていたのだ。 風呂上りにスキンケアだけしてベッドに入ったは、どうやら夜中に暑くて寝ながら自分で脱いだらしい。あるいは寝相の悪さにほとんど肌蹴けていたのかもしれない。 罪の無い恩人を疑ったは、心の中で謝ったがすぐにそれを撤回した。 ベッドの反対側にの服が置いてあった。 置いてあったというより放り出したというほうが適切か。 椅子二つの背もたれに掛けて置いたはずなのに、随分と皺だらけである。 椅子の背もたれには男の軍服の上着だけがかけてあり、なぜ自分の服がこんな――。 と、それを持ち上げたはさらに眉を顰めた。 せっかく洗ったはずのスカートの裾が白い液で汚れている。 すぐに乳液だと判明したのは、男が寝ていた方のベッドの下に乳液のビンが転がっていたからだ。 推察するに、夜中に起きた男が寝ぼけて服とビンを一緒に床に落としたらしい。 さらにズクンと下腹部が痛んで、いよいよもって不快になったは、朝起きてからの短時間で何度目かの溜息をつく。 両足の間から滴り落ちた血が、太股とシーツを汚していた。 最悪のタイミングでメンスが始まっていたのだった。 服をもう一度部分的に洗い、シーツも同じく撮み洗いしてドライヤーで乾かしたあと、は男の忘れ物を昨夜と同じく羽織る。 男は完全に姿を消しており、少々腹に据えかねたが、起きたときの自分の姿を思うと救われたような気もする。 男にしても相当酔っていたし、昨日の記憶が無い可能性も高いことからすると、見知らぬ女が裸で同衾していたとなると、かなり動転したに違いない。 泡を食って飛び出したとしても無理は無いかも、となるべく好意的に考えることにする。 自分の状態から、それどころではない深刻な誤解を与えた可能性というものについて考えが及ばなかったのは、単に彼女がまだその方面には幼いためだ。 とにもかくにも、ホテルのチェックアウトを済ませると、街をブラブラして途中で安い服を買って着替えて、館の主人が確実に出仕している時間になってから昨日追い出されたはずのシュワルツェンの館に戻った。 元より、本当に追い出されるはずがないという確信があってのことだ。 「まあまあ、遅かったわね」 ごく当たり前のように出迎えてくれたメイド仲間の少女は、あっさりとを驚愕させることを言った。 「旦那様がお待ちよ、早くお行きなさいな」 「え!?って、あの…旦那様はまだ出仕してらっしゃらないの……?」 「ええ……そりゃあ………」 メイドの少女がくっと笑った所で、後ろのサロンの扉が開いた。 にとってはさながら、地獄の門のような不吉な空気が流れ出てくる。 「もちろんだ……よくも朝帰りなんてしたな……この不良娘………」 地を這うような重低音に、さしものもひっと声を飲み込む。 いつもよりくすんで見える金髪に、明らかに怒りと寝不足を張り付かせた表情の青年は、思わず隣のメイドの少女に縋り付いたをねめつけていた。 「このバカッ!!若い娘が朝帰りなんてなにを考えているっ!!」 主人の自室に連行されたは、頭から怒鳴りつけられた。 「そ、それはその…い、色々あって……」 だって帰ろうとしたのだ。それが様々な事情が重なって帰れなくなっただけで。 「出て行けと言われたからといって、小さな子供でもあるまいし、本当に出て行くやつがあるかっ!」 「うう……でもわたしは雇われてる身で主人から……」 言いさしたは、じろりと睨みつけられて口を閉ざした。 目の前の青年に落ち度がないわけではないが、自分の方が悪いことは明らかだ。 実際、お互いにそんなつもりがないからこそ青年はああ言ったのだし、だってすぐに帰ってくるつもりだった。 帰れなくなったと言っても、連絡まで取れなかったわけではない。 助けを求めなくとも、ホテルで泊まることを決めたときに連絡の電話のひとつでも入れておくくらいの配慮はあってしかるべきだった。 青年の寝不足は明らかで、それがにより深い反省を呼び寄せた。 「――――ごめんなさい……」 しゅんと落ち込んで謝罪を口にすると、ようやく青年の怒気が和らいだ。 「お前になにかあったら、俺はキルヒアイスになんて言えばいい」 「はい………ごめんなさい」 ますます項垂れたの頭を引き寄せると、青年はその小さな体をすっぽりと抱きすくめた。 「キルヒアイスだけじゃない。俺はどうやって俺を許せばいい。お前は俺にとっても大事な存在なんだからな」 「………もしかして、全然寝てない?」 「っ…………当たり前だろう………」 青年はの髪をくしゃりとなぜるようにして、強く抱きしめた。 言葉に詰まった時間は、怒りよりも安堵に満ちていた。 ストレートな想いを向けられると、こちらも素直な気持ちになれる。 は青年の背中に腕を回して、ぎゅっとその軍服を握り締めた。 「ごめんなさい……ラインハルト様」 「反省しているならもういい」 青年はそっと抱きしめていた小さな体を離して苦笑した。 我ながら甘いと思ったのだろう。 「ひょっとしなくても、出仕を遅らせたのも………」 「ああ、そうだ。お前の無事がわかるまで心配でたまらなかった」 「ご、ごめんなさい………」 青年、ラインハルト・フォン・ローエングラムはただの軍人ではない。 公爵の位を持つとか、現在唯一の帝国軍元帥であるとか、そういう高貴な存在であるだけはなく、軍務尚書と統帥作戦本部総長と宇宙艦隊司令長官を兼任し、尚且つ宰相の位にまでついて軍事のみならず政治の分野においても重役を担っている。 その忙しさたるや、蛸ほど手足を持っていたとしてもまだ足りないほどなのだ。 ましてや、軍事においてはほとんどその裁量に任している宇宙艦隊副司令長官のの兄、ジークフリード・キルヒアイスが現在大規模演習のためにオーディンを離れている。 その忙殺度は3割り増しになっているというのに、貴重な睡眠時間を奪った挙句に執務時間まで削らせたのだ。 少しでもサポートしなければならない立場でありながら、まったく逆のことになっている自分の存在に、情けなくての目の端に涙が滲む。 泣いたりはしない。 これ以上ラインハルトの時間を取るわけにはいかないのだ。 ぐっと涙を堪える少女に、ラインハルトは微笑してその目じりに唇を落とした。 「もういいと言っただろう。俺も悪かった。泣くな」 「泣いてない」 「そうだな、泣いてない」 含み笑いの声にが頬を染めると、その上に軽くキスをする。 「そろそろ行ってくる」 「はい、行ってらっしゃい」 もラインハルトの頬にキスを返した。 ギリシアの名工が彫り上げた彫像のような青年を相手にしても、慣れとは恐ろしいものではごく普通にこういった挨拶ができるのだ。 が図太いだけという話もあるが。 顔を見合わせて微笑みあったところで、ラインハルトが爆弾の存在に気がついた。 「そういえば、その紙袋はなんだ?」 帰ってきてすぐに連行されたため隠すことも出来ずに持ってきた紙袋の存在を、自身すっかり忘れていた。 「なんでもないです。行ってらっしゃいませ、旦那様」 みるみるうちに青褪めた顔で、頬を引きつらせながら言う『何でもない』に説得力の欠片もあろうはずがない。 ラインハルトは目を細めて下手な言い逃れをする少女を見下ろす。 「ほう……なんでもないのか。なら見せてもらうか」 「メイドにもプライバシーが………」 「反省しているんだったよな?」 畳み掛けられて、は観念して紙袋を差し出した。 袋から取り出した見慣れた物体に、ラインハルトは首を捻る。 「なんだ、軍服じゃない……か……?」 見慣れたものだが、何かがおかしい。 広げてみて、違和感の正体に気が付いた。 「」 「はい」 は両手を握り締めて俯いている。 「………………これはだれのものだ」 サイズが明らかに小さい。 キルヒアイスはもちろん、ラインハルトのものよりもワンサイズは確実に小さい。 なぜがこんなものを持っている。 ―――しかも朝帰りしたときに。 「………………………………………………………………………知らない」 「知らない〜〜〜?」 説明が足りないと口を曲げて繰り返すラインハルトに、は諦めて昨夜の話を始めた。 「つまり、その恩人とやらの軍服なんだな?」 恩人も酔っていたことは言ったが、倒れた拍子に巻き込まれたことや嘔吐されたことは伏せておいた。 酔っていて、そこで喧嘩などして暴れたために恐らく急に酔いが回って倒れてしまったので、住まいもわからないし、ホテルに連れて行ったのだと。 そこで放って帰るのもあまりに不義理な気がして、一緒に泊まってきたと言ったところで、ラインハルトが激昂した。 「この馬鹿っっっ!!若い娘が、無用心にもほどがある!!」 「でもでも、助けてくれたほどの人なんだから、なんにもしないよ」 「なにかの拍子というやつがあるだろう!」 確かにあった。が自分で脱いだと思われるバスローブ。 ほぼ間違いなく、あの男には全裸を見られた。 思い出すだけでも、顔から火が出るほど恥ずかしい。 本来、あの状況で裸を見られた程度で済んだことが、連れの相手に恵まれたというものなのだが、やはりはそこまで気が回らない。 「まったく………呆れてものも言えん」 文句をこぼしながら軍服に目を戻したラインハルトは、それが高級士官のものであることにますます気を重くする。 確実にその相手はラインハルトの視界の圏内にいる相手だ。 無意味に階級章を避けて、内側のポケットにあるイニシャルを先に見てみる。 ほんの数秒、答えを先送りにしただけだが。 イニシャルはW.M。 即座にひとりの男がラインハルトの脳裏に過ぎる。 ラインハルトより小柄で高級士官。イニシャルはW.M。 蜂蜜色の髪とグレーの活力に富んだ瞳、体操選手のように引き締まった体。 襟元の階級章を見て、がっくりと項垂れた。 そこには大将の階級章が。 現在、大将の地位にあるものはオスカー・フォン・ロイエンタールともうひとり。 ウォルフガング・ミッタマイヤー。 ラインハルトより10cm以上背が低く、イニシャルはW.M。 「お前……俺の大事な幕僚に迷惑をかけるな……」 恩人の名を聞いたの絶叫が響くのはその数秒後のことである。 |
こんなオチでしたパート2。ラインハルト夢…? ということで、隠していたのでラインハルトはミッターマイヤーが苦悩していた裏事情を 知らなかったわけです。よかったね……(^^;) |