「しかし……名前だけだとしても、仮にも『父親』となっている相手の姓すら覚えていないとはどういうことだ」 ラインハルトに呆れた視線を向けられて、はぎゅっと肩を竦めて首を振った。 「だってじい様からは、愚痴混じりに一回強く言い聞かされただけなんだもの。それに書類上はそういうことにしておいて、でも世間的には公然の秘密って扱いで、『父親』の名前は出しちゃいけないことになってたの。いくら婚約してたからって、正式な結婚もしてないのに、いつ間のにか出産まで終わってたんだから世間体が悪いってね。シュターデン家に配慮している、っていうポーズに」 「だったらなんのための手続きだ」 「相手不明よりは、未婚でも婚約者の子供だったほうがマシだっていう、今度はじい様側の世間体」 「呆れた話だ。ならシュターデンどころか、名前だけの父親にすら会ったこともないのか」 「うん。というか、それは無理。わたしの『父親』になってる人は、実はもう亡くなってるのよ。お母さんの失踪から半年くらい経った頃だったかな、事故でね」 「そうか……」 「だから、今後も相続とか諸々の問題もないってことで、亡くなった人の名前だけをお金で貸し借りしたというわけ」 ラインハルトがあからさまに嫌悪を含んだ息を吐き出したが、もまったくもって同感だった。 12.繋ぐものは(1) そんな翌日。 は正面に立つ相手の、非友好的な視線に居心地も悪く心の中で溜息をついた。 昨日会ったばかりの名前だけの『伯父』が訪ねてきたのだ。 嫌われるのは仕方がないが、嫌いなら嫌いで放っておいてくれないものだろうか。 そう思ったのだが、相手の訪問は実に理に適っていた。 「お墓参り、ですか」 「左様。名前だけ、内密となっているとはいえ、仮にも『父親』たる者の墓前に一度たりとも足を運んだことがないというのは、いささか礼を失するとは思われんものだろうか」 「はあ、確かに」 金で解決したがっていたのは祖父であって、それはの望みではなかった。 嘘の名ばかりの父親が欲しいと思ったことは一度もないが、かといって相手も好きで名前を貸したわけではない。何しろ祖父の交渉の時点で本人は既に故人だったため、名前を貸した……あるいは売ったとさえ言えるのは、故人の両親だ。 名前を勝手に売られた『父親』には、手のひとつも合わせても構わないし、言われてみれば「名前をお借りしています」と手を合わせたい気にもなってくる。 だから目の前の『伯父』の言っていることは正しい、と思う。 なのにいささかなどと、押さえ気味な表現を使う嫌味な言い方をするから、無闇に反発心が沸き起こるのだ。 だめだ、これは苦手なタイプだ。 はうんざりしながら、それを顔に出さないように気をつけて頷いた。 「仰る通りだと思います」 ちょうど母親の命日が近く、そのついでに相手の墓にも参ろうかと考えて返答したというのに、『伯父』の切り替えしに度肝を抜かれることになる。 「よろしい。では、今から共に行かれるな?」 「え、い、今からですか?」 「何かご予定でもおありだろうか。ならば出直してもよいが、私は軍務がある身ゆえ、是が非にも外せぬという予定でないのなら、そちらを後日に回してもらいたい」 墓参りに行くのはいい。行かせたいと思うのも判る。 だがなぜ、嫌っている相手とわざわざ一緒に行くのだろうか。 「出直してもよい」と言うくらいなのだから、後日に行くと言ってもその日程で同行するつもりだろう。 は唖然として、シュターデンの険のある視線を見返した。 何か嫌味や恨み言でも言いたいのだろうかと、内心では警戒していたというのに、シュターデン家の墓のある墓地までの車中、まったく会話がなかった。 それはそれで居心地が悪い。 から話し掛けるにしても、共通の話題と言えばラインハルトのことくらいしかない。だが新無憂宮でのラインハルトの反応を見る限り、それもまたいい話題とは思えなかった。 『父親』についてはは何も知らないし、母については相手が悪印象を持っている以上、不愉快になりそうなので口にしたいとも思わない。 窓から流れる景色を眺めながら、『父親』がどんな人となりだったかと訊ねてみようかとも考えたが、口にする前に止めた。 本当の父親でないことはお互いに判っていることだし、だとすれば興味本位で聞くものでもないだろう。まして、ただの場繋ぎに故人を使うのは憚られる。 そこまで考えて、なぜ自分がここまで気を使わなくてはならないのかと思い直しては憮然とした。自ら望んだ縁でもないのに。 そこからはから話題を見つける努力を一切放棄して、ひたすら窓の外を眺めていた。 車中で無言だったシュターデンは、墓地に着いてから墓前までも無言だった。 は後ろについて歩きながら、これで一体どうして自分を同行させたのだろうと前を歩く男の思考を不可解に思う。 ひょっとして、墓参りすると返答したのは口先だけで行かないだろうと踏んでいて、見張りだったのだろうかと考えると限りなくそれが正解に思えてきた。 そこまで酷い人間じゃないぞ、と怨念を込めて背中を睨み付けるとほぼ同時にシュターデンが立ち止まり、は目を白黒させて表情を取り繕うに苦労した。 だがシュターデンはを振り返ることなく、一つの墓をじっと見ている。 その視線を追って墓石に刻まれた文字を見て、それがの戸籍上の父、シュターデンの弟の墓なのだと判った。 むしろこの男と一緒でなければ、もっと心穏やかに祈れただろうにとやや憮然として黙祷を捧げる。故人に非はないとは思いつつも、隣の男に腹を立てていたので、ちっとも心穏やかな墓参りにならなかった。 そうと自覚したのは、やはりシュターデンに無言で先導されて、墓前を後にしてからのことだ。 「私は」 それまでずっと黙っていた男は、墓地を歩きながら突然口を開いた。 「私とあれは歳の離れた兄弟だった。格別に仲の良い兄弟ではなかったが、あれが歳の離れた婚約者のことを良く思っていたことは知っている」 ははっとして顔を上げたが、シュターデンは背中を向けたままで振り返ってはいないし、足を止めもしなかった。 「家同士の利権の絡んだ婚約で、相手からすればやはり歳の離れた男との婚約はさぞ納得しがたかったことだろう。だがあれはあれなりに年下の婚約者を大切にしていた」 どう返答したものか、そもそも相手が返答を望んでいるのかも判らなくて、は上手く言葉にならない声を飲み込んで黙って頷いた。 故人の人となりは知らない。故人なりの「大切にした」というのは、どのようなものだったのかも想像すらできないが、大切にしていた婚約者に逃げられた挙句、密かに子供まで産んでいたとなると、相当傷ついたことだろう。せめての存在を知らないまま他界したのは、故人にとって慰めになるだろうか。 「……あなたはフレーゲル男爵と、トラウトナー伯爵のご令息から求婚されたそうだが」 それこそ公然の秘密の話で、知られていて当然のことでも思わずギクリとしてしまう。 ここでようやくシュターデンが振り返った。 「お二人を更にミューゼル大将と天秤に掛けているとか。他にも男がいるなどという話も聞いた。血は争えんというところか」 言い掛かりだとも、誤解だとも言いたかったが、少なくともラインハルトのことはこちらから積極的に流している話だ。 自分のことはともかく、母親のことまで悪し様に言われることを聞くのはかなりの忍耐を要したが、相手にとっては弟を裏切った女なのだからと心の中で何度も呟いた。 にとっては、誰よりも尊敬する母だとしても。 「あなたが本当はどこの馬の骨の娘なのかは知らんが、あれの名をこれ以上汚すような真似は謹んで貰いたい。よろしいな」 強く上から押さえつけるような言葉に、は両手をぎゅっと握り合わせ、昂然として顔を上げて鋭い目を見返した。 「お言葉はしかと承りました。ですがわたしは、他人に恥じるような生き方はしておりません」 相手の表情が更に険しくなろうともこれだけは譲れない。 の存在は、母がその身を掛けて護ってくれたものだ。 ラインハルトもキルヒアイスも惜しみない協力をしてくれて、偶然知り合っただけのロイエンタールにまで協力してもらって、ようやく今の状態に持ってくることができた。 それを恥じては、それらの人たちに顔向けができない。 背を伸ばして真っ直ぐに視線を受け返すを、シュターデンは忌々しげに睨みつけたが、やがて無言で踵を返した。 が息をついたのは、その背中が見えなくなってすぐのことだった。 子供の泣き声が聞こえたのだ。 風に乗って聞こえたそれに、詰めていた息をついてほっと胸を撫で下ろす。 シュターデンに気圧されたというよりは、久々に自分の存在が他人の不幸に繋がったのだと突きつけされらことに、思った以上に傷ついていたらしい。 思い返してみると、母が何を思って家を飛び出したのかをは知らない。 母はとても愛してくれたし、身ごもった子供を護るためということは確かにあると思っている。 ただし、婚約についてどう思っていたのかという話は聞いたことがない。それはそうだ。 は家からの迎えがくるまで、母の素性も婚約者がいたことも知らなかったのだから。 ただ婚約が嫌だったのか、それともの本当の父を愛していたのか、それすらも知らない。 今まで誰なのか知ることすら諦めていた父親に、初めて心の底から会ってみたいと思った。父親ならば、何かを知っているのではないだろうか。母の本当の気持ちを。 「……でも手掛かりはゼロなんだよね」 探そうにもその取っ掛かりすらないと肩を落としたところで、風に乗って聞こえた子供の泣き声が近づいてきた。 「おい、頼むから泣き止んでくれ。せめて理由を教えてくれないか。どうしたらいいのか判らん。腹が減ったのか、それともおしめか?」 困り果てた様子の声に振り返ると、がっしりとした体格のいい男が赤子を揺らしてあやしている。 だが子供の世話をしたことのないから見ても、どうにもその手つきは危なっかしく見えて仕方がない。 赤ん坊は生まれたてというようにも見えないが、父親ではないのだろうかと思って見ていると、の視線に気が付いたのか男が顔を上げて、驚いたように目を丸めた。 「あ!も、申し訳ない、息子がどうにも泣き止まなくて。墓参の最中に失礼した」 そこに人がいると今気付いたらしい。謝罪されて、は慌てて手を振る。 「いえ、どうぞお気遣いなく。子供は泣くのが仕事と言いますでしょう?」 「そう言ってもらえると助かる。普段は軍務に集中して両親に預けっ放しなものだから、たまに世話をするとどうにも勝手が判らなくて困っていたところなんだ」 「はあ……」 両親に預けっ放しって、奥さんはどうしたんだろうと考えたが寸前でその言葉は飲み込んだ。 ここは墓地だ。 妻を亡くしているのか、それともまったくそれとは関係ないのかは知らないが、墓地ですれ違っただけでそんなことを聞くものではない。 ぼんやりと、困り果てる男と泣き続ける赤子を眺める。 父親は脱色した銅線のような色の髪を揺らして必死に息子のご機嫌を取ろうとしている。 立派な体格をしていて、きっと普段は厳しい軍人なのだろう。 困り果ててはいても、その手つきは小さな子供を潰さないよう恐々と大事に抱えていて、こんなに小さな存在に振り回されている。 「……お母さん、大変だっただろうな」 こんな小さなものを一人で育てながら働いていたのだ。その労働すら慣れない人だったのに。 母がどんな想いでいたのかは、判らない。 母の行動と自分の存在が誰かを傷つけていたことは確かだ。 だけどやはりにとっての母は、恥じることなく胸を張って、尊敬していると言える人であることに変わりはない。 は無意識に一歩踏み出して、子供をあやす父親に向かって手を伸ばした。 ただし父親に触れたかったのではなくて、その腕の中で力一杯に泣いているその存在に触れてみたかったのだ。 だが伸びてきた手に父親が驚いて顔を上げたのを見て、自分の行動に思い至る。 「あ、す、すみません!あの、つ、つい!」 「え、いや、その、別に」 「あの…厚かましいお願いなんですけど……その子の頭を撫でてみても、いいでしょうか?」 「うん?あ、ああ……まあ」 お互いに困惑した様子で顔を見合わせたのだが、父親はが触りやすいようにと子供を抱え直してくれた。 恐る恐ると手を伸ばして、そっとその髪を撫でる。柔らかなそれは大人の髪とは違う手触りで、触れる肌も柔らかい。 髪を後ろに流すようにゆっくりと撫でていると、赤子は次第に声を落とし始めて、やがてとうとう泣き止んでしまった。 と父親が驚いて顔を見合わせる。 「撫でられて気持ちがよかったのだろうか?」 「え、ど、どうでしょう?気持ちよかったといえば、こちらこそとても」 の可笑しな返答が面白かったのか、父親が小さく吹き出して慌てて腕の中の息子に目をやった。父親が笑ったのがよかったのか、赤子は泣き止んだだけでなく声を立てて笑う。 「ああ、よかった機嫌が直った。君には礼を……」 「ザムエル!あなたどこに行ってたの!お墓の前にいないから……あらどこのお嬢さん?」 道の向こうから年嵩の女性の声が聞こえて振り返る。見たところ男の母親といったところだろうか。 に目を留めた女性に、慌てて手を振って一歩下がる。 「た、ただの通りすがりです」 「ああ、そうだ母さん聞いてくれ、彼女が撫でたら……」 「あらまあ、あなたようやく子供の抱き方を覚えたのね。昨日までは何度矯正してもあんなに危なっかしくて、坊やが不安がって泣いていたのに」 「抱き方?」 男との声が重なった。同時に赤子に目を向けると、から見ても危なげに見えていたはずが、しっかりと背中と尻を固定して抱き上げていた。 がこの子の頭を撫でやすいようにと抱き直したのが、逆によかったらしい。 「……そうか、抱き方だったのか」 「まったくもう!息子が一歳になってようやく抱き方を覚えるなんて!母さんたちがいるからって、もうちょっと構ってあげなさい!」 当然と言えば当然の母親の憤慨に、だが男とは目が合うと、泣き止んだ真相が判って気が抜けたように笑いを漏らした。 |
自分にとって大切な人でも、誰かにとっては恨みを持っていることも。それと判っていても、 実感するのはやはりまた別物かと。 ちなみに赤ん坊が抱き方一つでころっと泣き止んだのは実体験に基づく話(^^;) |