「え……ええっと……庇っていただいたようで……」
たぶん、そういうことになるのだろうとが頭を下げると、ファーレンハイトは苦笑して手を振る。
「なに、フレーゲル男爵の醜態を見てしまったとなれば、小官もフェルナー大佐もよいことなどなにもない。見なかったことにするのが良策というだけの話だ」
気にするなと説明されたことに納得しかけて、ふと床に伸びたフレーゲルを見下ろした。
「でもそんな説明をして、もしも後でこのおかっ……えー、フレーゲル男爵が真相を話したら余計にまずいのでは?」
「まさか。プライドの高い男爵が女性に蹴り倒されたと自ら吹聴することはあるまい。それに、申し訳ないが我々はあなたからそう説明されたということで通させてもらいたい」
確かに、そういうことにしておけば、宮廷で男爵を蹴り倒したなどと知られたくないが偽りを説明した、とフレーゲルも納得するだろうし、醜態を見られずに済んだと安心もするだろう。
そして恐らくファーレンハイトは先ほどの言い争いの様子を見て、ならそれくらいの嘘を説明することくらい、今更のことだと判断しての提案に違いない。
ファーレンハイトとフェルナーは何も見ていなかったということにしておくことが、誰にとっても無難に落ち着きそうな話だった。
「なるほど、それなら納得です。わたしもそのほうが助かります」
が頷いて了承したとき、ちょうど警備兵三人ほどを伴ったフェルナーが戻ってきた。



11.偶然の遭遇(2)



自分の警備中にすぐ近くで男爵位を持つ、しかもブラウンシュヴァイク公の縁者が廊下で気絶しているという事態に、警備兵たちはかなりうろたえていた。
「フ、フレーゲル男爵!」
慌しく駆け寄ってきた警備兵たちに、は頬に手を当て眉を寄せ、精々心苦しそうな表情を作った。
「わたしがうっかり倒れてしまいそうになったときに、男爵が庇ってくださってこんなことに……申し訳ありませんけれど、医療室へ運んで差し上げてくださいません?」
小柄なが転びかけたところを支えただけで廊下にひっくり返るとは、どれほどフレーゲルがひ弱なのかと言われそうだが、慌てている警備兵たちはまったく疑うことなく、貴族の令嬢らしいに敬礼をする。
「はっ!我々にお任せください!」
例え慌てていなくても、不安そうに、そして申し訳なさそうにアメジスト色の瞳を翳らせる細身の少女を見て、まさか大の男を蹴り倒したとは想像もしなかったには違いないが。
「ではこちらへ……」
二人の警備兵に丁重に男爵を運ぶように命じると、一番年嵩そうな男がを一緒に連れて行こうと促す。
せっかくフレーゲルが気絶して、絶好のチャンスだというのになぜわざわざついて行かなければならないのか。
は嫌そうに眉をしかめ、すぐに扇で顔の半分以上を隠して首を振った。
「わたしのせいでこんなんことになってしまって……今はただ申し訳なくて、男爵に合わせる顔がございませんの」
眉をひそめたのは、あくまで自分の失態を恥じてだということにして溜息をつく。
警備兵の後ろでフェルナーが笑いを堪えている様子が見えたが、は構わずに扇を閉じて憂いを帯びた目で兵士を見上げた。
「男爵には改めて後日お詫びしたいと思います。どうかそうお伝え願えませんでしょうか?」
「しょ、承知いたしました」
心細げに両手で手を握ってくる少女に、頼まれた相手はこくこくと首を縦に落として頷く。
承諾を得て、はほっとしたように頬を緩ませた。
年嵩の警備兵はファーレンハイトとフェルナーにそれぞれ敬礼をして、運ばれて行くフレーゲルを追って駆けて行く。
その背中を見送って、充分に距離が空いてからはふてぶてしい息を吐いて表情を崩した。
「ああ、疲れた」
途端に隣と前から笑いが起こる。
「手馴れた切り替えだな」
ファーレンハイトは妙に感心するし、フェルナーも笑いながら振り返って姿の見えなくなった警備兵に辛口の批評する。
「新無憂宮の警備も質が落ちたものだ。フロイラインの名も聞かずに行ってしまった。あれで伝言するというのだから呆れたな」
伝言そのものは「お連れの女性から」でも通じることは通じるが、やはり名前くらいは尋ねておくべきだろう。警備という観点からしても。
「倒れていたのがブラウンシュヴァイク公の甥ですから、よほど慌てていたんでしょう」
は肩をすくめて、フェルナーが戻ってきて二人揃ったところで改めて深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。ファーレンハイト提督とフェルナー大佐のお陰で、どうにかなりました。さすがに廊下に放置しておくわけにはいきませんでしたし……。非力な身ではありますがわたしにできることがあれば、いずれなりともお役に立ちたいと思います。わたしは……」
侯爵家のご令嬢でしょう」
名乗ろうとして、その前にあっさりとフェルナーに言い当てられて目を瞬く。
だが考えてみれば、フェルナーはブラウンシュヴァイク公の部下ということなのだから、のことを知っていても不思議はない。
「ええ、はい。・フォン・です。どの辺りから気付いておいででしたの?」
「男爵を相手にあの剣幕でしたからね。『生意気な家の小娘』ではないかと思った次第です」
「なるほど」
どうやらブラウンシュヴァイク公は簡単に運ぶはずだった婚約が上手くいかずに、そう愚痴を零しているらしい。まったくもって正当な評価であることは自身も認めるところで、苦笑するしかない。
侯爵令嬢と聞いてファーレンハイトはますます興味深そうに顎をひと撫でしてを見下ろす。
「それで、連れの男爵がいなくなってしまったところでご令嬢には帰りの当てがあるのだろうか?」
「うちの車はあのおかっ……男爵との悶着で帰してしまいましたので、歩いて帰りますよ。二本の足があるんだから」
あっさりと当たり前のように答えたが、宮廷から歩いて出て行く貴族という姿は目立つに違いない。そうと承知していても、頓着はしていないに二人が顔を見合わせて苦笑する。
「なんでしたら、今日はブラウンシュヴァイク公が参内されているから……」
フェルナーのわざとらしい提案に、はあからさまに顔をしかめた。
「嫌です!せっかく男爵から解放されたのに、どうして自分から狸じじいのところに行かなくちゃいけないんですか!」
あまりにも正直すぎるにフェルナーが声を立てて笑い、ファーレンハイトが別の提案をしようとしたところで、その後ろから声をかけられた。
「ファーレンハイト少将か?まだこんなにいたの……か」
ファーレンハイトの脇から顔を覗かせたの姿を蒼氷色の瞳に映し、声をかけてきた青年が立ち止まった。


「あら、ラインハルト。ちょうどよかった!」
!どうしてお前がこんなところにいるんだ」
ファーレンハイトの脇を抜けて、心底驚くラインハルトの元に駆け寄る。
「姉さ……グリューネワルト伯爵夫人にお招きいただいた帰りよ」
「姉上に?」
後宮のアンネローゼを訪ねたからといって、なぜここにいるのかという説明にはならないだろう。ラインハルトの疑惑の視線に肩を竦める。
「帰りにあのおかっぱに捕まったのよ」
「おかっ……そのフレーゲル男爵はどうした?」
ラインハルトはの背後のファーレンハイトやフェルナーを気にして言い直しながら首を巡らせるが、件の男は運ばれて行った後なのでどこにもいるはずがない。
「今頃医療室ね」
「医療室?」
ますます不可解な答えに眉をひそめるラインハルトに、は一言で片付けた。
「話せば短い事ながら、不幸な事故よ」
後ろで一部始終を見ていた二人の男の失笑が上がる。
ラインハルトの視線が向くと、ファーレンハイトとフェルナーは笑いを消して姿勢を正した。
「ファーレンハイト提督とフェルナー大佐には、不幸な事故の処理にご尽力いただいたのよ。お陰ですんなり片付いたわ」
「そうか……それは礼を言う」
「いいえ、戦場の前にさっそくミューゼル閣下のお役に立てたのなら光栄です」
他意のなさそうな微笑で敬礼するファーレンハイトに、ラインハルトは軽く息をついた。
なぜラインハルトが、のことで礼を言うのか、妙な好奇心の目を向けられるのは本意ではない。
「これは色々と問題を起こすが、私には大切な友人でもあるのだ。尽力に感謝する。……、ファーレンハイトは今度の出征において私の指揮下に入ることになっている」
それは奇妙な偶然もあったものだ、とが感想を漏らす前に、再びラインハルトの背後から声が上がった。
「これはミューゼル閣下。こんな廊下でファーレンハイト少将を呼び止めてなんのご教唆ですかな」
妙に硬質で居丈高な声にラインハルトの眉間にしわが寄り、も同じような顔をした。基本的にラインハルトとは、苦手とするタイプが似ているのだ。
ラインハルトの背後には壮年の軍人が二人並んでいた。
そのどちらもは知らなかったが、相手は違ったようだ。ラインハルトの影からが見えたとき、口髭を蓄えた眠そうな目の右の男ではなく、神経質そうな左の男が記憶を辿るように目を細める。
「まさか……侯爵の……」
「はい。孫のです。祖父をご存知なのですか?」
また頭の固い貴族の登場かなと嫌々ながら、苦手意識の表情を消して首を傾げると、逆に相手のほうが敵意をあからさまに表情に出してを睨みつけた。
「なるほど、母親にそっくりだ」
「母のことまでご存知で?」
しかもどうやらの敬愛する母親に悪感情があるらしく、ますます以って男に対しての意識を悪い方向へと悪化させる。だが相手は、悪化どころかこれ以上は悪化できないほどに憎々しげな目を隠すことなく露にした。
の父親は母の婚約者だった男、ということにはなっているが、真実とはどこかしらで漏れるもので、知っている者はの父親が不明だということも知っていた。
そういう貴族の中には、父親が定かではないを侮蔑や好奇の目で見る者もいたけれど、初対面で憎しみを込められたのはさすがに初めてだ。
口髭を蓄えた男も同行者の反応は意外だったらしく、驚いたように僅かに眠そうな目を開いたので、こちらは祖父も母も知らないのかもしれない。
男は不愉快そうに鼻を鳴らしただけでそれ以上に構うことなく、ラインハルトにおざなりの敬礼をすると無言で歩き去った。口髭の男は、丁寧な敬礼を施してから後を追う。
とラインハルトは目を瞬いて顔を見合わせた。
「誰、あれ?」
「シュターデンと何かもめたのか?」
同時に訊ねて、今度はお互いに相手の質問に首を傾げた。
「あの態度で初対面なのか?」
「シュターデン?」
「そうだ。お前を睨みつけていたのがシュターデンで、隣にいた男がメルカッツだ」
メルカッツという名前は、軍人でないでも知っている。この血筋至上主義社会において、下級貴族出身というハンデを持ちながらも己の武勲で大将にまで登りつめた、帝国の宿将、屈指の用兵家とも評されている。
だがシュターデンという名は知らない。知らないはずなのに、どこかで聞いた覚えはある。
額に人差し指を当てて記憶を掘り返し始めたに、ラインハルトは息を吐いて頭に手をかけた。
「考えるのは後でいい。いくぞ」
ラインハルトが一歩踏み出すと、ファーレンハイトとフェルナーは先ほどまでのに対していたときのような気安い表情を引き締めて敬礼で見送る。
は二人にもう一度深々と頭を下げてから、慌ててラインハルトの後を追いかけた。







今度の出征=アスターテ会戦なわけですが、会戦名は後で付くのでここでは出征とのみ。
フェルナーとファーレンハイトとの絡みが顔見せ程度で終わったのは残念ですが、二人の
印象には間違いなく強烈に残っていると思います(^^;)


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