「楽しい時間ってすぐ終わっちゃうんですよね……」 は空になったカップをテーブルに戻して溜息をつく。 目の前のアンネローゼはいつものように、たおやかな微笑みで頷いた。 「そうね。せっかくが色々と楽しい話をしてくれていたのに」 先週キルヒアイスに言った通り、新無憂宮のアンネローゼを訪ねていたは、時計を見て退去時間が迫っていることに不満そうに唇を尖らせる。 市井にいた頃は当然こんな宮廷の規則などとは無関係だったので、夜遅くまでミューゼル家に居座って、アンネローゼの周りをうろついていることもよくある光景だったのに。 「まだ日が落ちないうちから出ていけだなんて、皇帝陛下って心が狭い……」 「陛下がお決めになられた規則ではないのよ」 アンネローゼは子供のように駄々を捏ねるを笑いながら、そっとたしなめた。 聞く者が他にいないからといって、取りようによってはどころかかなり際どい発言をしてしまった。 よりによって、神聖不可侵とされている皇帝を名指しで心が狭いなどと。 さすがに拙い発言だったかとはくるりと室内を目だけで誤魔化すように見回して、正面のアンネローゼに視線を戻す。 「せっかく早い時間だから、帰りにラインハルトのところに寄って行きます」 まったく話を変えてしまえと次の行動の予定を言うと、アンネローゼは微笑んだ。 「それならラインハルトによろしくね。でもあまり遅くなってはだめよ?もう昔のようにお向かいの家ではないのだから」 「はい、姉さま」 11.偶然の遭遇(1) 「」 アンネローゼの言葉には素直に返事をしたは、だが相手によっては耳が遠くなる。 乗り換えの中継になる建物で、呼び掛けを無視して来客用の皇宮内専用車から自邸の車へ乗り換えようとした。 「!」 二度目の声は高く、周囲の目が集まってしまって無視するわけにもいかない。 明らかに嫌そうな表情で振り返ると、力を込めて呼んだせいか握り拳で僅かに前のめりのフレーゲルが立っていた。 が振り返ると慌てたように拳を降ろしていつもの余裕の笑みを浮かべたが、余裕のないさまも、生憎見たくもないけど見てしまった後だ。 「……ごきげんよう、お……フレーゲル男爵」 さすがに人目のある場所でおかっぱ呼ばわりはできずに言い改めると、やはりフレーゲルも他の者の目が気になるのか、心持ち尊大に頷く。 アンネローゼに会えて楽しかった気分が急落するのを実感していると、フレーゲルはその尊大な態度のままで、他家の運転手にとんでもないことを言い出した。 「フロイライン・は私がお送りする。貴様は先に戻ってもいいぞ」 「ちょっ……!え、えーと、人の家の者に勝手なことを言わないでくださいます?」 「いずれは私の使用人だ。なんの問題がある」 「大アリよ!」 が悲鳴のような声を上げると、礼儀正しくこちらに注目しないようにしていた後宮勤めの門衛たちの目が、ちらりと様子を伺ってくる。 は持っていた扇を広げて口元を覆うと、正面から相対しているフレーゲルにははっきりと聞こえるほどの舌打ちをした。 グリューネワルト伯爵夫人の客として訪れた以上、人前で目の前の男に蹴りをくれて立ち去るわけにもいかない。そして、いつまでも宮廷と後宮の境で睨み合うわけにもいかない。 主人である少女と、その自称婚約者を困ったように見比べる運転手に、仕方なく手を振った。 「後宮を辞したあと……そうね、リンベルク・シュトラーゼで待っていてちょうだい」 がしれっとラインハルトの下宿する住所を告げると、当然ながらフレーゲルの目が吊り上がる。その効果を狙ってのことなのだから、反応してくれなくては面白くない。 微妙な差はあっても、とりあえず同じ方向を向いた命令に、家の運転手は明らかにほっとしたように一礼をして先に後宮を出て行った。 形はどうあれが同意を見せたことに満足したらしく、背中に支え棒が必要そうなほど反り返って宮廷のほうへ足を向けるフレーゲルに、後ろから蹴りを入れるように空気を蹴った。 フレーゲルの後ろを歩きながら、嫌になるほど高い天井を見上げる。 一口に新無憂宮と言ってもが訪れるのは、後宮の一角にあるグリューネワルト伯爵夫人の邸宅のみで、その中枢にあたる政務の場には足を踏み入れたこともない。 一定間隔で並ぶドア、その反対側の壁には豪奢な壁画が続いている。 石造りの廊下に響く足音は、高い天井に反響して冷たい雰囲気を醸し出す。 皇帝の座所とあってその内装はいかにも金が掛かっていそうだが、はこういった「無意味な浪費」は趣味が合わない。貴族の邸のパーティーに出席したときと同じ息苦しさを感じるだけだ。 もっとも『宮廷』と『一介の貴族の邸』を同レベルで論評している時点で、初めて宮中を歩きながらに緊張感はまるでないといえる。 前からとうとうと聞こえる、「この若さで持つ、数々の宮廷での思い出」という自慢話を聞き流して黙々とついて歩いていたが、初めてフレーゲルが少しだけ羨ましいと思った。 こんな長いばかりの廊下を歩いているのが、実に楽しそうだ。 扇で隠した後ろで大あくびをしながら涙目で後ろを確認して、通り過ぎた警備の兵がもういないことを確認してから、陛下に初めてお声を貰った時という話に割り込んだ。 「あのねえ……何か話があったから呼び止めたんじゃなかったっけ?」 珍しくが黙って話を聞きながらついてきていると気分良く語っていたフレーゲルは、その不満げな口調に、途端に振り返って眉間にしわを寄せる。 「こっちも予定があったんだけど。話があるならさっさとすませて、ちゃっちゃっと帰らせてもらえないかな」 あのとき黙って従ったのは、あそこでは一度大声で怒鳴ってしまい注目を浴びたせいだ。 あくまでも自分はアンネローゼの客としてきているのだから、アンネローゼの名誉のためにも、みっともない真似だけは避けようと涙を飲んでの決心だ。 こんな眠くなる自慢話を聞くためではない。 「この先に宮廷に訪れた、特別に高貴な者のための地上車の格納スペースがある。重要な内々の話をこのような廊下でするものではない。そんなことも判らないのか」 ただでさえ楽しくない時間の潰され方に苛立っていたところに、フレーゲルに鼻先で笑われた。 心の底から馬鹿にしたように。 元より短気なは、売られた喧嘩は高確率で買ってしまう。警備兵の前はもうだいぶ前に通り過ぎていて、周囲に誰もいないことがの導火線を更に短くした。 「だから妄想は止めろって言ってんでしょうが!あんたと交わすような内々の話なんてあるか!」 石の床に音高く足を踏み鳴らすと、手を振り上げる。 石造りの床は思った以上に音が響いた。 そして、この距離なら少しは避けると思った扇は、顔面に直撃する。 「ぎゃっ!」 「……ぶふっ!」 フレーゲルが顔面を押さえてもんどりうって悲鳴を上げたその瞬間、別の男の吹き出す声が横から聞こえて、からさっと血の気が引いた。 横を見ると、のすぐ横にあった扉が薄く開いていて、若い士官が笑いながら人差し指を立てて内緒という合図を送ってくる。 見られた! 顔を押さえて悶えるフレーゲルとは別の意味で頭を抱えて悶えたくなった。 家の娘は、グリューネワルト伯爵夫人の客として後宮を訪れて、宮廷で暴れて帰った……そんな噂が流れでもしたらどうすればいいだろう。二度とグリューネワルト伯爵夫人には面会を許可せずなどと言われでもしたら……。 「……ラインハルトの願望を力の限り応援するまでよ」 そうしたら姉様とも会いたい放題、とフレーゲルが顔を上げるまでに覚悟を決める。 気が付けば隣の扉はもう閉まっている。あの士官だって天下のブランシュヴァイク公の甥の失態を見てしまっただなんて不運に見舞われたくはないだろう。気付かれないうちに逃げるに敷くはない。おまけに彼は、笑ったのだ。 ……笑った対象が、フレーゲルの境遇かの行動かは定かではないが。 ひょっとすると噂にならないで済むかも、と考えていると怒声が聞こえた。 「!」 目を正面に戻すと、顔の中央を押さえたまま、どうにか立ち直ったフレーゲルの目が怒りに燃えている。 「そんなにも、あの成り上がりの下級貴族共がいいと言うのか!何故だ!?」 「何度でも言うけど、少なくともあんたほど人間腐ってないからね!」 「腐る?馬鹿なことを」 激していた感情の波が引くように、フレーゲルが急にゆるりと笑ったので眉を潜める。怒るならともかく。 「腐った人間というのは、賎民共のことだろう。地べたを這いつくばるしか能のない無能者共だ。我々は特別を許された高貴な者だ。選ばれた者だ。そしてお前はこちら側の者。……あの金髪の孺子や爵位もない帝国騎士など……ぐわっ!」 今度は額に靴が命中して後ろに倒れた。 かかとを脱いだ靴を足先に引っ掛けて足を振り上げただけなので、ちょうど命中した部分がヒールだったのは、わざとではない。 「くだらない!……ああ、そうだ。それにもうすぐラインハルトはローエングラム伯爵よ。由緒ある武門の家柄だとか。元が成り上がり者だろうが貧乏人だろうが、あなたが大っっ好きな!特別に高貴な者の仲間入り。それで、フレーゲル男爵。家柄で負けて、将としての功績にも劣り、あなたがラインハルトに勝てるものがあるんですか?」 にっこりと笑ったときは即座に、家柄は負けではない、自分は正当な血筋だとか言い出すだろうと既に反論の準備をしていたのだが、床に倒れたフレーゲルは動かない。 「……あ、あれ?」 やりすぎたか、と靴のないほうの足をペタリと一歩前に出して覗き込もうとした。 「お見事なコントロールだ」 楽しげな声に驚いて振り仰ぐと、これから進むはずだった廊下の先、フレーゲルが今も立っていれば背後にあたる場所で、先ほどとは別の若い士官がの靴を手に薄く笑っている。 昏倒したフレーゲルに倣いたいとは思わないが、目眩を覚えて壁に手をついた。 また見られた。 こんなことなら、あのとき後宮でこの男を無視し続ければよかったと思っても時既に遅い。 溜息をつくの心境を知ってか知らずか、士官はフレーゲルを跨いで手にしていた靴を持ち主に返してからしゃがみ込み、床に伸びている男の瞼を上げたりしながら覗き込んだ。 「これは脳震盪だな。安静にしてれば目を覚ますだろう」 「えーと……」 今更なんの言い訳があるのかと考えているのに、どうにかこの状況に整合性をつけた、もう少し、ほんの少しでもいいから穏便な説明はできないかと考えを巡らせていると、後ろから両肩を握るようにして叩かれた。 「ひゃ!?」 「勇者殿の痛ましい姿だな」 男性の声が耳元で聞こえて慌てて首を捻ると、さっき部屋から覗いていたはずの士官がいつの間にか部屋を出て、の真後ろに立って肩越しにフレーゲルを見て首をすくめている。 「そちらは新無憂宮に仕える者か?」 床に伸びた男の様子を見ていた士官が立ち上がって訊ねると、後ろの男はの両肩を解放して敬礼をとった。 「いえ、将官はブラウンシュヴァイク公の参謀の末席に名を連ねております、アントン・フェルナーと申します」 「ほう、ブラウンシュヴァイク公の……」 質問をした士官は顎を撫でて、薄い水色の瞳を眇めた。 「卿はここで何があったか、何か見たか」 「この少女……いえ、ご婦人が何かの拍子でバランスを崩しそうになったところを、こちらの……フレーゲル男爵でいらっしゃいますね。男爵閣下が支えようとして、転倒されました」 「は……?」 「ふむ……まあ及第点だが、七十点というところか。その説明で鼻と額の跡はどう理由をつける」 「へ……?」 「鼻は頭をぶつけたことにでも。額は……そうですね、倒れた男爵の上から慌てて起き上がろうとしたときの事故、とでも」 自分を置き去りで進む事態に、は士官二人を見比べるしかない。一体なにがどうなっているのだろう。 そしてが疑問符を飛ばしている間にも、士官同士の話は成立したらしく、二人揃って吹き出した。 「なかなか痛快な見物だったな」 「閣下ともあろう方がそんなことを仰いますか?ファーレンハイト提督」 フェルナーが笑いを噛み殺しながらそう言うと、男は肩を竦めた。 「私を知っているのか。ならばこれも知っているだろう。私は元々貴族とは名ばかりの、食うにも困るほどの貧乏貴族の出身でな。成り上がり者というわけさ」 「小官は平民出身です」 「あ、あの〜……」 盛り上がる二人に、加害者は所在なげに小さく声を上げる。 フェルナーは困惑する少女に気付いて、まだ笑いながらの肩を叩いた。 「いや、なにか廊下が騒がしいから覗いてみれば、あまりに楽しそうな場面だったものでね。だが男爵はこれでも俺の主君の身内だ。どうにか穏便に戦いを終結させられないかと、窓から部屋を出て迂回して、素知らぬ振りで廊下を通りかかろうと思っていたんだが……人の目があれば舌戦も終わるだろう?」 「窓から外へ?卿もまたあまり人のことばかり笑えたものではないのではないか?」 呆れたように、だが楽しそうに腰に手を当てて笑うファーレンハイトに、フェルナーは小さく悪戯小僧のように笑ってから、表情を改めて再び敬礼した。 「放っておくわけにはいきませんし、警備の者を呼んで参ります」 「ああ、頼む」 何がどうなっているのかさっぱり判らないまま、はフェルナーが走って行くのを呆然と見送った。 |
殴られてばっかりのフレーゲル(^^;) 新たに出会ったうちのひとりはブラウンシュヴァイク家と縁があるようですが……。 |