休暇に入る前に、と赤毛の幼馴染みが訪ねてきたのは十月の終わりの頃だった。 「へえ、旅行!いいなあ、旅行。わたしも行きたいなー」 しばらくオーディンを離れることになるというキルヒアイスの話に、はソファーの背もたれに背中を預けて、首を直角に曲げると天井を見上げる。 「ほとんどこの邸から出たことないし」 「そうは言っても一人だと味気なくてね」 キルヒアイスはコーヒーカップを手に肩を竦める。 「あれ、一人ってラインハルトは?」 「後で合流はするよ。でも五日のうち三日は一人になりそうなんだ」 「どうして」 喉を晒してひっくり返りそうな体勢で天井を見上げていたが腹筋に力を入れて起き上がると、キルヒアイスは苦笑を浮かべて手にしていたカップをソーサーに戻した。 「ラインハルト様は休暇の最初にローエングラム伯爵家の先祖を奉る必要があるから」 「あー……そうか、年明けまでにはミューゼルからローエングラム伯爵閣下だっけ」 軽く手を打って納得すると、は細い指を顎に当て、どこともなく視線を宙に浮かせる。 「ローエングラム……ラインハルト・フォン・ローエングラムか……いい響き!まさか響きでラインハルトに継がせる家を決めたわけでもないだろうけど、今回の皇帝陛下のご采配は悪くないね」 口の中で何度かラインハルトの新たな名を呼んで、満足したように頷いた。 10.得るもの失うもの の感想に驚いたのはキルヒアイスだ。 成人すればローエングラムなどどこかの名門の家名を継ぐという話があったとき、同じようなことをラインハルトも言っていた。 彼らの心の聖域とも言うべきアンネローゼを連れ去り、後宮という檻に閉じ込めた皇帝を憎んでいるラインハルトが、皇帝の好意を素直に喜んだのはこの件と、大将に昇進後に旗艦として新造戦艦「ブリュンヒルト」を下賜されたことくらいのものだろう。 それほど、ラインハルトには新たな家名が喜ばしいものだったのだ。 名門貴族の地位を喜んだのではない。 むろん、利用できるものはとことん利用しようと割り切っているラインハルトは、名門貴族の名も役に立つだろうとは思っている。 それとはまた別にラインハルトが喜んだのは、ミューゼルの家名が嫌いだったことも多分に含まれているだろう。 ラインハルトの喜びを見たときは何気なく尋ねた言葉を、今度は意識して聞いてみることにする。 「綺麗な響きだとは思うけど、ミューゼルの名前がなくなるのは惜しいとは思わないかい?」 こうラインハルトに聞いたとき、あの蒼氷色の瞳は鋭い光を宿してキルヒアイスを見据えた。 「ミューゼルとは、娘を権門に売った男の名だ。そんな名前、下水に流しても惜しくはない!」 父親の葬儀の席でも冷たい目で墓石を見下ろしていたラインハルトが雨の中の葬儀に出席したのは、あくまで姉のアンネローゼを悲しませない為のことでしかなかった……。 「そういえば、お向かいのミューゼルさんじゃなくなっちゃうねえ」 の反応はのんびりしたものだった。 「元々もうお向かいじゃないけど。姉さまはグリューネワルト伯爵夫人だし、言われてみればミューゼルの名前を継ぐ人は、これでもう誰もいないんだね」 キルヒアイスは目を瞬いて、それから軽く肩を竦めて苦笑する。 「お向かいのミューゼルさんが惜しいくらいなのか」 名門の伯爵家が復興してラインハルトがそれを継ぐというのに、の感想にすると「お向かいに住むミューゼルさん」と同レベルのものでしかないらしい。 「というよりね、そういう感慨って本人が抱くくらいのもんじゃない?それならラインハルトは全然気にしそうじゃないし……どっちかっていうと、大喜び?」 「……大喜び?」 「あれ?だってラインハルトはミューゼルの名前、嫌いでしょ?」 軽く首を傾げるに驚いた。 今までそれらしいことをラインハルトが口にしただろうかと考えたが、キルヒアイスですら深く考えずに先の質問を言ったくらいだ。そんなはずはない。 「どうしてラインハルト様がミューゼルの名を嫌っているって判る?」 「ラインハルトってさ、とことんおじさんのこと嫌ってたじゃない。軽蔑してたっていうか、無視していたっていうか。そこにきて姉さまが連れて行かれちゃって、それをおじさんは見送ったんでしょ?おじさんとの繋がりが憎いくらいになってそうだなって思っただけ」 「すごいな……」 「何が?」 来客がキルヒアイスということで、気を張る必要がないのでコーヒーと一緒に出してもらったケーキを頬張りながらは目を瞬く。 「僕はずっとラインハルト様の傍にいてその憤りを見ていたのに、さっきと同じことを何気なくつい聞いてしまったから。はラインハルト様のことをよく判っているんだね」 「それはわたしが、を嫌いだからかな」 何でもないように返ってきた答えに、キルヒアイスははっと口を閉ざした。 どうしてこう、大切な人の深いところを察することができないのか。 ラインハルトのときはと違い、は穏やかにただ溜息をつく。 「ラインハルトとはちょうど逆だね。レーベントはお母さんが使った嘘の名前だけど、わたしにとってお母さんはレーベントであって、じゃないんだよね。その名前はじいさまと直結なの。だから嫌い。ラインハルトと婚約話が出た時も、ミューゼルになるなら悪くないとか思ったよ」 は笑いながらフォークを指先でくるくると回す。 「嘘……?父親の名前じゃなかったの?」 かつて使っていた偽名は、てっきり侯爵家の名前を使わないために彼女の母親が恋人の名前を使ったのかと思っていた。 言ってしまってから、重なる無神経な発言にキルヒアイスが慌てていようと、父親に関してはもうすっかり諦めているは、肩を竦めるだけだ。 「ひょっとしたらそうかもね。でも、たぶん違う。そんなことするくらいなら、父親のことを何か話していると思う。でもお母さんはそっちの話はさっぱりしなかったから、そんなヒントになりそうなのは使ってないんじゃないかな」 どう返事をしたらいいのか困っているキルヒアイスに、指先で挟んで回していたフォークを止めては顔をしかめた。 「でもが嫌だからって、フレーゲルになるのは冗談じゃないけどね……」 気を遣われてしまった。 自分の未熟を思いながらそれに甘えることにしたキルヒアイスは、すぐにフレーゲル夫人の響きを考えてぐったりとして同意する。 「僕もフラウ・フレーゲルなんて呼びたくない……」 二人揃って溜息をついた。 「ジークの姓も綺麗だよね。キルヒアイスってほら……『とても詩的な響き』でしょ?」 気を取り直したようにが笑いを堪えてそう言うと、どこかで聞き覚えのある話にキルヒアイスは小さく吹き出す。 「な、なるほど……」 ラインハルトとアンネローゼとの突飛な出会いは、ラインハルトがジークフリードを俗な名前と言ったことから始まった。そのときに姓は綺麗だと言ったのだ。詩的な響きだと。 懐かしい思い出の話に肩の力が抜けて、そのキルヒアイスの笑顔にも嬉しそうに笑う。 にこにこと笑顔を交わして、キルヒアイスはその流れで一石投じてみた。 「じゃあロイエンタールなんて響きは?」 「それも悪くない……」 笑いながら軽いのりで頷きかけたは、笑顔のままでどっと冷や汗をかく。 「……こともないかもしれないけど、別に、ええっと……」 「目が泳いでる」 キルヒアイスの指摘に、はそっと空になったケーキ皿にフォークを置くと両手を組んで真顔で身を乗り出した。 「雑談はこれくらいにして……今日はオーベルシュタイン大佐の話じゃなかったっけ?」 思い切り逃げた。 オーベルシュタインは、に偽の祖父の遺言書を持ってきた男だ。 そのおかげで結婚までの時間的猶予ができて、今こうしてのうのうとキルヒアイスと二人でコーヒーを飲んでいられるのだが、何しろ相手の狙いが判らない。 彼がなんのために……噛み砕いて言えば、誰がその背後にいるのか、少しでも何か判るのではないかとキルヒアイスが彼の身辺を洗っていた、その話をオーディンを離れる前にしにきた。それがそもそもの本題だった。 パウル・フォン・オーベルシュタイン。 統帥本部、情報処理課所属。直前に宇宙艦隊司令長官次席副官から転属。 長々と続くキルヒアイスの調査の結果は、オーベルシュタインの経歴書でもある。 見るともなしに流して読んでいたは、最後近くの部分で目が止まった。 「三四歳で宇宙艦隊司令長官付きなんてエリート……かと思ったら一ヶ月で更迭?」 「結論から言うと、特に誰かの閥に入っているということはないようだった」 「待って、でも」 「そう、だとすると、に協力する理由がないんだ。だからこそ、彼はよほど上手く地下に潜っている可能性がある」 キルヒアイスの表情が曇り、は手にした紙から顔を上げた。 「やな感じ……」 「そう、嫌な感じだ。少なくともブラウンシュヴァイク公の邪魔をして、リッテンハイム候を嘘で嵌めたわけだから、二大勢力のどちらにもついていないことになる」 「ちっちゃい勢力だから細々と見つからないように、派閥というより繋がりみたいなものっていう可能性?」 「ありえるね。とにかく、今の時点で判っているのはまだそれだけだ。調査は引き続きしていくことになるけど、も慎重に動いてくれ」 「うん。……あ、来週の頭に姉さまのところに遊びに行く約束があるけど」 いいのかな、とお伺いを立てるように下から覗き込まれて、小さい頃の彼女を思い出す。 キルヒアイスの後ろを着いて回っていたは、最初の頃はこうやって遊んでくれる相手の顔を覗き込んで確認していたものだ。 ……もっとも、すぐに慣れて傍若無人にもなったけれど。 キルヒアイスは懐かしさに表情を緩める。 「もちろん、それは構わない。アンネローゼ様は新無憂宮から出ることがほとんどないから、が訪ねるのをきっと楽しみにしていらっしゃる。日常生活はそのままでいいんだ。 ……僕が言っているのは、夜中に抜け出したりしないようにという話だよ」 がギクリと硬直した。 「も……モチロンです」 「声が裏返ってる」 年明けの出征の準備で忙しい中、少しでも早く話をしておこうと時間の合間を縫って一人で訪ねてきたはずのキルヒアイスは、まるで時間などあるとばかりにゆったりとソファーに座り直す。 「、ちょっと話をしよう」 組んだ膝の上に、軽く掌を合わせた両手を置いてにっこり微笑むと、は悲鳴を上げそうな表情で既に逃亡の体勢に入っていた。 |
第2部スタート……と言っても、第1部終了からまだ作中時間は一ヶ月ほどです。 お兄ちゃん(代わり)は相変わらず絶好調のご様子……(^^;) |