!どこだ、よい知らせだぞ!」
「ああ、はどこなの?早く呼んでちょうだい」
喜び勇んで駆け込んできた後見人の夫妻を胡散臭い思いで出迎えに出てきたは、その場で恰幅の良い夫人の熱い抱擁を受ける羽目になった。
「ぐふっ……お、おばさま……一体、何事ですか……」
「ああ、なんていい子なのかしら!」
乱暴に頬摺りしてくる夫人に閉口して、助けを求めてその夫を見やると夫人を引き離すことよりも今から発表することに興奮しているようだった。
「よく聞きなさい。昨日、お前と結婚がしたいと、トラウトナー伯爵のご子息が申し出てきたのだよ!」
誰だ、そいつは。
の最初の感想はそれだった。



09.彼らの不在(4)



「これは一体どういうことだろうか、フロイライン・
先触れもなしに急に訪れたブラウンシュヴァイク公爵を前に、は背後の執事を心の中で呪った。
トラウトナー伯爵家の次男からの求婚の申し込みは昨日の話。そしてがその話を聞いたのはつい先ほど。
トラウトナー伯爵夫人はリッテンハイム侯爵の実の姉にあたる。つまりはリッテンハイムの甥だ。
この速さで公爵が怒り心頭で強襲してきたのは、亡き主の政略を完遂しようと公爵に全面協力している執事が報告したからに違いない。
「どういうことと仰られましても……その話はわたしも先ほど聞いたばかりで、どういうことなのかさっぱり判りません」
「だがフロイラインには我が甥、フレーゲル男爵という立派な婚約者がいるではないか!さっさとリッテン……いや、トラウトナー伯の申し出を退けるべきではないのか!?」
は扇で口元を隠して溜息をついた。
禿げ上がった頭部が明かりを反射して眩しい、と失礼なことを考える。あの頭にコーヒーを掛ければ眩しくなくなるだろうか……。
「わたしはまだ喪中ですから、どなたかと婚約した覚えはございません」
「なんだと!?」
ソファーから立ち上がった公爵に一瞥をくれて扇を膝に置くと、湯気を立てるカップを持ち上げる。
「正式な婚約者が存在しない以上、トラウトナー伯爵の申し出は特別問題のあるものではありません。そもそもこの話はわたしが直接お聞きしたことではありませんもの。詳しい話は後見人の叔父にお尋ねください」
にっこりと微笑んでさっさと帰れと告げると、公爵は顔中の筋肉を引くつかせてテーブルを蹴る勢いで身を翻した。
「出兵から帰還した折には男爵がこちらにお伺いすることだろう。婚約者候補としてのもてなしをお願い申し上げる。よろしいな!?」
「武勲をお立てでしたら、お祝い申し上げますわ」
暗に武勲なぞ立てられるかと言いたかったのだが、公爵はその嫌味には気付かずに憤然とした足取りで執事に送られて応接室を出て行った。あの調子で後見人の家に押しかけるだろう。
「泡を食う姿が目に浮かぶわ……」
二大勢力から後見している娘を求められた喜びは一日しか持たなかったわけだ。その場で断らなかった以上、ブラウンシュヴァイク公爵の剣幕に押されて求婚をすぐに断るということはできまい。
これで後見人夫妻はどちらの勢力の機嫌も損ねないようにと、ない知恵を絞る羽目になるだろう。自業自得だ。
「でもわたしにはチャーンス」
このままフレーゲルとトラウトナーの間で対立が激化してくれれば、その間に何かしら逃げを打つ算段をつけることができるかもしれない。
「そのためにも、どうしてチョビ髭が動き出したのか情報が欲しいなあ……」
そうすれば、火に油を注ぐこともできるかもしれない。
公爵家の利益があって先に動き出したブラウンシュヴァイクはともかく、後から参加して、もし婚姻レースに負ければリッテンハイム侯爵はいい笑い者だ。そのリスクを冒してまで一体どうして、一族の者に求婚などさせたのか。
邸でじっとしていても、その情報は手に入らない。
祖父の書斎に移動して、いつくかの家から送られてきている夜会の招待状を取り出した。
「んー……なるべくハゲともヒゲとも距離がある人物って誰だ?」
どちらかの息の掛かった人物主催のパーティーに出席すると、火に油を注ぐ為にもう一方のパーティーにも出席しなくてはいけない。貴族の集まる席が好きではないとしては、夜会出席の無間地獄に陥るはめにはなりたくない。
招待状を見てああでもないこうでもないと唸っていると、メイドの一人がやっと捜し当てたように息を切らせて書斎に入ってきた。
「お嬢様、お客様です」
「またぁ?」
今日で三人目だが、後見人夫妻、ブラウンシュヴァイク公爵ときて、他に誰か来る心当たりはない。
アンネローゼは新無憂宮を出てくることはない。ラインハルトとキルヒアイス、ロイエンタールとミッターマイヤーのいずれもイゼルローンに出陣している。来て欲しくはないがフレーゲルも同じだ。とすると……残るはヴェストパーレ男爵夫人だろうか。
「どなた?」
「パウル・フォン・オーベルシュタインと仰る、帝国軍人の方です」
「オーベルシュタイン?」
どこかで聞いた名前だが、どこだったか思い出せない。
「客間?」
「はい、応接室へお通ししております」
とりあえず本人に会えばなにかわかるだろうと再び応接室に戻って、は思わず声を上げかけた。
ああ、あの愛想のない大佐殿か。
二週間前にブラウンシュヴァイク公爵の園遊会で偶然顔を合わせただけの、無愛想な男だ。
現れたに、オーベルシュタインが立ち上がって半白色の髪を揺らして頭を下げ、も会釈を返す。
「どうぞお掛けになってください。それで、このたびはどういうご用件でしょう」
向かい合って座ったが早速切り出すが、オーベルシュタインはコーヒーを運んできた侍女を見て口を閉ざしたままだ。
沈黙の中で侍女が下がり、さっき一杯飲んだばかりだから、もういらないなあと黒い水面に目を落としていると、前触れもなく一通の封筒がテーブルの上に差し出された。
顔を上げると、オーベルシュタインは無言で封筒の中を見るようにと示して勧める。
なんか言えよと思いながらも、封筒を開けてみると、中には一通の手紙が入っていた。
一目見て驚いたのは、その最後に家の家紋を象った印が押してあったことだ。
その前には祖父のサインが入っている。
やっぱり祖父の知り合いかとウンザリしながら、一体どんな手紙を預かっていたのかと目を通していて、その途中では小さく声を上げた。
「これは……」
ありえない。
手紙の内容は、正しくは手紙ではなく遺言書であった。
ありえないのは、財産についてのいくつかの事務的な内容の最後に、付け足された一文。
もしもの成人、あるいは婚姻をまたずして自分の命が失われたとき。
が二十歳を迎え成人するまで、本人の意思なく婚姻させることを認めない」
こんな遺言を祖父が残すはずがない。祖父はブラウンシュヴァイク公との繋がりを求めて手を組んでいたというのに。
「……これを、一体どこで手に入れられたのでしょうか」
「さて……」
オーベルシュタインは目を伏せたままコーヒーを口に含み、回答に一拍の間を置いた。
「亡くなられた侯爵の書斎の隅にでも、隠れるように落ちていたのでしょうな」
は遺書を手にしたまま、呆気に取られて目の前の男をまじまじと見つめ、それから遺書に目を戻した。サインは確かに祖父の字だ。
だが字を真似ることを得意とする者は、探せばいくらでも見つかるだろう。
それを生業としている者も。
「……どなたのご好意ですか?」
正しくは誰のなんの策略かという話だが、もちろんオーベルシュタインが答えるはずもない。
「先週、グリューネワルト伯爵夫人をお訪ねになったようだが……」
大切な人の名前が出て、の眉が僅かに上がる。
彼女に何かしら仕掛けるつもりなら、手をこまねくつもりはない。
「グリューネワルト伯爵夫人は、皇帝陛下の覚えも目出度くいらっしゃる。ミューゼル閣下もまた、多大なる武勲をお持ちだ」
アンネローゼとラインハルトを引き合いに出した話を、リッテンハイムからもされた。
皇帝をありがたがっていないからすれば、それがどうしたという気分だ。
皇帝をありがたがっていない、からすれば。
ではありがたがっている者からすれば?
「……ミューゼル大将は、あまり貴族の方々には快く思われてはいなようですけれど」
「陛下のご威光に頼り、グリューネワルト伯爵夫人と新たな閥を作ることになれば、確かに面白くはないでしょうな」
―――宮中のグリューネワルト伯爵夫人と若き大将と懇意とは……。
リッテンハイムはそうに訊ねた。
ようやく判りかけてきたような気がする。
貴族たち……ブラウンシュヴァイク公爵やリッテンハイム侯爵にとって、まったくの第三勢力としてラインハルトが独立を保持しているのは面白くないだろう。
だが皇帝の威光と、認めたくなくとも確かな武勲を重ねる才能が、自分と敵対する派閥に組み込まれることになるのは、更に面白くないに違いない。
リッテンハイム侯爵が、たかが一婚姻に面目を掛けるような勝負に出たのは、ラインハルトを……もっといえば皇帝の側にいるアンネローゼを、ブラウンシュヴァイク公爵と懇意にさせたくなかったからだ。家が欲しかったわけではない。
「……ですがわたしとミューゼル大将……グリューネワルト伯爵夫人は単なる友人に過ぎません」
どうしてを得ることが、その二人を閥に引き寄せることになるのか。
オーベルシュタインは溜息をついて、今度は一枚のディスクを差し出した。
「そういうことは口にされないようご忠告申し上げる。……男爵と婚姻をしたくないのならば、という話であるが」
「それは」
「先だってリッテンハイム侯爵の元へ匿名で届けられたものと同じ内容が入っております。ディスクを開くには暗証番号が必要だが、中を検めれば即廃棄するようお願い申し上げる。この家から出たものとして他人の手に渡れば、すべてが水の泡となる。暗証番号は4701224」
「ちょ、ちょっと待って!早い、早いってば。もう一回」
が慌てて地を出しながら人差し指を立ててもう一回とお願いすると、オーベルシュタインは僅かに表情を緩めた。
笑った……?
笑った、というほどでもないくらいの小さな変化ではあったが、その表情に唖然としている間にまた早口で告げられる。
「4701224」
「あ、も、もう一回」
驚いているうちに聞き逃してもう一度と言うと、今度は露骨に溜息を吐かれた。
「4701224。今度こそ聞き逃しのないよう」
「4701224ね、了解しましたよ。ところで一体どなたが今回のことを仕掛けてくださったのでしょう?」
それこそぽろりと漏らしてくれはしないかと、ついでのように訊ねると、オーベルシュタインは用事は済んだとばかりに立ち上がる。
「あなたが男爵と結ばれることを善しとしない者がいるとだけお伝えしておきましょう」


オーベルシュタインが邸を辞してすぐ、は祖父の書斎に移動するとこっそりとディスクを開く。
「4701224っと」
中に入っていたのはがアンネローゼとラインハルトの懇意であることの証拠として、捏造された通信記録や映像の数々だった。
アンネローゼと再会したのは国立劇場なのに、それ以前の日付のアンネローゼ宛の手紙の封筒が写されていたり、ラインハルトと再会するよりも前からリンベルク・シュトラーゼとの通信記録があることになっている。いかにもこそこそとしているように、夜間に集中して。
それらの数々をスライドのように記録して、最後にディスクの差出人からの一文が入っていた。

ミューゼル大将は現在、誰にも属さずただ皇帝陛下にのみ従う者ではあるが、安泰を図る術を欲している模様。身分は高くとも既に力なき家などと接触を持っていることがその証拠。侯爵家を隠れ蓑に宮中へ手を伸ばす算段をつけつつあった。しかし隠れ蓑にするための侯爵自身はクロプシュトック事件で死亡している。ミューゼル大将の考えに、を通してブラウンシュヴァイク公爵と誼を結ぶ方法が浮かんでもおかしくはない……。

「すっごい回りくどい密告」
捏造もここに極めりだ。
は記録を消去して、その上でさらにディスクの記録面に傷をつけて捨てようとした。
考え直して捨てるのではなく燃やしてしまう。万が一にも復元できるかもしれない可能性は完全に潰しておくべきだ。
つまりこのディスクを受け取ったリッテンハイム侯爵は、最後の忠告を真に受けて、ラインハルトが家を介してブラウンシュヴァイク公爵と誼を結ぶ可能性を排除したかったのか。
身の安泰を図りたいだけならば、家を隠れ蓑に独立した勢力を作るよりも、既にある派閥に相当な地位を持って入るほうがずっと楽で確実だ。おまけに計画は侯爵の死亡で頓挫したとなれば余計に。
だが派閥内で少しでも良い地位を確立したければ、自ら公爵にすりよってはいけない。
家と懇意だった故にブラウンシュヴァイク派に組した、というポーズがこの場合は重要なのだ。
わざわざプライドを曲げてまで頭を下げる必要ない、というポーズが。
……と、リッテンハイム侯爵に思わせるためのディスクだ。
「すごい回りくどい。こんなのを信じるなんて馬鹿だー。ラインハルトがこんなこと考えるわけないでしょうが……」
は灰皿の上で燃えるディスクを見ながら溜息を吐いた。
結局、ラインハルトを巻き込むことになるのか。
彼を餌に、引いてはその後ろにいるアンネローゼを、更にその後ろの皇帝を餌にして、ブラウンシュヴァイクとリッテンハイムを争わせる。
侯爵からすれば逆だろう。を餌にして、ラインハルトを釣り上げればアンネローゼが付いてくる。つまりは皇帝の好意も。
ラインハルトを巻き込みたくないのなら、ここでは縁を切るべきだ。
ラインハルトがついてくるのでなければ、リッテンハイム侯爵にとって、家を手に入れる、あるいはブラウンシュヴァイク派に渡すことを阻止する意味はない。
深く息を吐いた。
ラインハルトに相談すれば、彼はその謎の協力者のやり方に乗ればいいと言うだろう。
わざわざ偽装婚約まで持ちかけたほどだ。
が二十歳になるまでの六年は、遺言書を盾に時間を作ることが出来る。
その間、ラインハルトが公爵や侯爵の機嫌を見る芝居をする必要もない。ラインハルトは元から家を介するつもりだということになっているのだから。
そうして、二十歳になって成人したには、後見人が必要なくなる。ヴェストパーレ男爵夫人のように自らが爵位を手に入れれば、財産を自由に処分できる。
「あーあー……んー……えー………手紙書こう……」
こんな事態が進行していて、と。
相談という形を取った、許可を求める手紙になってしまうのだろうけれど、には残念ながらこれ以上の策が思いつかない。自分の身を守りつつ、家に従事する者たちをも守る、方法が。
ラインハルトに頼りたくはなかったのに。
だが既に事態は動いていて、これを収拾するためにはラインハルトたちから離れるより他はない。
九年間、この家で一人きりで過ごした。
だけど、もう友人たちと共に過ごす楽しさを、嬉しさを思い出してしまった。
……その時間を手放して、邸内という狭い空間で自己陶酔の塊とたった一人で戦う道を選ぶことが、できない。
己の無力さと、そして弱さに唇を噛み締めながら手紙を書く紙を引き出しから取り出したは、家紋入りのその便箋にふとこんな策を持ち込んだ男を思い出す。
「一体あの男の後ろにいる黒幕は誰なんだろ……」
その疑惑を解消する為には、また別の調査が必要だろう。
その前に、今はラインハルトに書く手紙の文面を考えなくてはならない。
大将の地位にあるラインハルト宛の手紙が検閲されることはないだろうけれど、書き方は一応気にしておく必要がある。
「……あいつも、前に助けてくれたし……報告だけしとくか」
二通の宛先は、大雑把に括れば同じところに向かう。
イゼルローン要塞の、同じ艦隊宛だ。
長々と事態を説明するラインハルト宛とは違い、細かな説明がいらない手紙は、相手の無事を尋ねて武勲についての社交辞令に続いて、たった一言で内容が終わるので迷うこともなかった。
―――おかげさまで婚約は引き伸ばせそうです。協力感謝。







婚約問題は解決ではなく保留ということになりましたが、かなり先にまで延ばせました。
そのために、随分と大掛かりな話になってしまいましたが(^^;)
今回の件を仕掛けた人物が判明するのは何年も経った後になります。
ラインハルトたちが出ないので、オーベルシュタインが唯一の潤いでした…。

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