先週に誘ったとおり、新無憂宮を訪ねるために迎えに来てくれたヴェストパーレ男爵夫人の車中でのことだった。 「あらあら、何か浮かない顔ね」 そっと溜息を漏らしたに、男爵夫人は閉じた扇を手で弄ぶと何か言いたげな表情で覗き込んでくる。 「そんなことはないです。姉様……じゃなくて、グリューネワルト伯爵夫人にお会いできると思うと、嬉しくて昨日あまり眠れなくて」 正しくは『忙しくて眠る暇がなくて』だ。 先週の園遊会から帰ってからというもの、いよいよ本格的になりそうなフレーゲルとの婚約をせずにすむ方法はないかと、祖父の書斎を片っ端から探ってみたのだ。 そもそも、どうしてブラウンシュヴァイク公は家と繋がりを持ちたいのか、その理由自体がわかっていなかった。 本当に一門に名門の爵位を増やしたい、それだけなのか。 うっかりそんな当たり前すぎる基本を疎かにしていたのかと呆れながら、そこに何かヒントがありはしないかと求めてのことだ。 執事は公爵やフレーゲルと繋がっている可能性があるので、あまり堂々と家捜しというわけにもいかない。自分の邸なのに夜中にライトを片手に徘徊しながらようやく見つけたのは、公爵家が手がけている軍事産業のことだった。 公爵家資本のその会社は、ブラスターやハンドキャンなどの銃火器の軍のシェアの約半数を公式に請け負っている。そのエネルギーパックに詰めるエネルギー生産に効率が良いとされている天然資源が豊富に秘められている可能性のある場所が、つい最近侯爵家所有の土地の中に、見つかったらしい。おまけにその土地は公爵家の軍事工場のある惑星とオーディンとの間の小惑星で、その惑星唯一の宇宙港も有している。 原材料を安く手に入れ兵器生産のコストダウンが図れ、宇宙港使用料など輸送費も削減も図れるこの土地は、公爵家にとってあって困るものではない。資源には限りがあるので恒久的利益ではないが、落ちぶれているとはいえ腐っても侯爵位まで手に入るのだから、放っておく手はないのも頷ける。 だがここでまたも壁にぶち当たった。 侯爵家を欲しがる理由はわかったものの、これをどう利用すればフレーゲルと結婚せずに済むのかが、やっぱり思い浮かばなかったのだ。 無駄足だったとは思いたくないが、溜息の一つも漏れる。 そんな苦笑いのを見て、男爵夫人は首を傾げた。 「そう?私はてっきり、頭の痛い婚約話で眠れないほど悩んでいるのかと思ったのよ?」 持っていたハンカチを取り落とした。 09.彼らの不在(3) 「ど、どうして……!?」 「その反応、フレーゲル男爵との話は本当なのね」 「かま掛けですか!?」 たまらず悲鳴を上げた。寝不足で判断力が落ちているにしても、あまりにも迂闊すぎる。 「そういう話をメックリンガー准将にお聞きしたのよ」 なんてことを! 悲鳴を飲み込みながら髪を掻き毟りそうになった手を辛うじて堪えて、頭を抱えるだけに留める。 「あなたもよくよく運がない人よね。貴族といってもシャフハウゼン子爵のような人もいるのに、よりによってあの貴族至上主義者だなんて。あなたには合わないでしょう」 「それはもう……少しも掠るところすらないです」 しみじみと溜め息をつくと、男爵夫人は気の毒にと呟き、持っていた扇を開いてうなだれたのうなじを軽く扇いだ。 「ミューゼル大将の出世のことならグリューネワルト伯爵夫人の口添えもできるのでしょうけれど、貴族間の結婚問題となるとそうはいかないものね……もっとも、伯爵夫人は権力を少しも行使せずに眠らせているだけなのだけど」 「たとえ何かできるとしても、伯爵夫人にご迷惑をお掛けするくらいなら、腹を括って結婚して、その後の生活で奴と攻防を繰り返す方がいくらかマシです」 「まあ、あなたって本当に彼女が好きなのね」 今のは呆れたのだろうか、感心したのだろうか。の耳をもってしても微妙な響きに聞えた。 どうせ知られているなら聞き役になってもらおうと開き直って顔を上げる。何も知らない人に一から説明すれば、見落としていることに気付くかもしれない。 「そもそもこの話はうちの死んだじい……亡くなった祖父が生前、ブラウンシュヴァイク公と口約束で取り決めていたことらしくて」 「口約束なの?らしくて、ということはあなたもはっきり聞いたわけじゃないのね?」 「はっきりとはなにも。ただ、わたしの社交界デビューってあのクロプシュトック事件があったパーティーなんです」 「……話題に事欠かない子ねえ」 同情するような口調で、だが言葉そのものはからかい気味で、表情は呆れていた。 どれが本当の男爵夫人の心情なのか。 「……とにかく、ああいう結果になったものの、元はあのパーティーは皇帝陛下がご臨席の予定だったわけです。そこにわざわざ初めて社交界に出るわたしを招待してきて、フレーゲルのおかっぱと引き合わされて」 うっかりといつもの呼び方を混ぜてしまったが、男爵夫人はキルヒアイスのように嘆いたり、ロイエンタールのように絶句したりせず、むしろラインハルトと同じ反応だった。 扇で口元を隠しながら、軽く吹き出したのだ。 「それは確かに、あなたのおじい様と公爵の間では取り決めがあったのでしょうね。きっとあなた自身はフレーゲル家に嫁いで、生まれた子供を侯爵家と男爵家、それぞれ跡継ぎにすれば、ブラウンシュヴァイク公の一門は広がることになるもの」 やはりだれが聞いても同じことを思うらしい。 「でも、クロプシュトック事件で公爵の計算には誤算が生じたのではなくて?だってあなたのおじい様はもう亡くなってしまったもの。それであなたが他家へ嫁ぐとなれば、侯爵家は一旦途絶するか、その前に適当な親類と養子縁組みをするしかないはず。侯爵家を分家が継いでしまえば、家は一応は独立を保つことにならなくて?」 「その辺りは抜かりないんです。わたしの後見人はどうもブラウンシュヴァイクのハゲのテコ入れがあったらしくて……夫婦に子供がいないんです」 修正した公爵のシナリオは、がフレーゲル男爵家へ嫁ぎ子供を儲けてすぐに、その子供をに代わって侯爵家を守る後見人夫婦が養子にする。つまり祖父の役割を後見人夫婦に置き換えただけにすぎない。 「あらまあ、じゃあ逃げ道はなし?」 「だからそれを探してるんです!幸いまだ内々のことで正式に婚約発表してないし、今なら間に合うかもしれないんです!」 力説するに、男爵夫人はふと気付いたように首を傾げた。 「あらでも変ね」 「何がですか?」 何か気になることがあるのなら、それがヒントになりはしないかとは勢い込んで身を乗り出す。 「どうしてあなたの相手にフレーゲル男爵を選んだのかしら。もっと適当な、一門の中でもどこかの家の爵位を継がない次男や三男を持ってくれば、養子縁組だとか面倒なことにはならないはずよ。婿養子になれば済む話でしょう?」 「その辺りはうちの祖父のプライドと思惑が複雑に絡んだ結果かと。あの人がまだ現役でいたかったことが一つ。子育てにも孫育てにも失敗したと思い込んでいたので、ひ孫こそ立派な後継者に育てたかったことがもう一つ。すぐに跡取りは欲しいけれど、自分で立派な跡取りを育てたいジレンマがあったんじゃないかと。想像ですけどね」 の予想に、だが男爵夫人はまだ納得がいかないようだった。 「それでも、今はもうあなたのおじい様はいらっしゃらないわ。正式に婚約発表していないのなら、フレーゲル男爵にこだわる必要はないじゃない」 「言われてみれば……」 確かにそうだ。フレーゲルは一門の中でもブラウンシュヴァイク公との血縁も近く、息子がいない公爵が可愛がっているという話ではあるが、今回それは関係ないように思える。 何故すでに爵位を持っているフレーゲルなのだろうか。 「その辺りを突っ込んで調べれば、何か出てくるかな……」 真剣に考え込んだに、男爵夫人は意地の悪い笑みを浮かべる。 「案外簡単な理由かもしれないわよ」 「わかるんですか?」 「フレーゲル男爵があなたを好きなのよ。一門の他の男に取られたくないと必死になって訴えれば、少々面倒でも公爵にとってもこれが唯一の方法ではないかしら」 「……不気味な仮説はよしてください」 寒気を覚えて腕をさすりながら、心の底からそう言ったに男爵夫人は面白そうにぱちんと扇を閉じた。 「でもこれなら、おかしなことはないと思うわ」 「おかしいですよ!もしも男爵夫人の仰る仮説に近いものがあるとすれば、あいつは単に珍しく反抗的な相手を見て屈服させたいだけに決まってます!えー、そう!珍獣!まさに珍獣を愛でたいくらいの、コレクター感覚なだけですよ、絶対!」 「珍獣……?」 いくらものの例えとはいえ、自らを珍獣と称したに、男爵夫人は目を瞬いた。 少々風変わりな少女だとしても、まさか侯爵令嬢を捕まえて珍獣となぞらえた男がいるとは思わないから余計にだ。 とうとう大声で笑い出した男爵夫人の感想は、簡潔なものだった。 「やっぱりあなた、飽きないわ!」 後宮から迎えの車が出たとき以外、つまり訪問者が自ら用意した車で後宮を訪れる場合、皇居に入ってすぐの建物で、皇宮内専用車に乗り換えることになる。 そんなに堂々とした暗殺はさすがに歴史上にもあった例しはないが、やはり防犯の観点からもこの慣例が廃止されることはない。 車から車へ、横付けされてすぐに乗り換えられるようになっている。男爵夫人と車を降りたは、そこで思ってもみない人物と対面することになった。 「そこなご婦人方、お待ちあれ」 人によっては、ここで簡単なボディーチェックを受ける場合もあるそうだが、アンネローゼと懇意のヴェストパーレ男爵夫人とその連れが止められることがあるとは思いもよらない。 驚いて呼び止めた相手を見る。 初老の男の制服は皇居に仕える者とは異なり、黒を基調にところどころに銀を配した軍服だった。 「小官は帝国軍准将ハイゼンと申します。そちらはヴェストパーレ男爵夫人と……」 社交界では有名な烈女に一礼をして、男はに向き直る。 「侯爵令嬢……で、相違ございませんな?」 確かめるような視線に、男の目的がにあると感じた男爵夫人が連れの少女を庇うように一歩進み出た。 「相違ありません。ところでハイゼン准将は一体何の御用があって、グリューネワルト伯爵夫人を訪ねるわたくしたちを呼び止められたのでしょう?」 挑戦的な男爵夫人の態度に男が鼻白みかけたところに、その後ろからやはり軍服の痩身の男が現れた。 身分でいえばここにいてもおかしくはない。だがこんなところで偶然会うとは思えない人物に、も男爵夫人も虚を突かれて言葉を失った。 「初めてお目にかかるのかな。フロイライン・」 「え、ええ……はじめまして、リッテンハイム侯」 大貴族相手にでも気後れするような繊細さは持ち合わせていないでも、突発的な事態には驚きを隠せない。 「フロイライン・は、よく宮中を訪れるのだろうか」 「いいえ、今日がはじめてです」 「お招きは……」 リッテンハイム侯爵の視線がの横のヴェストパーレ男爵夫人を撫でる。 「グリューネワルト伯爵夫人かな」 「……ええ」 どうやらなにか知りたいことがあるらしいが、それが何かはわからない。 「伯爵夫人とは懇意にされているのかな?その弟のミューゼル大将とは」 返事をする前に少し考えた。と親しくしていると言うことで、二人になにか迷惑が掛かるだろうかと思ったのだ。 だがこうして、交友の輪を広げることをあまりしないアンネローゼに招待されてたところで会った。おまけに最近ラインハルトとはフレーゲルに当てこするために隠れることなく連絡を取り合っているのだから、嘘をつく方が得策とは言えなかった。 何が目的かはわからないが、どうせその辺りは調べているのではないだろうか。 「……ええ、お二人とも、よくしてくださいます」 「宮中のグリューネワルト伯爵夫人と若き大将と懇意とは、婚約者殿はさぞかしよろこんでおられるでしょうな……?」 「婚約者?」 驚くよりも不審を覚えて、は顔をしかめかけた。フレーゲルとのことは水面下で動いているとはいえ事実としてある以上、外に漏れることもあるだろう。問題は、わざわざ確認を取ってきた、その意図だ。 「……わたくしには婚約者などおりませんけれど」 「真ですか?」 「ええ、本当に」 それらしいことを周りから聞かされているが、まだ正式に決まった話ではない。 はっきりと頷いたに、リッテンハイム候は満足気に頷いて、口ひげを指先で撫で付けた。 「そうか、それは重畳。いや、足を止めさせて申し訳なかったが、本日はこれで。いずれまたお会いすることがあるだろう」 にやりと笑い、少し離れて停めてあった地上車に向かうリッテンハイム侯爵の後ろには、先ほどたちを呼び止めたハイゼン准将が付き従っている。 二人を収容して走り去った車を見送って、と男爵夫人は顔を見合わせた。 「なんだったのかしら?」 にもわかるはずがない。 その後、考えてもわからないことは後回しだとの意見が一致して、気を取り直してアンネローゼを訪ねたは、久しぶりに本当に楽しい時を過ごした。 リッテンハイム候の突然の待ち伏せの理由がわかったのは、それから一週間の時間が経過したのちのことになる。 |
リッテンハイム侯爵といえば、ブラウンシュヴァイク公爵のライバルですから……。 |