「ミューゼル大将たちが出兵してしまって、グリューネワルト伯爵夫人が寂しがっているわ。あなたに会いたいと仰っていたわよ」
八月の初頭、ヴェストパーレ男爵夫人から新無憂宮へ訪問の誘いがあり、は喜び勇んでその提案に飛びついた。
憂鬱な仕事の後の楽しみを得ることができて、本当によかった。
ブラウンシュヴァイク公爵からの園遊会への招待があったのだ。
一年は喪に服すと言っておいたのに、半年経てばそれでいいだろうということらしい。
実際、ちっとも喪になど服していないものの、やはり言い訳として一年ともたなかった。
だけに届けられた招待状なら喪中を理由に断れたが、なにしろ後見人夫妻も招かれていて、を連れて行くと返答してしまったものだから逃げ出すわけにもいかない。
その翌週に姉様に会えるというご褒美があるのなら、数時間くらい耐えてみせましょうとも。
は涙を飲んで、当日楽しくもない園遊会に出席した。



09.彼らの不在(2)



フレーゲルがイゼルローンに行っていることがまだ救いかもしれない。
「おお、よく来てくれたフロイライン・。甥がいないのが残念だが……」
招待されたことに対する謝礼に上がると、開口一番にそう言われたのだ。嫌になりもする。
「せっかく正式に社交界へ出るようになったというのに、あの事件以来ずっと邸に篭っているようだから心配していたのだ」
「ええ……祖父の喪が明けておりませんから」
呼ぶなよ、という思い込めて、だが口調は控え目にそう言うと、ブラウンシュヴァイク公は恰幅の良い腹を揺すって小さく笑う。
「孝行な孫で、亡き侯爵も喜んでおられよう。今しばらく喪に服すつもりなのだろうか?」
「ええ、そのつもりです」
「そうか……ふむ、まあそれもよいだろう」
主賓への挨拶を済ませると、後見人夫妻はこの機を逃さぬように有力貴族たちに挨拶を欠かさない。挨拶回りに連れ回されそうになったので、人に酔ったから立派な庭園を散歩してきたいと言い逃れをして、貴族たちの輪から抜け出した。
「どうするかなあ……」
バラの花の植え込みの間を歩きながら、結い上げた髪に手を突っ込むのをどうにか堪えつつ、ぼやくように溜息をついた。
ラインハルトやロイエンタールの協力を得てフレーゲルを牽制することはできたものの、ブラウンシュヴァイク公にとっては甥のプライドなど、目的の前にはどうでもいいだろう。
つまり根本的な解決には至っていない。
やはり先手を打って、具体的に婚約や結婚の話を持ち出される前に、別の誰かと婚約してしまうしか手がないのかもしれない。
一旦その話が出てから別の相手へと逃げ出せば、皇帝の外戚の一門に対して喧嘩を売ったも同然だ。家はもちろんのこと、その婚約相手の未来もない。
とはいえ、婚約相手が誰でもいいわけではない。の好みの問題は別だとしても、ブラウンシュヴァイク公がその気ならば、婚約した相手自身を潰してしまってもいいわけだ。
あの巨大権力を持つ一門に握り潰されない相手となると、そうそういない。
当然もっとも有力な候補は現在のところラインハルトということになるのだが、できれば幼馴染みの世話にはなりたくない。借りばかりが増える一方だという気がするのだ。
あちらが貸しとは思っていなくても。
「いっそオスカー・フォン・ロイエンタール方式でいくかな?」
遊び人だと噂が流れれば、そんな娘が一門の端に連なることに名門であればあるほど誰もいい顔はしないだろう。フレーゲルどころか、他の貴族も牽制できる。
問題は、どうやって浮名を流すかだ。
「……無理だよねえ……もて方の伝授なんてを頼みたくもないし……そもそもあの男は女にもてるんであって、男にもてるわけじゃないし……」
悩みの方向が段々とズレてきていることに気がついて、今度こそうんざりした。
「爵位も門地も返還できれば一発解決なのになあ……」
考えているうちにいつの間にかバラの植え込みを通り過ぎて、邸の真っ白な外壁の前まで来ていた。すぐ脇の角を曲がって建物沿いに進めば、車庫のある方角だ。いっそこのまま自分の邸まで帰ってしまいたい。
「ふっ……それができれば最初から来てないよねー……馬鹿馬鹿しい。戻ろ」
皮肉気に頬を引き攣らせたは、溜め息をついて方向転換する。
一歩踏み出したとき、建物の脇から急に出てきた影とぶつかった。


「わっ……!?」
またか!
ラインハルトと再会したときのことを思い出したが、今度は誰も腕を掴んではくれなかった。
強かに地面に尻をぶつけて、痛みに息を詰める。
「くぅ〜……」
「失礼……」
陰気な声が聞えて、痛む腰を抑えながら顔を上げると、不健康そうな青白い顔色の男が立っていた。いかにもデスクワークタイプで、軍服を着ていなければ軍人には見えない。
髪は半分が白くなっているが、顔を見る限りはまだ若そうだ。三十代前半というところだろうか。階級は大佐。
と目が合うと、男は少し眉を動かした。その細い眉の下にある右目が自然ではない輝きを見せて、も驚いて目を瞬いてしまった。
「……失礼。義眼の調子が悪いようだ」
男が右目に手を当てて、何かを取り出す仕草をする。右目を閉じたまま手の中の何かを操作すると、再び右目に手を当てた。
男が再び瞼を上げると、もうあの不自然な輝きはなかった。
「手をお貸しした方がよろしいか?」
義眼の調子を整えた男に見下ろされ、ぽかんと見上げていたは自分が芝生の上に座り込んだままだったことに気付いて慌てて首を振る。
「け、結構です」
恥ずかしいし、情けない。おまけに義眼に驚いてまじまじと見つめるなんて、失礼なことをしてしまった。
立ち上がってスカートについた草を落としていると、男は立ち去りもせずにじっと見ている。
「……あの、何か?」
「いえ……失礼だが、本日のブラウンシュヴァイク公が催された園遊会の出席者の方でいらっしゃるのだろうか」
「そうですけれど……」
「統帥本部、情報処理課のシュトルテハイム中将はどちらにいらっしゃるか、ご存知だろうか」
そんな奴、知るか。言いかけた言葉を飲み込んでは首を傾げる。
「園遊会に出席されているのでしたら、このバラの植え込みを抜けた先の広場にいらっしゃるかと思いますけれど」
「オーベルシュタイン大佐」
男が現れた角から聞き覚えのある声がして、男の脇からひょいを顔を覗かせてみると、相手が驚いたように立ち止まった。
クロプシュトック事件が起こったパーティーで警備担当に当たっていた一人、の祖父の死を報せてくれた……確か、メックリンガー准将。
「これは……フロイライン・。オーベルシュタイン大佐とお知り合いで?」
どうやら向こうもの顔を覚えていたらしい。
「いいえ。今、シュトルテハイム中将のことを尋ねられただけです」
……先ごろ亡くなられた侯爵の……?」
小さく呟いた声が聞えて振り仰ぐと、男の義眼と目があった。
「孫ですが、なにか」
「いえ……」
「それは……当方の者のミスでフロイラインにご迷惑をお掛けしました。大佐にも、部下の不手際、大変申し訳ない」
「謝罪には及びますまい。生理現象は仕方のないこと。体調を整えておくことは軍人の基本とはいえ、准将ご自身の不手際ではないのですから」
気にするなと言っているのか、気にしろと言っているのかどっちだ。
傍で聞いていたですら呆れてうんざりしたのだから、そう返答された当人の顔が引き攣るのも無理はない。
どうやら、案内するはずだったメックリンガーの部下が途中でどこかへ行ってしまったのだろう。生理現象というからには、恐らく腹を下してトイレにだとか。
「では、どうぞこちらへ。フロイライン・はどうなさいますか?」
このまま帰りますーと言えればどんなにか楽だろう。だがそういうわけにはいかないし、いつまでも中座しているわけにもいかない。
「ええ、そろそろ戻ろうと思っていたところです。ご一緒してもよろしい?」
が振り仰ぐと、オーベルシュタインは僅かに眉を動かしただけで、唇も最小限にしか動かさなかった。
「ご随意に」
「どうもありがとうございます」
思わず扇を握り締める。愛想のない男だ。
祖父のことを知っているような素振りを見せたし、ろくでもないない男かもね、とも思う。
あの祖父と知り合いなら、お近づきにはなりたくない。
メックリンガーの先導に従って歩き出すと、すぐに思い出したように控え目に訊ねられる。
「そういえばフロイライン、過日ヴェストパーレ男爵夫人と国立劇場でご一緒になられたとか」
「ええ、でもどうしてメックリンガー准将がご存知で?」
「男爵夫人からお聞きしたのです。夫人が大層あなたのことを褒めていらしたので、また一度お会いしてみたいと思っておりました」
にこやかな視線には僅かな含みがあって、果たして男爵夫人がなんと言ったのか気になるところだった。その視線は好奇に属するとはいえ、蔑みとは逆の好意に近い好奇のようだから、嫌な感じではないけれど。
「男爵夫人とは来週に会う約束をしてますの。一緒にグリューネワルト伯爵夫人のお邸にお招きいただいたので」
「ほお、それは……」
「ああ!いたわ、。どこに行ってたの!」
甲高い声がバラの垣根の向こうから投げかけられて、後見人の夫人が飛び出してきた。
おまけにいきなり抱きついてきたのだからたまらない。
その厚塗りした白粉をこすり付けられないように、は慌てて夫人を手で突っぱねた。
「な、なんですか、一体」
「ブラウンシュヴァイク公が良いことを教えてくださったのよ。もう、どうしてフレーゲル男爵は前線などに行ってしまわれたのかしら。ね、そうなのでしょう?」
会わずに済んだと胸を撫で下ろした相手の名前を告げられて、はぎょっと目を見開いた。
招いてもらったお礼の挨拶をしたとき、今まだ喪中だとわかっているようなことを言ったから安心していたのに、どうやら後見人に婚約の話を匂わせたらしい。
油断した。
「お、おばさま、メックリンガー准将とオーベルシュタイン大佐に失礼です」
ここからが本番だとばかりに滑らかに動きそうだった舌に、人がいるところでその話をしてくれるなと慌てて遮ると、どうやら今頃他人が側にいたことに気付いたようだ。
「あ、あら……失礼しました」
「いいですか、おばさま。決定したわけではないことをあまり触れ回ると、良いことなどひとつもありません。時には相手の方にご迷惑をお掛けして、ご不興を買いますよ」
解放されたがそう畳み掛けると、夫人は僅かに顔色を悪くしてちらりと二人の軍人を見た。
メックリンガーは何のことだかわからないようというような表情を作って見せたが、そういう反応をするということは、今の話で大体の事情を察したのだろう。だが夫人は表面だけをそのまま解釈してほっとしている。には頭が痛い。
問題は、オーベルシュタインの方だった。まったく無表情で、話の意味がわかったのか、わかっていないのか、それすらも不明だ。
せっかくラインハルトとロイエンタールが協力して猶予を作ってくれたのに、下手に噂になったら二人に多大な迷惑だけをかけることになる。
どうか察していませんように。
問い質してもやぶへびになるだけで、はただ祈ることしかできなかった。







メックリンガーとようやくまともな会話がありましたが、オーベルシュタインとは初対面です。
こちらの第一印象は悪いようですが、相手はどうでしょう?

追記です。
メックリンガーはこのとき、ラインハルトの参謀としてイゼルローンに行っていました……。
こ、この連載ではオーディンにいたということで、ひとつ……(撃沈)


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