六月に入る頃、ようやくの後見人が決定した。有力候補だった人物が順当に権利を勝ち取り、その夫人のおかげでアンネローゼと再会できたにとっても、
不満のない結果といえる。何しろ、他の親戚も似たような者ばかりだったので、誰でもよかったのだから。
後見人が決まった旨をラインハルトに報せるか迷ったものの、七月の末には出兵するらしいラインハルトとキルヒアイスは忙しいようだから遠慮しておいた。
らしいというのは、具体的な出兵時期もその顔ぶれも、一応は軍事機密に値するので二人からはっきり聞いたのではなく、噂経由だったからだ。
少将から中将へ昇格を果たした予備役だったはずのフレーゲルも出陣との話もあって、幼馴染みたちを心配する反面、いくら貴族のドラ息子だからといって、さすがに直接的にはなにか仕掛けたりしないだろうとも思う。
「でもじゃあ、一体なんでわざわざ前線に……」
の疑問が聞えたわけでもないだろうが、フレーゲルの訪問を執事に告げられて、思わず肩を落として項垂れた。



09.彼らの不在(1)



「今度の出兵で、私も出陣することになった」
応接室でソファーに深く腰掛け、コーヒーカップに口をつけることなくそう切り出したフレーゲルに、は思わず胡乱な目を向ける。
「軍事機密を漏らすことは家族にすら禁じられているのでは?」
「何が機密なものか。市井の平民どもですら、出兵時期は知っている。それよりわかっているだろうな。あの成り上がり者も下級貴族も同じく出陣だが、だからといって更に他の男にまで色目を使おうなどと思うなよ」
「そもそもその二人にも色目は使ってない」
不愉快な言われようには眉をひそめるが、見事に誤解したままのフレーゲルは鼻先で笑うだけで取り合おうともしなかった。
「私をあんな下賎な者共と天秤にかけるなどふざけるにも程がある。いいか、今回限りは見逃してやる。心の広い夫を持てることに感謝しろ」
「うっわー、どうやったそこまで思い込み激しくなれるのかなあ」
ようやくカップを手にしてコーヒーに口をつけたフレーゲルは、しみじみ溜め息をついたに眉を動かした。
「何が思い込みだ!」
カップをソーサーに叩きつける男に白けた視線を向けながら、は足を組んでソファーにもたれ、わざとらしく指折り数え上げる。
「いーち、あんたを夫にするつもりはない。にー、そもそもラインハルトとロイエンタール少将を天秤になんぞかけていない。さーん、あの二人と同じ天秤に乗れるという考え自体がものすごい自惚れ」
「お前というやつはっ!」
立ち上がったフレーゲルに、はにっこりと微笑むと足を組んでいたとは思えないほど素早い動作でソファーから立ち上がり廊下へと繋がる扉に飛びつく。
「お客様のお帰りよ!お見送りを!」
!」
「あら、わざわざソファーから立ち上がったのは、お帰りなんでしょう?ご気分を害されたのかしら。せっかくですからそのまま二度と不愉快な場所へ足を踏み入れようと思わないでいただけたら嬉しいのですけれど」
痙攣かというほど頬を引き攣らせたフレーゲルは、やがて急に力を抜いて皮肉めいたやその他の者を見下すときのような笑みを浮かべる。
「お前がそうやってふらふらと男遊びができるのも今のうちだ。いいか、私の婚約者に手を出した輩の末路を思い知るがいい」
「はっ?それってどう意味……って、ちょっと……っ」
表情を強張らせたに、フレーゲルはにやりと口の端を持ち上げ、楽しげな高笑いを響かせて客間を後にした。


「言わせておけ」
TV電話の画面の向こうでラインハルトは軽く肩を竦めるだけだった。
フレーゲルの誤解が確定してしまった夜以来、はラインハルトたちと連絡を取ることを特に隠し立てすることはなくなっていた。その方が家の家人たちの目に留まるし、そのことによってラインハルトと親しいのだという情報がフレーゲルに伝わればいいとラインハルトに言い含められてのことだ。
「どうせ最初から奴がなにか仕掛けてくることはわかっている。わかっていることなら、あとは俺自身の能力さえ及べば回避することなどわけはない」
「いや、そうだけど……」
ラインハルトは気楽に言い捨てるが、少なくとも戦場でくらいは味方のはずの相手に背後を狙われるというのはあまりにも穏やかではない。
ましてや、それが自分の事情に巻き込んだせいだと思うとやりきれない。
ラインハルトの背後に立っていたキルヒアイスは、の煮え切らない返事に苦笑する。
「心配しなくても、元々男爵には目をつけられていたんだよ。ラインハルト様はなにかと男爵と反発し合っていたからね」
「……ああ、なんだお前、奴の軽挙が自分のせいだと思っていたのか?」
キルヒアイスの言葉で初めて気付いたらしいラインハルトは笑って軽く手を振った。
「それならお前のせいじゃない。そんなのは奴にとっても理由のひとつに過ぎないさ。それにクロプシュトック事件のミッターマイヤーのことでもあいつはしゃしゃり出て来ていたからな。ロイエンタールもその件で既にあの男の逆恨みを受けている。まあ……ロイエンタールに注意を促すくらいは俺もしておこう。ロイエンタールになにかあれば、お前も従姉に対して引け目ができるだろうしな」
「……うん、じゃあそれはお願いしておこうかな」
従姉のことを持ち出されて視線を逸らしながら、実はラインハルトは嘘に気付いているのではないかと不安になる。それならもっと追及されそうなものだが。
ミッターマイヤーが理不尽に投獄されていた件で、その釈放のためにロイエンタールが駆けずり回り、ラインハルトがその救援要請に応えたことは聞いている。その件にもフレーゲルが関わっていたのなら、確かにのことは理由のひとつに過ぎないだろう。
だからといって逆恨みの理由と、フレーゲル本人にとってだけは正当となるだろう報復の口実を増やしたことには変わりないが、少しは気分が楽になった。
同時に、逆恨みの理由が多いだけに心配にもなる。
「でもさ、予備役なのにわざわざ志願して前線に参加するくらいなんだから、いくら低能相手だからって気をつけてよ。ミッターマイヤー少将の件もあるなら、おかっぱ以外の敵もいそうだし」
「その辺りは慣れているさ」
「慣れてる?」
が眉をひそめると、ラインハルトはぎゅっと口を閉ざして一瞬目をそらした。
「慣れてるって、どういう意味?まさか今までにも背中を狙われたことがあるってこと?」
「そういうわけじゃない。単に貴族のバカ息子どもの相手は慣れているというだけの話だ。俺ももうすぐ兵役について五年だぞ。幼年学校の頃からも合わせればもう十年になる。奴らのあしらい方くらいはお前に心配されるまでもない」
「それはまあ、そうだろうけど……」
「それより、の方はどうなったんだい?そろそろ後見人も決まるんじゃないのかな」
キルヒアイスがさり気なく話題を変えたことに気がつきはしたが、これ以上は画面越しに何を言っても無駄だろう。
もしも嫌がらせの域を越えるようなことをされていたとしても、に出来ることは何もない。それをラインハルトとキルヒアイスもよくわかっている。
だから出来ることといえば。
「あー、うん。決まった。まあ、ろくな血縁もいないから、誰がなっても一緒だし。あとは勝手に資産を使い込まれないように見張っておくくらい。でもこれは、他の分家の連中も目を光らせてるでしょうよ」
出来ることと言えば、自身のことで心配をかけないようにするくらいだ。
「そうか。とにかく、困ったことがあれば俺かキルヒアイスに相談しろ。征旅中の場合は……姉上にでも」
「どうしようもないと思えば相談するかも。でも、姉様には迷惑をかけたりはしたくない。宮廷とか貴族の腐臭に姉様を近づけさせたくないしね!」
握り拳で力説すると、ラインハルトとキルヒアイスは苦笑する。
「その気の強い、がさつそうな態度の方がお前らしい。変にしおらしいお前は気持ちが悪いぞ」
「失礼な!」
が憤慨して見せると、ふたりは今度こそ声を立てて笑った。


その失礼な評価は、金銀妖瞳の男も同じだった。
「フレーゲルごときにどうにかされる俺ではない。お前にしおらしく謝られると気持ちが悪くなる。気にせず堂々としていろ」
ラインハルトが注意を促しておくと請け負ってくれたものの、やはり理不尽な婚約騒動に巻き込んだことくらいは直接謝っておこうと、留守を覚悟で官舎にTV電話をかけるとちょうど家にいたらしい。
応答したロイエンタールは、からフレーゲルの話を聞いて鼻先で笑うだけでそう一蹴した。
「気にするな、と言ってくれるのはありがたいんだけどさ、他に言いようはないわけ?」
「本当のことだ」
冷笑がこの男の癖だということはよくわかっているが、改めて向けられると癪に障る。
今日は一応、謝るための通信だと己を宥めすかしながら、はまったくもってらしい言い方で無事の帰還を願う言葉を口にした。
「とにかく、わたしのせいじゃなくても今回、あんたに何かあったら寝覚めが悪いから、とっとと帰っておいで」
ロイエンタールはいかにも虚を突かれたかのように目を瞬き、それから再び皮肉めいた笑みを見せる。
「寂しいのか。まだ子供だな」
「わたしじゃなくて、フローラ嬢が悲しむわよ。……少なくともラインハルトはそう思ってるみたい」
ロイエンタールはの逆襲に絶句して、口元を押さえながら目を逸らす。
「……ところでひとつ気になっていたことがあるのだが」
つい動揺してしまったことを誤魔化すように咳払いして、ロイエンタールは本当に心配しているかのような真剣な表情に変わる。
「本当にミューゼル閣下とお前はただの幼馴染みなんだな?」
「そうだよ。他にどんな関係があるっていうのさ」
「いや、友人の身を心配するにしては、少し大袈裟に思えてな……まさかそんなはずはなかろうが……女の趣味と将としての器量はまったく別物だとはいえ……」
「女の趣味に関してあんたにとやかく言われる筋合いはない!」
失礼な奴めと怒鳴りつけて、通信を叩き切った。








周りは皮肉屋ばっかりです……(本人も含めて^^;)


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