とりあえず。 は軽く咳払いをして、幼馴染みたちではなくフレーゲルに向き直った。 普段なら絶対に選択しない人選だ。 「なに人のこと見張ってんのよ、この暇人!」 とりあえず、話を逸らそう。 08.晴天の霹靂(4) だが、いくらが話を逸らしたいと願っていても、三対一では話にならない。 「私はお前の婚約者だ!その素行を監督する権利と義務がある!」 「大体、若い娘がふらふらと夜に出かける方が問題だ!」 「それも異性の元になんて……」 は味方を求めて隣の男を横目で窺った。 ところがロイエンタールは既に我関せずの姿勢を見せて、どこか遠くの家の灯りを眺めている。 「ひとりで逃げんなっ!」 腹が立って思わずロイエンタールの脛を蹴り飛ばした。うっと痛みに前屈みになった男の胸倉を掴んで引き摺り下ろす。 「お……お前は……」 「こうなったら運命共同体でしょうが!」 「お前が勝手に押しかけたのだろう!」 「あんただって家に入れてくれたでしょ!?」 その行為が余計にいけなかった。 「………随分仲がいいんだね」 もう五月も半ばだというのにひんやりと冷気さえ覚えて、胸倉を掴んで角を突き合わせていた体勢のまま恐るおそる二人で振り返ると、にっこりと笑みを貼り付けたキルヒアイスと、怒りのあまり血の気が引いて蒼白になったラインハルトと、それとは対照的に赤を通り越してどす黒く変色した顔で震えているフレーゲルがこちらを凝視していた。 「こ……こーれーはー………な、仲がいいっていうより……悪い……じゃない……?」 ロイエンタールも頷いた。とにかく頷いた。 「ああ、やっぱり仲がいい」 「なんで同意するのよ!」 「否定したらそれこそ取り返しがつかんだろう!」 否定すれば仲は悪くないと言ったことになり、同意しても意志が通じているのだとやっぱり仲がいいと言われる。どうしようもない。 ロイエンタールの胸倉を掴んでいた腕を、横から握り締められた。そのまま無理やり引っ張られて、ロイエンタールから引き摺り剥がされる。 「帰るぞっ!」 フレーゲルがどす黒い顔色のままで、車の方へを引き摺って歩き出した。 いつもなら即座に振り払うのに、フレーゲルのらしくもないあまりの早業に唖然として引かれるままに二、三歩歩いてしまう。 今度は空いている左腕を掴まれて、反対側に引っ張られた。 「貴様などと行かせるか!」 フレーゲルに対抗したのはラインハルトだ。 「いたたたっ!あ、あんたたち……っ」 右と左で反対方向に両腕を引かれては苦痛に顔をしかめる。 「が痛がっている!離せっ」 「貴様こそ離せ!人の婚約者に手を出すつもりか、ミューゼルっ!」 「痛いってば!ラインハルト、一旦離してっ!」 「なっ………」 まさかがフレーゲルを取るとは思わなかった。 離すつもりではなくて、驚きのあまり力が緩んでしまう。その瞬間にラインハルトの腕を振り切ってフレーゲルとの距離を一歩、勢いよく詰めた。 片膝を振り上げながら。 「ぐぅっ!」 短い奇声を零し、股間を押さえたフレーゲルが地面に崩れ落ちる。 あれほどフレーゲルと不仲のラインハルトですら瞬間的に思わず同情してしまうほど、迷いも容赦もない一撃だった。 「勝手に婚約者を名乗るなって言ってんでしょうが!それから断りもなく触るな!」 地面にうずくまる男に吐き捨てて振り返ると、幼馴染みの二人も顔見知りの男も、一様に顔をしかめて微妙に内股になっている。 「………あんたたちは蹴ってないでしょうに」 「……これは条件反射だ」 「……つい過去の経験を思い出すというか……」 「……鬼」 「なんだとー!」 最後のラインハルトの評価にが詰め寄っても、いつものように反論してくることもなく、わずかに逃げ腰になるだけだ。 「逃げなくても、基本的に急所攻撃なんて卑怯な真似はしないわよ!」 「……あれは?」 以外の三人の目が、同時に地面を這いつくばる男に向く。 「あれは例外。痴漢妄想男は撲滅すべし!」 力強く断言したの足首を掴む手があった。もちろん、地面と親しくなっている男の手だ。 地面に這いつくばりながら片手での足を掴み、片手では股間を押さえている。 「……………っ」 「さ・わ・る・なっ!」 フレーゲルは地面を這いながら涙の溜った目でいつもは見下ろす少女を睨み上げた。 「お前は………私のものだっ………!」 「……早く病院に行ったほうがいいと思いますわ、フレーゲル男爵閣下。打ち身と妄想の治療に」 「成り上がり者にも……下級貴族にも渡さんぞぉ!」 「だからその……もががっ」 その妄想をどうにかしろ、と言おうとしたら後ろから大きな手に口を塞がれた。 口を塞いだ張本人は、にっこりと邪気など感じさせない笑顔でいきなり妄想男の妄想が現実であるかのようなことを言い出した。 「私はもちろんラインハルト様を応援しています。ロイエンタール少将は確かに手ごわいでしょうけれど、閣下が負けるとは思えません。フロイラン・との吉事の日をお待ちしております」 いきなり何を言い出すのかと、とラインハルトが目を剥くと、いち早くキルヒアイスの意図を察したロイエンタールが天を仰いで嘆息する。 数秒だけ星を見上げていた視線を地上に戻すと、ロイエンタールは挑発的な冷笑を浮かべての口を塞ぐキルヒアイスの手を払った。 「ミューゼル閣下や卿には申し訳ないが、俺も譲るつもりはない」 なにを。 薄々と二人の会話の意味を察したが、はそれでも二人の演技に乗ることが出来ず、言葉が出てこない。 なにしろ、ラインハルトとはフレーゲルに先んじて婚約してしまえという案を出したことがあったものの、あれはラインハルトに地位と、そして不本意でも皇帝という後ろ盾があるからこそだ。ロイエンタールをこの件に巻き込むつもりはなかった。 それなのに、まさかロイエンタール自ら協力してくれるとは思わなかったのだ。 思えば、フレーゲルに疑われていると知っていながらもが家出して逃げてきたと勘違いしたときは匿ってくれようともした。 「なんで……」 呆然と傍らの男を見上げると、冷笑の上に僅かに自嘲を乗せて肩を竦める。 「気紛れだ」 気紛れにしてはあまりにリスクが大きい。何しろ相手は権門の一員だというのに。 「……確かに、ロイエンタールが相手なら不足はないな」 不敵な笑みを浮かべたラインハルトは、地面に這いつくばるフレーゲルを鼻先で笑う。 むろん、それはわかりやす過ぎる挑発に決まっているのだが、フレーゲルは見事にその挑発に乗って地面に爪を立ててラインハルトを睨み上げた。 「こ……孺子ぉ………!」 ありったけの憎しみを込めたフレーゲルに一瞥もくれず、ロイエンタールは自然な動作での肩を抱いて車の方へとエスコートする。 「送ってやる」 「え、あ……ええっと」 「同席させてもらうぞ」 「こんな夜遅くですから。男女二人きりはよくないですよね」 が戸惑っている間に、ラインハルトが後部座席に、キルヒアイスが助手席に乗り込んでしまった。 「……さっさと乗れ」 フレーゲルには聞えないように、ロイエンタールは僅かに溜息を落とした。 「なんだこの状況……」 ラインハルトの横に納まり、車が発進するとは呆然と呟いた。なぜロイエンタールの車でラインハルトとキルヒアイスに威圧されなければならないのだろう。 「ご協力感謝いたします、ロイエンタール少将」 「……いや」 にこにこと笑顔で礼を言うキルヒアイスに、ロイエンタールは僅かに間を空けてから首を振る。巻き込まれたのは確かだが、それ以前にミッターマイヤーの件でラインハルトたちを巻き込んだのだから、まるで一方的だとは思わない。 もっとも、ラインハルトと貴族たちとの軋轢はロイエンタールが厄介事を持ち込まなくてもいつかは表面化したことだろう。あれは単にそれをほんの少し早めたにすぎない。今回のこととは、問題の質が違う。 だが、それでも早まったとは思わなかった。 後悔はしない程度に、後部座席で難しい顔をしている娘が気に入っているらしい。 「……協力してくださった、と取っていいんですよね?」 探るように確認されて、運転を自動操縦に切り替えながら溜息とともに頷いた。 「事実無根だ」 「……これでやつの中では、わたしがラインハルトとオスカー・フォン・ロイエンタールを天秤にかけているということになるわけね……」 これはまた豪奢な天秤だとは引き攣りながらシートに身を沈めた。二人がああいう態度を取った以上、がいくら違うといったところで、フレーゲルは信じまい。 「後は、お前の意向を無視した婚約は、男としての価値が俺やロイエンタールに及ばないのだと認めたことになるというように奴のプライドを刺激しておけば、それなりに時間稼ぎくらいにはなるだろう。ロイエンタール、すまなかったな」 「いえ、閣下とご友人のお役に立てましたのなら、馬鹿馬鹿しい呼び名も無駄ではないようです」 若くして大将の地位にある皇帝の覚えもめでたいラインハルトと、有名な漁色家でやはり高名な用兵家でもあるロイエンタールという面子だったからこそ、フレーゲルはあそこまで焦りもしたし、またの心が傾いていると思い込んだのだ。容姿における劣等感もまるで関係なくはないはずだが。 貴族であることがすべてだと思っているフレーゲルは、自分より身分が低い男など普通は歯牙にもかけなかっただろう。だから、あの場に同時にいたというのにキルヒアイスには目もくれなかったのだ。ある意味では、この中でにもっとも影響を与えている人物だというのに。 「……ところであれでもフレーゲルは権門の一族だ。のために奴に目をつけられるほどのことに協力するとは、結局どういう関係なのだ」 質問が一巡した。 はシートからずり落ちるように背中を沈めていく。 「だからさー、ただの知人だってぇ」 「ただの知人が事実無根で権門に泥を掛けると思うか」 「十二日の晩に二人で会っていたということの話も聞かせてもらいたいね」 半ば背中をシートに埋めながら、車内の天井を見上げて軽く息をついたの述べた理由は、既にロイエンタールに一蹴されているものだった。 「月が綺麗だったから散歩に出かけたの」 バックミラーに呆れたようなロイエンタールの異なる色の瞳が映っている。そんな理由で二人が納得するはずがないと思っているのだろう。思わず苦笑が漏れる。 「散歩に出てどうしてロイエンタールの元に行く。散歩は目的ではなく口実だろう」 「ところが目的なんだよね。単に誤解が重なっただけで」 「誤解?」 キルヒアイスがバックミラーではなく直接を見ようと後部座席を振り返る。 はシートから起き上がって肩を竦めた。 「その日の昼に、ミッターマイヤー少将と一緒にじい様の弔問に来てくれてね。そこをあのおかっぱに見られたの。あいつが勝手に勘違いして、ロイエンタール少将に牽制を仕掛けてきたらしくって……たまたま会った散歩中のわたしを、やつとの婚約が嫌で逃げ出したんだって勘違いして匿ってくれました。これが十二日の夜の真相」 いろいろと真実からは離れているように聞こえるが、嘘は含まれていない。はあの晩の訪問をロイエンタールにすらあくまで偶然の散歩だと言い張っていて、ロイエンタールが邸に入れてくれたのは、ろくでもない男との婚約から逃げたと思ったからだ。 本当のことは言いたくないし、恐らく言っていいものではないだろう。ロイエンタールの心の問題においそれと触れていいはずがない。 「だから、おかっぱが誤解して、そのせいで少将も誤解して、それでもってラインハルトたちみたいに仮にも女が夜に一人歩きするなという理由で少将が家まで送ってくれて、それをまたおかっぱが見張らせていた人間にでも見られたんでしょうよ」 「そうか……それは疑うようなこと言ってすまなかった、ロイエンタール」 「……いえ、小官の評判をご存知ならば友人を心配される閣下のお気持ちはわかります」 その日の昼のやりとりを知らないラインハルトが、わざわざがロイエンタールを訪ねる理由がないということを信じるのはいいとして、夜に月見で散歩というものまで信じられてしまうとは、一体どういう娘なんだ。 一方素直に納得したラインハルトとは違い、キルヒアイスはまだ引っ掛かることがあるようで、首を傾げて視線をロイエンタールに転じた。 「少将は、亡くなった侯爵とお知り合いだったのですか?」 夜ではなく、その前の弔問の方に目が向いたらしい。 とロイエンタールは同時にぎくりとする。 「そういえば、最初は拉致されたのだとか……」 うっかりが口を滑らせたことまでラインハルトが思い出してしまい、どう取り繕うかとが忙しく脳内検索をしていると、ロイエンタールが軽く咳払いする。 「彼女は、小官と懇意の女性の親戚でして」 ははっとバックミラーに映る男の顔を見た。 どうやら自分の悪評を逆手に取ることにしたらしい。 上手い!と思わず隣のラインハルトにも見えないようにシートの下で拳を握る。 そうだ、最初の縁はロイエンタールなんかと恋人になったあの遠縁の娘のせいだった。 あのとき、オペラ座で彼女に紹介されていなければ、街中のカフェで会ったときロイエンタールはがまさか侯爵令嬢だなんて思わなかっただろうに。 ……馬鹿女と呼んだ彼女に感謝すべきなんだろうか。 あのカフェでの出会いだけなら確実に恨んでいただろうけれど、今となっては上辺を取り繕う必要がないぶん、オスカー・フォン・ロイエンタールは数少ない一緒にいても気楽な人間だ。 「そう、それでオペラ座でたまたまデート中のところをばったり会ってね。じい様と一緒に紹介されたってわけ」 親戚の恋人なんだと主張して、二人の危惧は無用なものだとしてしまう。もっとも正しくは元恋人なのだが、そこまで正直に言うのはそれこそ馬鹿者だ。 「……で、これまた偶然街で会ったわけなんだけど……スラックスにスニーカー履きの状態だったので……こういう性格だと知れてしまって……貴族の娘としては風変わりで面白かったらしいよ……。ミッターマイヤー少将とはその縁で知り合ったの」 よし、これで嘘はないとは内心大いに頷いた。嘘はないから心配してくれている二人にも後ろめたくない。 「それで、そっちはどういう知り合い?軍関係なのはわかるけど」 これ以上キルヒアイスが別の疑問を持ち出さないように、話をラインハルトたちの方へと持っていく。 親戚の恋人というのはとりあえず納得できる説明だったのか、ラインハルトも特に不満を零すことなくひとつ頷いただけだった。 「以前お前に話しただろう。ハ……ブラウンシュヴァイク公爵と事を構える切欠になった骨のある士官とその友人のことを」 「ああ……じゃあその骨のある士官がミッターマイヤー少将なわけね」 「……逆とは思わないのか?」 「イメージが違う」 ロイエンタールは確かにキルヒアイスの咄嗟のアイデアに応じてを助けてはくれたが、それはをそれなりに気に入ってることに加えてラインハルトの知己だということもあるだろう。無関係の老婦人のために義憤に駆られることがないとはいわないが、イメージ的にそれはミッターマイヤーの領分に思える。 それにしても、意外な縁もあったものだ。 「ふうん」 「なにをにやにやしているんだ」 腕を組んで頷いたにラインハルトが眉を寄せる。 「え、ああ、なんていうか、ミッターマイヤー少将がこの男と友人やってる理由がちょっとわかった気がして。ほら、ミッターマイヤー少将は常識人で真面目そうだからさ。なんでこんな不真面目な男と友人なのか不思議だったんだよねえ」 「……」 キルヒアイスが咳払いして小さくたしなめる。運転席のロイエンタールをそっと横目で伺うが、の酷評はいつのことなのか軽く肩を竦めるだけだ。 どういう知り合いなのか、訊きたいのはロイエンタールも同じらしいが、キルヒアイスとだけならまだしも、ラインハルトがそれに加わっているとなれば直接問うことはできない。 気を利かせたつもりでは自分とラインハルトとキルヒアイスを等分に指差して、簡潔に教えておくことにした。 「でね、わたしとラインハルトとジークは幼馴染みなわけよ。ちっちゃい頃の一時期平民として暮らしたからね。その時のご近所さん」 「……なるほど」 車内の天井を見上げながら溜息をついたロイエンタールに、も頬杖をついてそれに唱和した。 「世間って案外狭いもんだね」 「まったくだ」 ラインハルトの呟きに、ロイエンタールは心の底から頷く。 常識外れな娘が子供の頃近所に住んでいたというのは不可抗力だ。自分の人生を賭けてもいいと思った人物と、珍獣に見えた少女の縁がそういう種類のものであったことに安堵した。 「……まあ、先ほどの話はお芝居ですからそれでいいとして、は私だけではなく、ラインハルト様にとっても大切な友人ですから。どうか仲良くしてあげてください」 にっこりと。 横からの笑みの言いたいことは、仲良くの種類を限定したがっているようにしか思えない。 十二日の晩にどんなやり取りがあったのか、絶対に知られてはならないとロイエンタールとの心はその点でひとつになった。 「そうだな、ロイエンタール。恋人とも息災にな」 ラインハルトの好意の言葉は、とっくの昔にの遠縁の娘とは切れているなどと知られてはならないという恐れを二人に与えただけだった。 |
ようやく納得してもらえたものの……薄氷の上の信頼ですね、これ……。 |