感動のあまり不覚にも涙が滲んできた。
ラインハルトやキルヒアイスのふたりと再会してもここまで感動しなかったというのに、十四にもなってこんなところでとドレスを握り締めると、アンネローゼは優しく微笑みながら白い手袋をはめたほっそりとした掌での頬を包んだ。
「どうかしたの?」
「なんでも……た、ただ、う、嬉しくて……」
「嬉しい?」
「だ……だって……姉様にまた会え………」
後は言葉にならなかった。



07.陽だまりの微笑み(3)



「あら、グリューネワルト伯爵夫人?そんなところでどうなさったの?」
ハキハキとした女性の声が聞えて、は慌てて椅子から立ち上がると浮かんでいた涙を豪快に腕で拭った。
その様子にアンネローゼは驚いたように瞬きをして、それからくすくすと声に出して笑う。
「変わっていないのね、
その声は、にとってはまるで天上の音楽のように心地の良い響きだった。
だが憧れの女性にうっとりしている場合ではない。
グリューネワルト伯爵夫人の知人ならば、無様な姿を見せるわけにはいかないと気合を入れて、振り返ったアンネローゼの肩越しに見ると、と同じブルネット髪の女性が立っていた。意志の強そうなその自信に満ちた表情は、の母を思い起こさせる。
彼女だけだったならまだいい。彼女のお陰でアンネローゼの周囲を見回す余裕ができると、皇帝の寵姫には当然のごとく護衛の付き人が従っていたことに気付いた。
今の甘えた声を他人に聞かれたのかと思うと顔から火が出るほど恥ずかしい。
いるならいるって言えよ、と無茶な愚痴は心の中にしまっておいて、は悶える心を顔に出さないように微笑んでブルネットの貴婦人に膝を曲げて挨拶をした。
「ヴェストパーレ男爵夫人、こちらは・レーベント。わたしの可愛い妹のような子なのよ」
妹のような子という紹介に喜んでいる場合ではない。
母が名乗っていた偽名で紹介されて、どうやらラインハルトたちが自分のことをアンネローゼに教えていないのだと気付く。
「姉さ…申し訳ありませんグリューネワルト伯爵夫人。わたしは母の生家に引き取られ、今ではフォン・を名乗っておりますの」
「まあ、そうなの?」
驚いたのはアンネローゼだけではなかった。
アンネローゼの知り合いの女性も広げていた扇を閉じて感歎の声を上げる。
?侯爵家の」
「はい、そうです」
「じゃああなたが有名な侯爵のお孫さん」
「有名?」
アンネローゼが首を傾げたが、も同じ気分だ。
そんなに有名になるようなことをした覚えはない。なにしろ、正式に出席したパーティーといえば未だブラウンシュヴァイク公の元帥昇格祝いの席だけで、あれからずっと喪に服している。
「ええ、家出した侯爵の一人娘の忘れ形見だとか。必死に捜し当てた大切な孫娘だと有名よ」
捜し当てたって、連行したの間違いでは。大切な孫娘というより、大切な手駒ではなかろうか。
は引き攣りそうになった表情をどうにか堪える。
それにしても、そういう噂を本人の前で堂々と言ってみせるとは歯に衣着せぬ女性だと、改めて母と似ていると感心する。
「初めましてフロイライン・。わたしはマグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ。これでも男爵夫人の称号を得ているのよ。グリューネワルト伯爵夫人とはいい友人でいさせてもらっているわ」
「初めましてヴェストパーレ男爵夫人。わたしもお噂はかねがね聞いております」
「どうせろくでもない噂ばかりでしょう」
どんな噂であろうと笑い飛ばしてしまいそうな夫人の力強さは、には気持ちがいい。
「いいえ。男爵夫人の武勇伝は同じ女として胸のすくものばかりですもの」
「そうね、ふたりは気が合うかもしれないわね」
短い時間でが昔のお転婆のままだとわかったらしい。アンネローゼは楽しそうに笑った。
「でも、侯爵令嬢だったなんて……教えてくれたならもっと早く会えたのに」
少し不満そうにアンネローゼが零すものの、としては苦笑するしかない。
一庶民では後宮を訪れるなど夢のまた夢でしかないが、侯爵家の肩書きを持つとなれば話は別だろう。だが、社交界にもデビューしていない、面識もないことになっている格下の身分の者から連絡を取るというのは難しい。
それはアンネローゼにもわかりきっていることで、すぐに微笑んでそっとの頬を撫でた。
「こうしてここで会えたのですもの。これからは新無憂宮にも訪ねてきてくれるわね?」
「いいんですか?」
「もちろんよ、。歓迎するわ」
ここでアンネローゼとふたりきりなら間違いなくガッツポーズを取っているところだ。


どうにかその意欲的過ぎる行為を堪えたところで、こちらは最近のものを知っている声が聞こえた。
「姉上、男爵夫人。もう休憩時間が終わりますよ」
「ラインハルト」
アンネローゼは嬉しそうにの肩を抱いて、ヴェストパーレ男爵夫人の影からラインハルトにも見えるように引き寄せる。
「誰だか……」
!?」
九年ぶりに会うのことがわかるかどうか、ちょっとした悪戯のように聞こうとしたアンネローゼは驚いて目を瞬いた。
「まあ、よく一目でわかったわね。そうね、あなたはととっても仲がよかったものね」
まさか。
とラインハルトは向かい合いながら、アンネローゼに同じジェスチャーで、顔の前で手を振って無言の否定をした。
仲が良かったなどと、まさか。喧嘩ばかりだったのに。
それに、一目でわかったのはキルヒアイスだ。再会したばかりのときにフレーゲルの関係者だと勘違いしたラインハルトが見せた嫌悪感丸出しの目を、は忘れてはいない。
「なぜお前がこんな場所にいるんだ」
いかにも不釣合いだと言わんばかりのラインハルトの質問は、つい数十分前に黒髪の金銀妖瞳の男にされたものと同じだった。
どうせ音楽鑑賞など似合わないけど。
自分ではわかっていても、他人に指摘されるのは無性に腹が立つものだ。
「ピアノコンクール真っ最中の国立劇場に狩りに来るわけはないでしょう」
なぜもなにもあるかと馬鹿にしているように言うと、思い通りにラインハルトはむっと目を細める。
「わざわざこんなところまで子守歌を聞きに来るとはご苦労なことだな」
「あら子守歌?」
男爵夫人の声が聞こえると、ラインハルトはぎくりと口を閉ざした。
視線を彷徨わせ、それから取り繕ったような笑顔を向ける。
「もちろん、男爵夫人の知人の方の音色はこの無教養なやつの耳にも特別に響いたでしょう」
少なくとも音楽という分野に関してのみでいえば、ラインハルトに無教養と言われる筋合いはない。興味などないに違いないのだから。
どうやら男爵夫人の縁でこのコンクールに来ていたのかと迂闊な挑発の仕方をしたラインハルトをせせら笑おうとしたが、その知人の名前を聞いてもまるで貝のように口を閉ざした。
その人物は、ちょうどが会場を抜け出したときに演奏していたからだ。
感想を求められたらどうしようと内心焦っていると、さらに聞き知った声がラインハルトたちを迎えにきた。
「ラインハルト様、アンネローゼ様、もうお入りにならないと始まりますよ?」
ラインハルトが現れたのとは逆の方向からやってきたのは、恐らく警備の見回りをしてきたからだろう。
キルヒアイスはアンネローゼ、ラインハルトと共にいる男爵夫人ではないブルネットの女性の後姿に首をかしげ、振り返ったその少女に驚いて足を止めた。
、どうして!?」
ラインハルトならともかく、キルヒアイスにまで絶句するほど驚かれるというのは少々効いた。
どうせ芸術には縁がないとはいえ、立ち尽くすほど驚くことはないじゃないかと恨みを込めた視線を送るが、まだ勘違いしたままだったアンネローゼは別の意味で驚く。
「あら、ジークもすぐにわかったのね。少しだけ自信がなかったのはわたしだけね」
少し落胆したアンネローゼに、三人は慌てていいわけをする。
「ち、違うんです姉様!」
「こいつとは少し前に会っていて!」
「ブラウンシュヴァイク公のパーティーの席なのですが」
「まあ」
驚いたように扇を口に当て、アンネローゼはにこりと弟とその親友に微笑みかけた。
と再会していたのなら、どうしてわたしにも教えてくれなかったのかしら」
何となく威圧感を覚える微笑に、と男爵夫人が横目でお互いを見て、そして同時に一歩壁際に寄った。
ラインハルトとキルヒアイスは廊下で立たされた生徒のように姿勢を正す。
「も、申し訳ありません……」
「こ、こいつのことなど姉上のお耳にいれるまでもないことだと考えていましたから!」
「なんだと?」
素直に謝ったキルヒアイスとは違いに、人を貶すような言い訳をしたラインハルトにが低く呟く。
「まあ、ラインハルト。あなたはわたしが可愛いと語らうことを邪魔しようというのですね?」
「そのようなことは決して!」
ラインハルトは慌てたように、更に言葉を重ねた。
「ですがこいつはとにかく口が悪いので、姉上の気分を害することになっては、と」
「人を病原菌みたいに!」
が憤慨して足を踏み鳴らすと、いつの間にか叱られる位置からの横に移動していたキルヒアイスが宥めるように肩を撫でる。
「そんなに怒らないで。言葉の綾だよ」
「でも傷付いたー」
これが芝居だと、この場の全員にわかっていても構わないのだ。
が隣に立つキルヒアイスの腕に抱きついてにやりと笑った表情を隠すと、アンネローゼの笑顔がラインハルトに向けられる。
それはあたかも、陽だまりの中で……冬のプールに飛び込んだときのような。
「ラインハルト……あなたは、女の子にそんなことを言うのね?」
それは、かつての日々でのおやつ抜きを申し渡されたときと同じ響きだった。
「あ、姉上!?」
ここで男爵夫人や護衛の付き人がいなければ、ラインハルトはもっとわかりやすく動揺したに違いない。
子供の頃から本当に懲りないラインハルトに、はアンネローゼからは見えないところから、キルヒアイスの腕に取り付いたまま勝利の笑みを見せた。
アンネローゼは元々、年下で女の子のの味方なのに、自ら掘った墓穴なのだから同情の余地もない。
「……面白いのね、あなたたち」
はヴェストパーレ男爵夫人の感心したような呟きに、笑顔で答えたのだった。







幼馴染みの三人は全員アンネローゼに頭があがりません。
そこを上手く可愛がってもらう人と、正直すぎて怒られる人(^^;)


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