例え音楽に興味があろうとなかろうと、来てしまった以上は演奏を聴かなくてはいけない。
まさか眠ってしまうわけにもいかず、欠伸を噛み殺しながらは心の中ですべての演奏者に謝った。
「もっと有意義な人に聞いてもらいたいよね……」
義務みたいに言う、こんな奴が来てごめんなさい。
「あらなにか仰って、?」
隣に座っていた夫人に声を掛けられて、が愛想笑いで誤魔化したときにちょうど演奏が終わった。
「すみません夫人、わたし少し……」
トイレと偽って退屈な席から遁走した。



07.陽だまりの微笑み(2)



「っ………ふぁ………」
ロビーに出ると、次の演奏が始まったためか人影はまったくなかった。
それをいいことに凝った肩を解すように大きく伸びをして口を隠すことなく大きく開けて欠伸をする。
「やってらんなーい。ホント、一種の拷問だよ」
ボックス席なので演奏の途中だろうと戻ることもできるけれど、にその気はない。
同席者に気を遣った振りで少なくとも今の演奏が終わるまでは骨休めをするつもりである。
「限界だよ、限界」
テラスに出て風にでも当たれば少しは眠気が治まるかと、やはり眠気覚ましに腕をぐるぐると振り回しながら廊下を移動する。
「……今だれかに会えばごまかしなんて効かないな」
さすがに自由にしすぎたかと腕を下ろしながら横の窓を見ると、ちょうど駐車スペースの近くだったらしい。居並ぶ車の中から人が出てくる姿見えた。
「今さら到着?大遅刻じゃない……羨ましい」
今からなら聞く演奏は全予定の3分の2ほどだ。きっと今の人は演奏が聞きたかったに違いないから、できるものなら代わって欲しかった。
以外のだれも思いそうにない感想を漏らして、街灯の下に移動してきたその人物の顔を見て、奇妙な縁に驚く。
「あらま、ひょっとしてデート?でも軍服か……」
じーっと見下ろしていると視線に気付いたのか軍服の顔見知りが振り仰いだ。
過たずを見つけたらしく、驚いたように目を瞬かせたかと思うと、軽く上げた右手の人差し指を引いて降りてくるように指示を出してくる。
「……人を召使いか下僕と間違ってるんじゃないでしょうね」
少なくとも侯爵令嬢の敬称で呼ばれる少女に対する扱いではない。
そこで待っていろという意味を込めて、やはり軽く手を上げて合図をしたの行動も、少将という地位につく男に対するようなものではなかったが。


「何故お前がここにいる」
「なーんか聞いたことのあるセリフだ」
ほんの数日前に聞いたばかりのことと同じ言葉を、今度は不審ではなく、奇異を込めて言われた。
「何故もなにも、ここは国立劇場で現在の催し物はピアノコンクール。目的なんざひとつしかないでしょうに」
金銀妖瞳の長身を見上げると、男は皮肉げな笑みを浮かべてを促して歩き出す。
「その歳になって子守歌を求めるか」
「………ふん」
即答できなかったことがすべてを雄弁に物語っていた。
一台の車を示されて後部座席に入ると、運転席にやはり見知った男が座っている。
「どうだったロイエン……!?」
「あら、ミッターマイヤー少将。お久しぶりです」
「ああ久しぶり……おい、どういうことだロイエンタール」
助手席に乗り込んできた友人に気難しい顔を向けて詰問すると、当のロイエンタールは軽く肩をすくめた。
「似つかわしくない場所に暇を持て余した手駒が歩いていたのでな、少しは役立てようかと思っただけだ」
「おい………」
色々な意味で気になる発言ではあったが、は小さくうめいただけで反論の言葉は飲み込んだ。連れがいるのであまり悠長にしていて帰りが遅くなれば不審がられる。
「ふたりとも軍服ということは任務中?民間人を巻き込んでいいのかな、栄えある帝国軍少将閣下」
「栄えある臣民ならばホール内を歩き回ることくらいはして見せろ。今の時間はまだ演奏が続いているはずだな。お前のように不釣合いな場で居心地悪く逃げ出したような不心得者を他に見なかったか?」
「いちいち腹立つな!劇場内のスタッフ以外は見なかったけど」
「そうか。ならばいい。帰りに」
助手席から劇場の館内マップを渡される。
「そこのDからGの通路を通って劇場スタッフ以外の人間や不審な置き忘れがあれば、先ほどの窓から合図を送れ」
「おいロイエンタール」
バックミラーに映ったミッターマイヤーは、眉間に皺を寄せて賛成しかねる表情を見せた。
「軍人というものは、私服であってもその気配は消せないものだ。その点この馬鹿面なら警戒されることもあるまい。スタッフと見ても不信な動きがあればやはり合図しろ。合図だけでいい。なにもするな」
「………民間人に協力させる態度じゃないよねー、それ」
はマップに目を通してからロイエンタールに突き返す。館内案内と同じ物であったから、ロイエンタールたちが区切り分けたエリアだけ確認すれば十分だ。
車の中で待機。駐車場で不審者がいないかの監視、そして劇場内の視察となれば要人警護あたりだろうか。あたりをつけて予想するが、そう外れてはいないだろう。
ロイエンタールが本当にの動きにわずかなりとも期待しているわけはない。
ちょっとした保険のようなものに過ぎないに違いない。もしも要人警護だったとして、本当に襲撃の危険の可能性があればむざむざ民間人をそこに近づけるはずがない。
あとはミッターマイヤーに言ったとおり、素人丸出しの小娘ひとりならばもしも襲撃者が中にいた場合に、プロ相手には絶対にするはずのないボロを出す可能性ということも、限りなくゼロに近い確立で考えているくらいのものだろう。
言ってみれば、には散歩コースを定められたくらいの意味しかないだろうし、ロイエンタールにしても待つだけの無為な時間にまったく無意味ではないくらいのことをしておいた程度のものだ。
「了解了解。何かあれば扇を開いて、何もなければ扇を閉じて窓を通過する」
開く必要などないだろう扇をひらりと翻して、今度はひとりで劇場まで戻った。
そうして、やはり警備の軍人以外の人間を見ることなく、扇を閉じて指示された窓を通過した。


それに意味があったのは、プログラムのちょうど折り返しの休憩時間になってからだった。
ロイエンタールに言われた場所はボックス席のさらに奥まった座席近くであったから、その向こうの階段を使う以外に通る必要はない。つまり、要人がいるなりの警備がされているのなら、再びがうろうろと動けば不審人物扱いされるのはの方だ。
警護の軍人は、演奏時間に廊下を散歩していた少女の顔は覚えているだろう。
近づけなくても、遠めで見ることくらいはできる。
少将閣下自らが外回り担当なんて、一体誰の警護だろうとロイエンタールたちいわくのDエリアに差し掛かる辺りの椅子に腰掛けて、演奏中に座り続けて凝った足を摩りながら時間を潰す。にあんなことを言ってみるくらいだから、こんなところにいてもまったくおかしくない人物なのだろう。
ちょっとした好奇心に過ぎないから、その貴人の顔が見えても見えなくてもどちらでもいい。
「宰相閣下あたりだったりして……」
あの老人なら、確かに身分はかなり高いし、出先に厳重な警護がつくのはわかる。
ボックス席近辺の客はやはりというか、あまりうろうろと貴人自ら出歩かないので、休憩時間でも人はまばらだった。
「これは……ここでも十分目立つような……」
まさかいかにも貴族の子女というが職務質問されることはないだろうと思いながらもちょっと乾いた笑いを漏らしたとき、心地の良い優しい声が耳朶に流れ込んで来た。
「――――?」
咄嗟に声が出ない。
どうしてこんなところに。
だけど、この方なら確かにとても身分の高い貴人だ。
夢ではないかと摩っていた足に爪を立て、痛みを覚えてそろりと顔を上げる。
けぶるような金の髪を結い上げて、清楚な白いドレスに身を包んだ麗しい貴婦人がそこにいた。
もう九年も会っていない。
けれどその面差しにも声にも、かつて憧れた人の思い起こさせるものが確かにあった。
「ア……」
声が喉につっかえたように上擦って、ごくりと唾を飲み込む。ゆっくりと震える唇が動いて、掠れながらもようやく音を搾り出せた。
「アンネローゼ姉様……?」
「まあ、やっぱりなのね?」
の呟くような声を聞いて、柔らかく微笑むその美しさに後光すら見えたように錯覚する。
母に女手ひとつで育てられたは、母性の強い女性に対する憧れが強いことを自分でも自覚している。
向いに住んでいた金の髪の天使のような少女はいつも優しく、悪戯をしたときは叱って、まるで本当の姉のようにを可愛がってくれた。本当に、とても大好きだった。
その弟とは喧嘩をしてばかりだったが、そちらとは少し前に再会している。あのときは偶然に驚いたばかりでこんなに感動したりはしなかったのに。
かつて幸せだった頃、陽だまりの中で見た微笑が、今目の前にあった。







ようやく姉上の登場です。
アンネローゼがいるということは、この場にはあのふたりも当然…。


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