「ベーネミュンデ侯爵夫人がご懐妊ですって!」 「それも陛下の御子ではないそうよ」 わざわざ人の後見人争いに来てまで、噂話に勤しむとはなんと暇人たちめ。 は黙々と焼き菓子を摘みながら心の中で悪態をついた。 もっとも、今ごろ喧々諤々と角を突き合わせているのは彼女たちの夫で、祖父に先立たれた可哀想な親戚の娘の話し相手にきたその細君たちが暇なのは仕様がない。 07.陽だまりの微笑み(1) 貴族の噂話は馬鹿にならない。時には重要なものが含まれていることもある。 ましてや、話題が幻の皇后陛下とすら呼ばれたベーネミュンデ侯爵夫人となると、内容がおめでたいものでないだけに不穏といえる。 ただ、話をしているご婦人方はあくまで他人のスキャンダルを面白可笑しく語れればそれでいい。そこから政治や経済などに繋がることを考えるわけではなくて、興味本位だけで人の私生活を覗いているにすぎない。 呆れはするものの、こうやって下世話な噂話をする人間がいるからこそ、家に閉じ篭っていては手に入らない情報がにもたらされることも事実だ。 一通りの焼き菓子を食べるとコーヒーを一口飲んで、はふむと考えながら指先でソーサーの淵をなぞった。 こんな頻繁に宮廷に出入りしているわけではない者の間でも噂に上るくらいならば、侯爵夫人の失脚はもはや避けられないだろう。噂が真実か嘘かは問題ではない。 こんな噂を流されるという事態が問題なのだ。 今や皇帝フリードリヒ四世の寵愛はグリューネワルト伯爵夫人にのみ注がれているとはいえ、侯爵夫人の権勢が完全に消えたわけではなく、むしろ依然大きな力を有していた。 ライバルとなるはずのアンネローゼが、後宮の奥でひっそりと慎ましく暮らしているからこそではあるだろうけれど、それもこれで終わりだ。 皇帝の寵を失った女性を後宮から追い出すには、真実など必要ない。嘘でいいから醜聞を立てればいい。皇帝も殊更に庇うことはないだろう。 ふっと皮肉な笑みが漏れかけて、慌てて口元を引き締めた。 これだから男って。 はベーネミュンデ侯爵夫人との関わりはなにもないが、彼女が男の欲の被害者だろうということはほとんど確信だった。次から次へと女性を捨てて、そのくせ皇帝などという大きな権力を有してその毒気にだけは当たらせて。 きっと、自分の父もそんな男だったに違いない。 会ったこともない、顔どころか名前も知らない父親を重ねて、辟易しながらまた焼き菓子に手を伸ばした。 何も知らないのだから、どんな男かも知らないが、立派な男性で事情があって妻となる母や子供のと共に暮らせなかったのなら、母もなにか言っただろう。 だが、母は一度もに父親について話そうとしなかった。 話せないような男だったに違いない。 例えばロイエンタールのような漁色家だったとか。 具体例を思い浮かべてしまって、焼き菓子を喉に詰めてむせ返った。 酷く咳き込むに、親戚の婦人たちは目を丸めて噂話がぴたりと止まる。 「あらあら、大丈夫かしら?」 隣に座っていた某夫人が背中を摩りながらレースのハンカチを差し出してくれた。 「へ………へいき………です……」 ハンカチを押し返し、自分の持っていたハンカチを口元に当てて首を振った。 せっかく大人しくしていたのに、すっかり台無しだ。 ロイエンタールがの父親ということは、さすがにありえないだろう。それでは彼が十四歳のときの子供ということになる。ロイエンタールの乱行がいつから始まったのかは知らないが、尊敬する母が犯罪的行為を行っていたとは……いや、当時の母は十五歳だった。遥か年下の少年をたぶらかしたということにはならない。 それに、十四歳の幼年学校生だか学生だかが相手となると、母が必死に相手の名前を隠していたことにも頷ける。 「いや、でも、やっぱりさすがに違うだろ……」 いくらなんでもそれは飛躍しすぎだと、自分を落ち着けるように小さく呟く。 せっかくオスカー・フォン・ロイエンタールの印象も悪くなくなったのに、変な言いがかりはよそう。 「、なにか仰って?」 「いいえ?」 ようやく呼吸も落ち着いて、は某夫人に笑顔の安売りで否定した。 「少し疲れましたの。お部屋に帰っても、よろしいでしょうか?」 これ以上なにかボロを出す前に退散してしまおうと切り出すと、夫人は頬に手を当てて首を傾げた。 「あらそうね、ずっとこんなところにいてもあなたにはつまらないわね。いいわ、もう部屋におさがりなさいな」 現在、もっとも後見人に近いのは彼女の夫だ。だが『おさがりなさい』とこられると鼻白むのも無理はない。 が早々に席を立つと、夫人はいいことを思いついたと言わんばかりにパチリと扇を閉じてを引きとめた。 「そうだわ、。あなたあの事件からずっとこの邸に閉じ篭っているでしょう?」 表向きにはそうなっている。実際には、ひとりでこっそりと何度抜け出したことか。 「どうかしら、気晴らしにわたくしとピアノ鑑賞に出掛けませんこと?」 冗談でしょう? そう返したくて、慌てて口を閉ざした。 芸術的感性というものがほぼ皆無だと自負しているにとって、祖父との行事でもこの手のものはある意味拷問だった。 「ええ、でもわたし……」 「いいこと、。侯爵のことやあんな事件に巻き込まれてショックだったことはわかるけれど、だからこそ外に出て気分を変える事はとても大事なのよ?」 は声を大にして叫びたかった。 小さな親切大きなお世話。 残念ながら、亡くして悲しめる祖父でなければ、あの事件でショックで寝込むほど繊細な神経は持ち合わせていない。 「いいわね?十七日の夕方よ。迎えに来てあげるわね」 「ええ……?」 人の意見も聞かず決定されて、思わず嫌そうに声が上擦ったが、夫人はまったく気にしていない。 だがは、十七日当日にこの約束に感謝することになる。 十七日、は仮病で誘いを蹴る気満々だった。 自分の部屋で音楽を聞いているわけではないのだから、大口を開けて鼾をかいて眠るわけにはいかない。 やはり拷問だ。 迎えが来る前に、頭痛や発熱が酷くてと連絡を入れておこうと部屋から出ると、ちょうど騒ぎが起こった。 「お待ちください、男爵!」 一階の入り口から狼狽した悲鳴のような執事の声が聞こえる。 何事なのかと訊ねるより先に、執事を引き摺りながらフレーゲルが階段を這いずるように昇ってきた。 切り揃えられた髪がモップのように手すりを擦っていて、は思わず吹き出しそうになって慌てて両手で口を押さえる。 形式を重んじようとするふりが得意なはずなのに、髪を振り乱して目を血走らせている姿は笑って済むものではないのだが、可笑しいものは可笑しい。 「何事ですか男爵。騒々しいこと」 どうにか笑いを押し込めて、わざと癪に障るように馬鹿にしたように鼻先で笑いながら扇を広げると、フレーゲルは人の家の執事を爪先で蹴り倒してに向かって駆けてくる。 仲の険悪な執事がどんな目に遭おうと同情する気も起きないが、よくこうも簡単に人を蹴り倒せるものだと呆れる。 もっとも。 「!お前という女は!」 駆けつけたフレーゲルの平手を避けると、脚を引っ掛けて廊下に転がすくらいならば、も平気でするのだが。 ついでに、偶然を装ってヒールで手の甲を強かに踏みつけておくことも忘れない。 「ぐわっ………!」 「あら、ごめんあそばせ」 一度踵に体重を乗せてから、足を上げた。甲にはしっかりとヒールの跡がついている。 「くっ…………!」 相当痛むに違いない手を押さえて起き上がったフレーゲルの恨めしげな視線を、朗らかとすらいえる笑顔で受け止めた。迫力不足で怖くもなんともない。 「落ち着いて下さい、男爵閣下。まるで子供の癇癪のようですわ」 わざと落ち着けないように、上から見下ろして馬鹿にした口調で言うと、神経が焼き切れるのではないかというくらいに、フレーゲルの眉間に浮き出た血管が怒りに蠢く。 「こ、この……っ……この……売女っ!!」 「売女!?」 切り返しの言葉にしても、さすがにそれはどうだろう。 を怒らせるというよりは、唖然とさせることだけには成功した。 「う………」 廊下の向こうから、男の呻く声が聞えて、床でうずくまる男から視線を転じる。 執事は気を失っていたらしく、頭を振りながら起き上がった。 「………フ、フレーゲル男爵!?」 そして、の前で膝をつくフレーゲルに目を止めて、真っ青になって駆け寄ってくる。 「どうかなさいましたか男爵閣下?」 は、なんにも知りませんという顔をして一歩、二歩と後ろに下がる。 フレーゲルは踏まれた跡を手で隠し、怒りと憎しみを込めた目でを睨み続けるが、それを執事に言いつけたりはしなかった。 十歳も年下の小娘に転ばされて踏まれた醜態をせっかく見られていなかったのだから、わざわざ自分の口からは言えまい、とがたかを括った通り。 「どう足掻こうと……お前は私の妻になるのだ!」 「……妄想癖をお持ちのようですね」 執事の前なので比較的控え目に言ったのに、ふたりに揃って睨まれた。 「あ……あの……」 いつの間にかフレーゲルと執事の向こうに、顔なじみのメイドがひとり立っていた。 「あら、ハンナ。どうかした?」 はひとり、何事もなかったかのようにふたりの脇から顔を出してにこりと微笑む。 険悪な雰囲気に怯えていた少女は、主の優しい笑顔にほっとしたように握り締めていた拳を降ろした。 「お嬢様、シュッテッツェル夫人がお迎えに参られましたけれど……」 「あらいけない。それでは男爵、先約がありましたので失礼します」 断るつもりだったピアノ鑑賞を口実に、はその場から逃走を果たした。 |
……またフレーゲルしかいません。 (名前だけの出番のロイエンタールはとんでもない容疑を掛けられてるし^^;) |