小さく低い呻き声が上がった。
「離せっ」
悲鳴のような呻きも、乱暴に振り払った行動も咄嗟のことだろう。
だがそれだけに、にも対処ができなかった。
ベッドの上に膝で立っているだけの不安定な状態で、軍人の力で振り払われては耐え切れない。
「のわっ!」
当然の結果として、頭から床へ転がり落ちた。



06.きっと、それだけで(3)



「大丈夫か」
さすがにまずいと思ったのか、上から降ってきた声には微量ながらも心配の色が混じってはいた。いたが。
「………顔面スライディングして、大丈夫だと思うか!?」
は床に両手をついて起き上がり様に激突した額を指差した。赤くなっている自信なら満々だ。
「……すまん」
ロイエンタールはさっと顔を逸らしたが、それは自らの軽率な行動を反省した居たたまれなさからではなく、笑うことを誤魔化すために違いない。
現に肩が微妙に揺れている。
「あんたねー………」
「お前にはそういった方が似合いだな」
からかうように手を振って追い払う仕草をする。この話は終わりだとでも言うように。
「……そうやって、予防線を張って、一体なにに怯えているわけ?」
ロイエンタールの手がぴたりと止まった。
不快を露にしたように、眉間に皺を寄せてを恐ろしい形相で睨み付ける。
だが、どれほど顔に不快を貼り付けようと、目を吊り上げて睨み付けようと、そこに力が無ければ意味が無い。
ズキズキと痛む額から手を降ろして、は鼻で笑う。
「睨みつけたって無駄だよ」
埃を払うようにして服を叩きながら立ち上がると、目の前の男の胸倉を掴んでその顔を引き摺り降ろした。
「怒るか、逃げるか、はっきりしないとね」
「……本気で目を抉り出したくなった」
ロイエンタールは不快指数最大値という顔での手を振り払う。
「それはもったいない。本当に抉り出したら、わたしにくれる?」
勢い良く振り返ったその目には、正気を疑うというようなそんな意図が見てとれた。
「そんな蒐集癖があったとはな」
「人体の一部とか?ないない。そんな気持ち悪いもの、ないようちには」
は肩を竦めて否定した。もっとも祖父の趣味をすべて把握していたわけではないので、知らないところにあるものまでは保証しかねるが。
「今、その口から言った言葉を忘れたのか?お前こそ若年性痴呆だろう」
まさかここで昼間の悪口が返ってくるとは思わず、は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
思った以上にロイエンタールにはダメージが深かったらしい。
どうにか吹き出さずにすんで、痙攣しかけた喉を整えるために咳払いをひとつ入れる。
「蒐集癖なんてない。ただ、本当に惜しいと思うから言っただけ。抉るなら綺麗にね。潰さないように」
「悪趣味な……」
「人の話聞いてる?蒐集なんてしてないよ」
「ならば今の発言はなんだ!」
「あんたのその、青と黒の目を惜しんでんでしょうが!」
大声の後は、静けさが落ちた。
「………なるほど」
ロイエンタールは嘲るように笑う。
笑っているのは、に対してなのかロイエンタール自身に対してなのか。
恐らく本人にもわかってはいないだろう。
「この、左右の色が違うところが侯爵令嬢にはお気に召したと見える」
「なに言ってんの?青も黒も珍しい色じゃないでしょうに。それなら、わたしの紫の方がまだ希少だよ」
「一対となっていないことが、物珍しいのだろう?」
「そんなの抉り出した後ならわかんないでしょうが」
あんた馬鹿?とまで付け足すと露骨に顔を顰めた。
「抉り出した他人の目を保存しておくというお前の方が、よほど悪趣味で阿呆だ」
「他人の目?オスカー・フォン・ロイエンタールの目だから意味があるの」
当然ロイエンタールは怪訝そうな顔をする。
別に、鹿狩りをして首を剥製にして置いておくようなつもりではない。
「だって綺麗でしょう?」
はもう一度胸倉を掴んで男の顔を引っ張り降ろすと、その目を間近で覗き込んだ。
「あんたのその不遜でいて揺らいでいる、苛烈なのに恐れている、諦めているくせに足掻いてる、その目が綺麗なの。だから欲しいと思っただけ。まあ、もっとも」
中腰は苦しかろうと手を離すと、呆然とする男の胸をベッドの方へ思い切り押し出す。
はかなり力を込めたつもりだったが、ロイエンタールは弛緩していたからこそ、ふらりとベッドに腰を落した、その程度だった。
力の差をしみじみ感じながら、座ってようやくほんの少しだけ見下ろせる男の目を、また覗き込んだ。
「あんたのものでなくなったら、この目にもなんの価値もなくなるのだろうけれど」
頬を両手で挟み、視線を外せないように固定する。
瞬きもできるだけ控えて、にぃっと不敵な笑みを見せた。


長い沈黙の果て、ようやく漏らされた言葉は、失礼極まりないものだった。
「可笑しな女だ」
「あんたに言われたかないよ。自分で自分の目を抉りたいだなんて、やっぱりマゾヒストじゃないか」
「本当に、そんな真似をするわけがなかろう」
「あら残念?それともよかった、と言うべきかしらね」
「手に入れられなくて、残念か?」
「だけどその光が失われないのは喜ぶべきかもねってこと」
顔をがっちり固定していた手が振り払われて、今度はもそれに従って手を離すと男の隣に腰を降ろした。
「どんなに珍しい色だって、どんなに不思議な組み合わせだって、それが生きてなければ意味がない。誰かのものであることに意味がある。唯一だから、美しい」
「やはり蒐集癖だろう、それは」
はひょいと肩を竦めて首を傾げた。
「なら、人物ごと蒐集しないと。だって誰かのものでなくなったら、その時からそれはただの肉の塊だもの。目だけじゃない。鼻も耳も」
傍らの男の大きな手を、勝手に取って天井にかざす。
「この手も指も、切り取ったらただの肉片。でもこうしてあんたの身体に繋がって、血が流れて、そうしたらこれはあんたのもの。それは手であり指である」
重ねた手は暖かい。血が流れ、生きている証。
されるがままだらりと指を開いていた男の手が小さく動いた。力を込めて握っていたわけではないので、するりとの手を逃れる。
そのまま降ろすのかと思っていたら、の手の甲を覆うように下から重ね、指を絡められる様子を見上げるはめになってしまった。
「とてつもない口説き文句だな」
男の手に指をがっちりと絡め取られると、押しても引いてもびくともしない。
なぜこんなことに。
ロイエンタールの掌は、の手など軽く隠してしまうほど大きい。
男の手の隙間からちらりとだけ見える自分の指の欠片を眺めながら、どうしてだかラインハルトとどちらが大きいだろうとぼんやりと思った。
肩を掴み、動けないだろうと言った、あの手と。
「これだから、もてる自信のある奴は始末が悪い。自惚れ過ぎ」
いい加減に手を挙げていることに疲れてきて、横の男をそっと窺ってみると、ロイエンタールは興味深そうな表情で見下ろしている。
やっかいな墓穴を掘ってしまったかもしれないと思ったのは確かだが、その目の色を見ると、まあいいかという気になる。
「口説いてないし。ただ思ったとおりを口にしただけ」
生きた輝きを持つ、異なる色の双眸は目に鮮やかな美しさだった。
「ならお前は天然の毒婦だな。男を誘い、騙す、どうしようもない女だ」
「言いがかりも甚だしい」
「自覚がないのか。ますます有害だな」
「あー……有害物は取り扱い指定を受けないと触っちゃいけないんだよ」
今度はの方が話を打ち切りたくなった。何故か居心地が悪い。
喧嘩腰で言い合っていた方が遣りやすかったと辟易しながら、空いていた方の手でロイエンタールの手を叩いた。
「今からそんなことでは、先が思い遣られるな」
それほど強く叩いたわけではないが、ロイエンタールは素直に手を離してくれた。
ほっと息が漏れかけて、なんとなくそれは悔しいので安堵の溜息を飲み込む。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
こういう時は逃げるに限るとが立ち上がると、後ろから腕を掴まれる。
「帰る?お前は一体なにをしに来たんだ」
まだ家出説を捨てていなかったらしい。
「あのねえ………」
別に家出をしてきたわけではないと説明しようとして、はたと気付く。
では目的はなんだと問われると、答えようがない。
ロイエンタールの目を見て、やるべきことはやったという達成感はあるのに、衝動的行動の理由を言葉に直すことができない。
敢えて直すなら。
オスカー・フォン・ロイエンタールに会いにきた。
確実に誤解を与えてからかわれる。
目を泳がせて、十分に迷ってから、は既出の言い訳で強行した。
「ただの散歩だって言ったでしょ」
ロイエンタールはの横顔をじっと見ていたが、やがて軽く溜息をつく。
「送ってやる」
「え!?い、いらない」
「曲がりなりにも若い娘がこんな夜道をひとりで歩くな」
ロイエンタールは上着を片手に引っ掛けると、の手首を掴んだまま、引き摺るように部屋を後にした。


なぜこんなことに。
本日二度目の困惑で運転席でハンドルを握るロイエンタールをちらりと横目で見て、はそっと息をついて窓から外を眺めた。
自分の迂闊さでロイエンタールの傷を抉ったらしい、そのフォローに来た……のだと思う。現にロイエンタールの目に力が戻るのを見ると達成感を覚えた。
目的を果たせた充実感を味わいながら帰るつもりだったのに、妙に居心地の悪い空気の中で沈黙のドライブ。
なぜこんなことに。
「これなら昨日のジークの説教ドライブの方がまだマシかな……いや、あれも十分に辛かった……」
腕を組んでぶつぶつと小さく不満を漏らすは、隣の男が笑いを堪えながら自動操縦に切り替えたことに気付いていない。
故に、ふと気付くとロイエンタールがハンドルを握ったまま横を向いて肩を震わせている姿が目に入った。
「なにやってんの!?前、前!」
ロイエンタールは無言でハンドルから手を離し、シートに身を沈めた。
ハンドルは人の手を借りずに走行を安定させて動いている。
「……それならそれで、それらしくしてよ」
「お前が不審な行動ばかりしているから、運転に集中できなかった」
「くっ………」
今日の行動は、格好からして不審者だという自覚があるには反論できない。
「……お前は運がいい」
なんのことだと顔を上げれば、いつもの皮肉な笑みを少し和らげてロイエンタールはを見下ろしていた。
「俺は官舎暮らしだ。あの家には滅多に寄らない」
最初のの懸念は正しかったのだ。今日でなければ、居もしない男の実家の周辺を無意味にうろついて、空しく帰るはめになるところだった、と。
だが、邸で対面していたような重苦しい表情が消え去ったロイエンタールを見ていると、それはよかったと自分の幸運を認める気にはなれない。
「本当に運がいいのはそっちじゃないの?」
「そうかもしれんな」
無言か、鼻先で笑われるかと思ったら、素直に肯定された。
だから。
は再び居たたまれなくなって窓の外に視線を移す。
だから、素直なオスカー・フォン・ロイエンタールは気持ちが悪くて背中が痒くなるのに。
「たかが言葉だ」
振り返る気になれず窓に映ったロイエンタールを見ると、あちらもの方を見ずに腕を組んで前を向いていた。
「たかが言葉、それだけなのにな」
何のことだと聞き返す必要は無かった。
がロイエンタールの古傷を刺激したのはただの言葉だ。
そうして、今夜ロイエンタールの何かに影響できたのも、たかが言葉。
窓の外を見たまま、の唇がゆっくりと上がる。
「きっと、たかがそれだけでも……必要なときもあるんだよ」
「それだけでいいとは、単純なことだ」
自嘲する素直でない男に、ようやく調子を取り戻したようにも笑う。
「でも、悪くないよね」
「ああ、悪くないな」
流れる風景の中で見えた月は、確かに美しい円を描いていた。







たかが言葉、されど言葉。
予想以上に仲良くなったように見えますが、多分まだふたりは話し合いの
余韻があるのだと思います。ふたりとも基本は皮肉屋ですから。


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