ロイエンタールが身体を起こしてベッドの端に腰掛ける。 は思わず安堵に虚脱してしまったことを悟られないように、ゆっくりと起き上がりいつの間にか捲り上げられていたシャツを下ろした。 「処女だなんて、なんの根拠があって」 余裕がなかったことを誤魔化しておこうと憎まれ口を叩いてみると、すっかりと復活していつもの調子を取り戻していたロイエンタールは鼻先で笑う。 「年齢などと野暮なことは言わん。今までのお前の男との距離の取り方、それがすべてだ」 「女嫌いの漁色家だっているのに」 「嫌いだからこそ、女の臭いが鼻につく」 「なるほどね」 まったくもって納得だ。 06.きっと、それだけで(2) 「わかっててここまでするかなあ」 は呆れて首を振ると軽く男を睨み付けた。 「別に俺はこのまま抱いても構わなかったのだが」 だがロイエンタールは楽しげに笑ってを見下ろす。 の虚勢など、とっくにわかっていたのだろう。 なんのために我慢したのだと考えて、やり込められないためだったと思い出す。 だがこれでは成功したのか、しなかったのか。 押し倒されたせいで崩れた髪を解きながら、溜息をついた。 「結婚前に火遊びをしたいというのなら、付き合ってやらんこともない」 なんのことだと怪訝そうにロイエンタールを見返すと、軽く肩を竦める。 「フレーゲルがなにやら牽制してきたが?」 「……ああ、そういうこと。それで家に入れてくれたってわけ!?」 眩暈がしそうなほど呆れ果てて、額に手を当てると深く溜息をついた。 あれほど関係ないと言っておいたのに、邸を追い出された後さっそくロイエンタールに牽制しておいたということか。 そうして、あんな男との結婚に嫌気が差して、が逃げ出したと思っていたのか。 一時の現実逃避場所を提供したと。 「失礼な!違うってばっ!!あのおかっぱが独走してるだけ!」 「おか……フレーゲルの勇み足だと?」 「まあ、正しくはおかっぱと奴の血縁のハゲ公爵とうちの執事だけど」 「………それでは決定だろう」 ハゲ、と小さく呟いていたことは黙殺する。 「なんで?わたしは抵抗する気満々だし、婚約を決めたうちのじいさんはもういない。まだ正式な婚約発表だってしてない」 「それで抗える流れだと思っているほど、お前は愚かではないと思っていたのだがな」 がむっつりと黙り込むと、ロイエンタールの大きな手がブルネットの髪をくしゃりと撫でた。 「まあ、好きなだけここにいろ」 反論しようとしたは、その言葉の奇妙さに気付く。 「……困るんじゃないの?」 目を瞬くに、ロイエンタールは不敵に笑う。 「逃げ込んできて今更なにを言う」 「だって、おかっぱはともかくハゲに睨まれたら不味いでしょうに。現役軍人」 「現役でなくとも不味かろうな」 軽く顎を撫でて、その答えはあまりにも人を食ったものだった。 「露見しなれば問題ない」 「露見するんじゃないの?だっておかっぱは疑ってるのに」 「まあな」 「昼間きっぱり否定したんだけどなあ……」 呆れて溜息をつきつつ頭を掻く。ロイエンタールは軽く眉を上げた。 「奴も、女の嘘を信じるほど愚かではないということだ」 「嘘じゃなくて、真実ですけど」 じろりと睨みつけると、ロイエンタールはさもおかしそうに笑う。 「では疑惑を真実にするか?」 「だから冗談じゃない。大体、逃げたなんて一言も言ってない」 「ならばなぜ、ここにきた」 きた。 は緊張に軽く唾を飲み込んだ。 これがきっと、今夜の最大の山場だろう。 なんと答えれば、この会話を続けることができるだろうか。 ロイエンタールは、興味がなくなればを放り出してさっさと眠ってしまうだろう。 焦って下手な言葉を言わず、じっとロイエンタールのその金銀妖瞳を覗き込んだ。 軽口の応酬が途切れ、覗き込んでくるアメジスト色の瞳に怯んだのか、わずかに揺らぎが見えた。 気のせいかもしれない。だけど感じる。 青と黒のそれは、突然前触れもなく逸らされた。 目を合わせたくないのか。 それは、十分に彼が揺れている証拠でもあった。 ならば、予想を外す答えを。 「なんとなく」 とてつもなくいい加減で曖昧な言葉ひとつで、あの衝動のすべてを表現した。 逸らされた瞳が、またに戻される。 「なんとなく、だと?」 「そう、なんとなく。だから言ったでしょ。月が綺麗で、つい遠出したって」 「こんなところまでか?それも、俺の実家の側をうろうろと。何処の馬鹿なら信じるというのだ」 ロイエンタールの双眸が釣り上がり、先ほどまでらしくもなく優しげな言葉を掛けていたことが嘘のように苛烈な光を込めてを睨みつける。 「そう言われても」 は堪えた様子もなく肩を竦めて、更に距離を詰めて間近でその瞳を見た。 「それとも、あなたに逢いに来たと、そう言うと思った?」 ロイエンタールは小さく舌打ちして、を乱雑に振り払うと立ち上がる。 「子供のくせに。俺を誘惑するか」 「それは自惚れだね」 ロイエンタールの背中に嘲笑を叩きつけるが、男が振り返ることはない。 苛立ちを隠しきれていない背中に、はそっと目を細めた。 やはり、目を見られることに嫌悪がある。 それがなぜかは知らない。 昼間も目の話で過剰反応していたことを考えれば、金銀妖瞳という左右の色が違う瞳になにか嫌な思い出でもあるのだろう。ありえそうな話だ。 「わたしはね、逃げないって決めたの。戦うって、そう決めた」 「帝国を二分する大貴族を相手にか?」 はっと吐き捨てるように笑う、その背中に力はない。 「そうだよ」 それでもが怯まず答えると、思わずといった態で振り返った。 は、悠然として見えるように意識した笑顔を作る。 「わたしを世間知らずと笑う?そうだね、笑うことは簡単でしょう。嘲るのが普通だろうね。だけど自分から諦めたくない。もう、二度と」 ロイエンタールを正面から見据えたまま、ゆっくりとベッドの上に膝で立つ。 「わたしはもういくつものことを諦めてきた。貴族としての生も、その先にある精神的な死も。だからこそ、もう諦めない。どんな困難なことでも諦めない友人と、再会したから。自分の卑小さに腹が立った」 貴族として生きて死ぬくらい、どうした。 精神的なすべてを殺すことで、飢えることも寒さに震えることもなく生きていけるのだ。 諦めざるを得なかったのだと自分を慰めながら。 今ならそう言える。心からそう思える。 あの、灼熱の蒼氷色の瞳と再会したから、そう言える。 ラインハルトはどうだろう。 最愛の姉をこの世の絶対とすら思える皇帝に奪われて、それでも諦めなかった。 このままでは姉を取り戻せないというのなら、世界そのものをひっくり返してでも取り戻すのだと、立ち上がった。 ただ無力を嘆き、諦めて、楽な道に逃げた己とは雲泥の差。 「こんなことであいつに友達だなんて言ってもらえる資格、わたしにはない。少なくとも、恥ずかしくてわたしが名乗れない。あいつに恥ずかしい人間ではいたくない」 「口先ではなんとでも言える」 「まったくだね。それには一言もない。でもだからって、諦めて泣き崩れていたら一歩も進まない。なにも始まらない」 それはあの友人たちから学んだ、最大のこと。 諦めれば楽だ。それは十分に知っている。だから最初は投げ出した。 でもあの友人たちは諦めない。諦めると言ったを叱咤してまで、なにか方法がないかと探そうとしている。共に戦ってくれるとい言うのだ。諦めてなんていられない。 立ち尽くすロイエンタールの端整な顔に細い手が伸びる。 反射的にわずかに身体を反らして逃れようとしたが、意図したわけではないそれはあっさりとの手に捕まった。 両手で頬を挟んで、がっちりと目を覗き込む。 「それなのに、逃げているあなたが、わたしを嘲笑うの?」 短く息を呑む音が聞こえた。 |
いつもふざけてはいても、心の底ではちゃんと幼馴染みたちを尊敬しているわけで。 |