そうして。
「なぜお前がここにいる」
同じ日に、似たような言葉をお互いに叩きつけ合った。



06.きっと、それだけで(1)



どうにも振り払えない罪悪感に苛まれて、どうするつもりなのか自分でもわからないまま、はロイエンタール家所有の邸の前に立っていた。
会ってどうするのだと自分で自分を嘲笑っていたのに、夜になると昨日と同じく邸を抜け出していた。
こうも度々脱走していると、いつかそれが露見しそうだ。ラインハルトたちと会うためにも、自重しなくてはいけない。
それなのに。
結構な距離を歩いて来て、閉ざされた門の前で呆然と闇に佇む邸を見上げた。
つい勢いで来てしまったものの、どうやって訪ねようと、ここに至って気が付いたのだ。
闇に紛れて邸の敷地から出るために、今日のいでたちは黒いハイネックのシャツと黒いスラックス。ちょっとした不審者だ。
これで侯爵家縁の者だと名乗っても、到底ロイエンタール家の執事が信じて主人に取り次いでくれることはあるまい。
無駄足だったかと諦めきれない思いで門の前をうろついて唸っていると、背後から人の気配を感じた
不審者がいると憲兵を呼ばれたかと蒼白になって逃げ出そうとしたら、襟首を掴んで引き摺り戻される。
「ぐぇっ!」
「やはりお前か」
聞えた声は、まさしく目的の人物には違いなかったのだが、こうしていきなり出くわすと心の準備ができていなかったために大いに焦る。
「なぜお前がここにいる」
自分でも明確な答えが出ていない質問に、的確に答えられるわけがない。
逃げ出そうにも猫の子のように襟首を掴んで吊り上げられている。大体、ここで逃げるとなんのために危険を冒してまで邸を脱走したのか。
なにか、なにか言い訳を!
焦ったの口からは、本人ですら呆れる言い訳が飛び出した。
「散歩!」
こんなところまで?
ロイエンタールはの自宅を知っている。どうやったら、夜の散歩でこんな場所までやってくるというのだ。
自分でも呆れ返る言い訳に、上からどうしようもなく、むしろ同情すらしているような溜息が聞えた。
「馬鹿か、お前」
それはもう、まったくで。
ロイエンタールに馬鹿にされて、腹が立たなかったのはこれが初めてだ。
心からその意見に賛同しながら、は空を指差した。
「月が綺麗で、つい遠出してしまいました」
今更理由の変えようもない。


「これは……お帰りなさいませ、オスカー様」
ロイエンタール家の執事は、主人の帰宅に目を丸めた。
黒のシャツと黒のスラックスといった、いかにも怪しげな風体の小娘連れで帰ってくればだれでも驚くに決まっている。
だって、こんな人間を前にすれば不審者だと思うだろう。
「これは気にするな。すぐそこで拾っただけだ」
わたしゃ捨て猫か。
抗議したくとも、この不審者ぶりで邸に入れてもらえたことに感謝こそしすれ、抗議するのは間違いだろう。は溜息をぐっと堪えて力なく笑った。
「食事は済ませてきた。明日の朝だけを頼む」
ロイエンタールはそれだけ告げると、については何ひとつ説明も指示もせずに歩き出す。
が困惑して執事を見上げると、やはり戸惑ったような視線とかち合った。
なんの言葉も掛けられなかったので、お互いに処遇に困る。
なにがしたいのかわからないにしても、ともかく話をしなければここまで来た意味がない。
緋色の絨毯の敷かれた階段を昇り始めた広い背中を、小走りで追いかけた。
執事は呼び止めなかったし、ロイエンタールも何も言わない。
ついてくるなとも、ついてこいとも。
先に階段を昇っりきった背中が右に曲がると、階段を上がった先の壁に掛けられていた肖像画がの目に映った。
ダークブランの髪と、青い目の美しい女性。
その目は絵画だからなのか、ひどく硬質で冷たい印象だった。
だれかに似ていると首を捻る。答えはすぐに出た。
オスカー・フォン・ロイエンタールの面影があるのだ。
たしかロイエンタール家は彼の父一代で成り上がったはずだから、先祖ということはないだろう。彼の母か祖母か、そのあたりに違いない。
同じ気の強そうな女性でも、自分の母とはどこか違うと思いながら絵画を見上げていると、廊下の向こうからドアを開ける音が聞えた。
置いていかれたと慌てて追いかけるが、ロイエンタールは親切なのか、他に意図があるのか、ドアを閉めていなかった。
が部屋の中を覗き込むと、軍服の上着を脱ぎ捨てているところだった。
これは、恐らく入ってもいいということなのだろう。
そう判断して部屋に入ると、勝手に引っ張り出した椅子に座って着替え終わるのを待つ。
部屋には読書用の小さなテーブルと椅子とベッドしかなかった。
生活感のない、質素な部屋だ。
ぐるりと部屋を見回して、見るべきものがないので仕方なしに目の前で平気で着替えている男の背中を眺めていた。
視線は感じているだろうに、一応年頃の娘を前にして、見るなとも言わないのはどういうことだ。
無断で部屋に入ったにも関わらず、は頬杖をついてそんなことを考えた。
言われなくても自分で目を逸らせばいいのかもしれないが、そこまで気を遣うような相手だとは思えない。
そんなことより、どう話を切り出すか。
大体、根本的な問題として、一体何がしたくてここまでやってきたのかということ自体がにもわからないのだ。
着替え終えたロイエンタールは脱ぎ捨てた軍服をクローゼットに仕舞うと、無言のままでベッドに上がってブランケットの中に潜り込んだ。
「って、ちょっと待て!」
思わず声を上げて呼び止めると、ロイエンタールは面倒そうに顔を向ける。
「なんだ、まだいたのか。執事に言えば部屋を用意しただろう」
「別に泊まりに来たわけじゃ、ないんだけど!?」
「家出人ではなかったのか?」
「家を捨てて逃げるくらいなら、とっくの昔にケツまくって逃げてるよ!」
思わず怒鳴りつけて、起き上がりながら肩を揺らして笑う男を前にからかわれたことを思い知る。
「というより、なんで当主が家出しなくちゃいけないのよ」
すっかり嵌められたことを誤魔化すように咳払いすると、ロイエンタールは目を細めて笑う。
「当主、か。執事にいびられて泣いて逃げたのかと思ったのだが」
「わたしは泣かない」
執事との確執はどうせ見破られていると思ったから、気にせずに聞き流す。
「泣かない。泣いても、意味なんてない」
「女はすぐに泣く」
「だからそれが偏見だって言うんだよ。すべての女が同じわけじゃない」
は椅子から立ち上がると、ベッドから足を降ろして腰掛けている男の横に近寄った。
よく見てみると、ロイエンタールはシャワーひとつ浴びておらず、髪もセットしたままだ。
焦るまでもなく、やはり初めから眠るつもりなどなかったに違いない。
「一を知ったからって、それが十すべての把握にはなんないでしょ。自惚れるな」
座っている状態でようやく少し見下ろせる男に上から言ってやると、急に腕を掴まれる。
あっと思うまもなく、ベッドの上に引き摺り倒されていた。
「知った口を利く前に、男の寝室へ入り込むことの不用意さを覚えておくべきだったな」


怖くないといえば嘘になる。
男女の違いについて、幼馴染みに叱られたばかりだ。
そうでなくとも、目の前の男は均整の取れた長身と鍛えられた筋力を持っている。
本気でないことは間違いないと思うが、それでも緊張しないわけにはいかなかった。
男の手が、シャツの下に滑り込んで脇腹を這う。
こんな子供を本気で抱こうとする男ではない。
だが、腰に触らせても指一本動かせずに硬直していたラインハルトとは、明らかに手の動きが違った。
指先で、掌で、生々しいくらいにの身体の線をなぞる。
片手はベッドに縫い付けられているが、片手は自由なままだ。これひとつとっても、ロイエンタールが本気ではない事は明らかだ。
無論、片手で抵抗したところで簡単にねじ伏せられることは確実だが、恐らく軽くでもが抵抗すれば、ロイエンタールはこの性質の悪い冗談を止めるだろう。
怯えさせて生意気な口を利けなくする。
それだけだ。
まんまとその手に乗ってたまるかと、はシーツを握り締めて衝動を耐えた。
「なぜ抵抗しない?」
「宿代の請求かと思って」
思わず男の腹を蹴りつけたりしないよう必死で自分を押さえ込む。
同時に、力が入って硬直してしまわないようにも、気をつけて。
例え抵抗を我慢したところで、ドクドクと激しく脈打つ鼓動は聞えていることには違いないが。
大丈夫。絶対にそんなことにはならない。
緊張で口の中が干上がっている。
そんなことにはならない。
だけど、目が見たい。
男の目を見れば、この考えに確信が持てる。
「泊まるつもりはないと言わなかったか?」
「じゃあ入場料?」
目が見たい。
そう思うの考えがわかっているのか、それとも昼間のことがまだ効いているのか、ロイエンタールは顔を上げない。
の首筋に顔を埋め、ぬるりとした舌が這う。
ラインハルトとキルヒアイスがこんな場面を見れば、さぞや怒り狂うことだろう。
ラインハルトだからこそあれは懲らしめだったけれど、まだ会ってたった三回にしかならない男の心情を、本当に見誤らずにいる保証がどこにあるのだと、きっと怒る。
ふたりの友人を思い浮かべることは、かなり有効だった。
一度だけ深呼吸をして。
は自由の利く左手で、男の頭部を抱え込むようにダークブラウンの髪に手を掻き入れた。
間は、一瞬。
「処女の癖に、どこでそんな仕種を覚えた」
身体を起こしてを見下ろした目には、やはり苦笑めいた呆れの色しか見えなかった。







自信はあっても、見た目はかなりの綱渡りでした。
幼馴染みふたりの激怒ぶりが目に見えるよう……。


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