ラインハルトの目は、いつもまっすぐ前を向いている。迷いなどない、強い視線だ。 ジークの目は、穏やかに凪いでいるのに、ときどき油断なく周囲を見回している。 なにかを守る者の目だ。 そしてオスカー・フォン・ロイエンタールの目は。 05.立ち入り禁止区域(2) がふたりの幼馴染みを思い出して、やっぱり目が一番その人を表しているとぼんやりと考えていると、目の前の男が笑った。 「目か………」 ついうっかり幼馴染みたちを思い出していたが、この男の前で気を抜くとは迂闊だと慌てて顔を上げたは、言うべき言葉を失った。 平然として見せているが、ロイエンタールの目の奥が揺らいでいる。 と視線がぶつかると、わずかに顔を伏せた。先ほどの言葉が効いているのだろう。 「ならば、この目を抉り取れば、お前になにも読み取れはしないのだろうな」 ロイエンタールの手袋に包まれたままの大きな手が、顔を覆うように目の上に。 悲鳴を上げかけて、は席を立ってテーブルに乗り上げた。 「なにすんの!?」 とっさに男の手首を掴んで、テーブルの上に引き摺り下ろした。 俯き加減だったロイエンタールは、心底意表を突かれたようにを見る。 「お前こそ、なにを」 は両手で掴んで引き摺り下ろした腕に体重を乗せるようにして身を乗り出した。 ロイエンタールは腕を掴まれるままに、逆らわない。 抵抗するつもりがないというよりは、の奇行を純粋に驚いているのだろう。 「……ああ………えっと……」 面食らったロイエンタールの表情に、は気が抜けてどさりと落ちるようにソファに戻る。 「ごめんなさい。貴方の手が」 一瞬だけ感じた恐怖と自分のとった行動に呆れて、どっと疲れを覚えて、半ばソファに埋もれながら、片手で目を覆う。 そうだ。ロイエンタールも、ただこうしようとしていただけなのに。 「貴方の手が、目を抉り出そうとしているように、見えて」 呆れられるかと思ったら、沈黙が部屋を支配した。 いつまで経っても罵声も呆れた笑いも聞えてこないことに不審を覚えて、視界を覆っていた手を降ろすと、途方にくれた子供のような目と、視線がぶつかった。 は降ろしかけていた手もそのままに、異なる色の一対のそれに引き込まれるように、静止した。 傷ついた子供のような黒い瞳と、淋しげに揺れる蒼い瞳。 今までのあの不遜な態度はどこへ行ったのだと言いたくなるような瞳の揺らぎに、何をどうしたいのかもわからないまま、そっと手を伸ばす。 テーブルの上に置き去りにされたままだったロイエンタールの手に指先が触れそうになった刹那。 「お嬢様」 ノックの音に、文字通りが飛び上がった。 ロイエンタールとミッタ−マイヤーは同時に素早くドアへと視線を走らせる。 はそれに目を瞬いた。 そうだ、この場にはミッターマイヤーもいた。 なのになぜ、彼はこのおかしな雰囲気の中でただ黙っていたのだろう。 の奇行に驚くなり、珍しくそれをあげつらうことのなかったロイエンタールを気遣うなりの様子も見せず、じっと息を潜めて。 それを不思議に思いながらも、同席者に断って執事に入室の許可を出す。 入ってきた執事は実に嫌な名前を挙げた。 「お嬢様、フレーゲル男爵がお見えでございます」 「うえ、最悪……」 ぼそりと小さく呟いて、不快を露にしてしまった顔を広げた扇で隠す。 「しらばくお待ちいただいて」 「いや、我々こそ長居した。フロイライン、どうぞお気を落とされぬよう。失礼する」 驚いたことに、完全に話の途中だったはずのロイエンタールが急に席を立つ。 それに僅かに遅れたが、ミッターマイヤーも同じく立ち上がった。 は少々慌てた。 フレーゲルに会いたくないこともあるが、なによりもこのまま不完全燃焼というのは気持ち悪い。 「あの、少将………っ」 どう引き止めたものかと考えながら腕に触ろうとしたら、露骨に震えて身を引かれた。 拒否された。 どこにショックを受けたのか、自分でもわからないままにはゆっくりと手を引きながら、頭を下げる。 「祖父のために忙しい中をありがとうございました」 今日の弔問は終了した。 終ったのは、今日の話だけ? ロイエンタールたちが部屋を辞去し、フレーゲルの待つ客室へと移動しながらは腑に落ちないもどかしさに閉じた扇を握り締める。 別にロイエンタールと気まずいまま別れて、このままフェードアウトするように二度と会う事がなくなっても、痛くも痒くもない。むしろ、歓迎すべきことのはずだ。 なのに、どうしても湧き上がる不快が消えない。 傷ついた子供のような黒い瞳と、淋しげに揺れる蒼い瞳。 あの目を見たのは、たった一瞬の事だ。ロイエンタールはすぐに目を伏せた。 フレーゲルの待つ客室へ移動すると、ソファの背もたれに腕を掛けて自宅のように寛ぐ男に眉をひそめる。 だが、機嫌が悪いのはフレーゲルも同様だった。 「なぜこの邸にあの男がいるのだ」 吐き捨てるように口を開き睨みつけてくる男を、は立ったまま見下ろした。 「随分とお行儀がよろしいのですね、フレーゲル男爵」 の冷めた視線に、フレーゲルは不愉快そうに顔をしかめて舌打ちする。 「なぜあの下賎な平民と下級貴族がこの邸にいるのかと聞いている」 「……それがロイエンタール少将とミッターマイヤー少将のことだというのなら、祖父の弔問にきただけよ。祖父との関係は、知らないわ」 底から湧きあがる不愉快さに、は心の中で今日ロイエンタールに抱いた感情に訂正を入れる。 最後にロイエンタールに感じたあれは、不快ではない。 罪悪感だ。 言葉を選び間違ったのか、それとも話の内容自体がまずかったのかもしれない。 確かなのは、ロイエンタールが無意識に、あるいは意図的に封鎖している領域に土足で踏み込んだのだろうという予感だけだ。 あれほどプライドの高そうな男が、馬鹿にしているはずの小娘の前で揺らいで見せるなどそうありえるはずはない。 馬鹿にしているからこそ、不意打ちだったのだろう。あんなにあからさまに動揺して。 「座れ。お前のご主人様の前だ」 立ったまま対応するに、フレーゲルは鼻に皺を寄せた。 「わたしはこの家の当主。あなたは、お客人。主人とはだれのこと?」 「ふん。侯爵令嬢から、侯爵夫人か。だがそれも直に夫を迎える。名実ともに『夫人』となるわけだな」 癇に障る、嫌な笑い方だ。 にやにやと下卑た笑みを冷ややかに見下ろして、は殊更冷たく突き放した。 「そうね。どなたが侯爵となるかは、また別の話だけど」 フレーゲルから薄笑いが消えた。 「それは、あの下級貴族のことを指しているのか?」 「……だからそれはもしかしてロイエンタール少将のことじゃないでしょうね!?」 なぜその名が出てくる。はわずかに眩暈を感じた。 最初のような不愉快さがなくなったからといって、ロイエンタールに好意的になるだけの理由はまだない。 そんな状態で、そんな相手との仲を、不愉快な男に疑われるというのは、それこそ愉快な話ではない。 不愉快な男と睨み合いを続けていると、ふとロイエンタールの評判を思い出した。 今はつい先ほどの印象が強く残っていたからわからなかったが、ロイエンタールは有名な漁色家だ。流した浮名は数知れず。の従姉もそのうちのひとりだ。 そんな男が、関係のあるはずもないこの家にいたことに、今日は最初から焦っていたのだ、この目の前の男は。 納得すると、同時に脱力するような情けなさを覚えて思わず額を押さえる。 連れもいただろうに。 思い込んだらなにも見えないのか、平民の存在というものがこの男には考察に入れるに値しないのか、ともかく馬鹿馬鹿しい言いがかりだ。 別にロイエンタールとの仲をこの男に疑われても、には痛くも痒くもない……むしろ好都合だとすらいえるのだが、さすがにそれは忍びない。 フレーゲルに対してではなく、ロイエンタールに対してだ。 フレーゲルがひとりで勝手に誤解して怒り狂おうと知ったことではないが、その後ろにいるブラウンシュヴァイク公爵までが不快を覚えると困った事になる。 ロイエンタールにはなんの義理もないとはいえ、帝国を二分する権力者に目をつけられるような事態に巻き込むことはさすがに申し訳ないだろう。 「弔問客と疑われるのは不愉快だわ。くだらない妄想を撒き散らして、これ以上品位を下げたくないのなら、さっさと帰ってもらえる?」 「あんな下級貴族とお前の祖父が知己だったとでも言うつもりか!?下手な言い訳をっ」 「だからわたしはなんにも知らないって言ってるでしょう!?」 これ以上無駄な問答を繰り返す時間がもったいなくて、は身を翻してドアを開け放った。 「お客様のお帰りよ。お見送りして!」 大声でフレーゲルの辞去を告げると、後ろから舌打ちが聞えた。 フレーゲルを乗せた車が門を出て行くところを確認すると、はほっと息をついてカーテンを引いた。 邪魔が入ったせいで、ロイエンタールとのことは実に中途半端に終わってしまった。 もう関わる事はないだろう。 は自分の失敗を嫌々ながら認めざる得なかった。 相手をやり込めて、その上で二度と会わないとなれば清々するだけだったのに。 溜息を漏らしながら祖父の書斎へと移動する。 ちくちくと刺すような罪悪感が、これで終わりになることを拒絶するのだ。 幼い頃は、抑圧の反動なのか毎日のように母親やアンネローゼの優しい笑顔を夢に見て、しくしくとひとりで泣いた。 それでも、昼間は絶対にその弱さに目を向けないように必死だった。 貴族としての教育をなにひとつ受けていないを見て、祖父と執事はあからさまに軽蔑して、ろくな教育もできないのかと母親を罵倒した。 そのときから、は祖父や執事に負けてなるものかと歯を食いしばり、温かい場所を思い出して自分が弱ってしまわないようにと、楽しかった懐かしい日々をなるべく思い出さないようにした。 不満を零そうと悔しさに歯軋りしようと、今の状態を受け入れるだけの余裕ができるまでその場所を封鎖してしまうことによって、心の中の聖域を守り抜いた。 オスカー・フォン・ロイエンタールはそのような子供ではない。 目を閉じ、耳を塞ぎ、振り返らないことでしか身を守れないような子供ではないはずだ。 だが、だれにも踏み込ませたくないような大切な、あるいは思い出すことすら嫌悪する不愉快なことに、親しくもない他人が踏み込んできて、本当になにも感じないことなどあるだろうか? 祖父の書斎に着くと、貴族ご用達の帝都のデータバンクを開いた。 さすがに軍人の自宅まではわからないが、下級とはいえ貴族であるロイエンタール所有の物件なら、このデータバンクに載っているのではないかと思ったのだが、果たしてこの邸から遠くも近くもない場所に一件見つかった。 ここにいるとは限らない。そんなに軍部施設と近いわけでもない。少将なら十分な広さの官舎が与えられるはずだから、むしろそちらにいる可能性が高いだろう。 「だけど、まあ、ダメ元で……」 ロイエンタールを探してどうするのかと問われれば、明確な答えはにも出てこない。 むしろ、今日のことでロイエンタールが傷ついていれば、余計な真似以外のなにものでもないだろう。の顔など見たくもないに違いない。 なにも知らないがのこのこと出かけて、傷を広げないとも限らない。 あの一種異様な空気の中で黙っていたミッターマイヤーは、なにかを知っているようだった。ならばきっと彼がフォローをしているだろうと思うのに、それでもじっとしていることができない。 「これでハズレだったら、一応諦めがつくしね……」 住所を頭に叩き込んで、データバンクを閉じる。 それでも途方に暮れた子供のような目が、の罪悪感を呼び起こし、背中を突き飛ばすのだ。 これで終わるなと。 |
理由はともあれ、ロイエンタールに対して初めてこちらから アクションを起こすようです。 |