ラインハルトが起き上がって、シートで呆然と寝転んだままのの手を引いて起こしてくれる。 まだ放心しているに、やり過ぎたと思ったのか乱れた髪を指で梳いてくれた。 運転席からキルヒアイスの溜息が聞える。 「これに懲りたら……」 キルヒアイスの言葉半ばで、は呆然としたまま呟く。 「男の子………だったんだ……」 ふたりが揃って落胆したのがわかった。 04.その先にあるもの(3) 「そうくるとはな……」 ラインハルトは引き攣った顔を逸らし、キルヒアイスは溜息をついて額を押さえた。 「だって、ラインハルトは友達だと思っていたんだもん」 「ああ、友達だ。確かに普段からお前に男、女を意識されたら俺だってたまったものじゃない。だけど境界線はある。切り離す必要はなくても、区別する境は、確かにあるんだ」 ラインハルトに真面目に説教されるなんて、初めてのような気がする。 綺麗な男が真面目な顔をすると、ちょっとズルイと言いたくなるくらい絵になった。 は子供みたいに膨れてシートから足をぶらつかせる。 「つまんない。昔はそんなこと、言わなかったのに」 「子供だったからな。だけどお前が胸を、と言ったように、男女の違いはお前もよくわかっているだろう」 だったら子供のままのほうがよかった、というのは例え勢いでもさすがに子供過ぎて言えなかった。 誰にだって、時間の流れは平等に訪れる。 男も女もない子供のままでいたかったと言ったところで、時間は止まらないし巻き戻らない。 例えラインハルトが言った境界を踏み切って越えたとしても、その先にあるのは男と女の仲になるというものだけだ。昔のような、区別のない戯れができるわけではない。 わかっているけれど。 寂しい。 の頭を撫でながら髪を指で梳いてくれるラインハルトの手は大きくて、優美な見栄えでも筋張った男の物だった。 ラインハルトの優しく諭す顔を見ていたら、ぽつりと思ってもなかった言葉が漏れた。 「ずるいなあ………」 「ずるい?」 「ラインハルトばっかり大きくなって、ずるい」 これも十分に子供っぽい発言で、は恥ずかしくなって両足をシートに引き摺り上げると抱えた膝に顔を埋めた。 聞えた苦笑は、ふたり分。 きっと顔を見合わせて笑っている。 「俺より、キルヒアイスの方がずっと伸びたぞ?」 「うん。だからジークもずるいの」 ふたりは、今度こそ声を立てて笑った。 最初に車に乗った場所まで戻ってきて、は肩を竦めた。 「すっかり話が違う方向に行っちゃったね」 「婚約の話はまた今度だ」 「ううん。進めちゃおう。ラインハルトに任せる」 が軽くそう言うと、驚いたように目を瞬いた。 「いいのか?」 「うん。元々ラインハルトが不利な状況になるのが問題だったわけだし。ラインハルトとジークがそれでいいっていうのなら、任せる」 「そうか。なら」 「ただ、そうすると結婚も避けられないと思うけどね」 「……確かに、婚約しておいて破棄というのは女のお前には見栄えが悪いだろうが、そこはお前の方から断ったことにすれば……」 「いや、あのさ。さっき言ったのは冗談なんだけど。そうじゃなくて、自分の立場忘れてない?ラインハルトが婚約なんてなってさ、皇帝陛下からお言葉がないと思う?」 いかにも意表を突かれたというように、ラインハルトが目を見開いた。 振り返ったキルヒアイスも似たり寄ったりの表情だ。 十九歳で大将だったり中佐だったりする人物にしては、お粗末な話だ。 ラインハルトの昇進は武勲によるものだとしても、皇帝の引き立てがあってこそのことであり、そういう立場のラインハルトが上流貴族と婚約したとなれば、なにかのついでとしても、祝いの一言くらいは十分に考えられる。 そして、皇帝に祝われた婚約を破棄したなどと、言えようか。 「……くそっ!あの老体のせいで、こうも行動が掣肘されるとは」 吐き捨てるように悪態を尽くラインハルトに、はそれはさすがに八つ当たりだろうと肩をすくめた。 「なんかそこまで結婚を嫌がられると、含むところでもあんのかと思えてくるんだけど。ま、とにかく服喪は一年、ハゲのプレッシャーで期間を縮めるにしてもあと半年はあるんだから、それまでにいい代案がなければ、ってことにしましょうや」 がそう締めくくると、ラインハルトは不承不承に頷いた。 婚約はよくても、結婚はそこまで嫌か。 ちょっとばかりがやさぐれたくなるのも無理はない。 別れを告げてが車外に出ると、後を追ってキルヒアイスも降りてきた。 「いいよ、すぐそこだし」 「さっき女の子だと自覚したばっかりだろう?」 「これから木をよじ登るのに、女の子とか言われてもなあ」 「敷地に入るまで、確認してから帰るよ」 ラインハルトもそうしろと言ってきかなかったので、仕方なしに送ってもらうことにする。 「さっきはびっくりしたかい?」 隣を歩きながらキルヒアイスが少し意地の悪い口調で尋ねてくる。 「びっくりしたなんてもんじゃないよ」 「そう。実は僕も驚いた。ラインハルト様があそこまでなさるとは思わなかったから」 「よっぽどプライドが傷つけられたのかなぁ」 「……それはどうだろう」 キルヒアイスの返事は随分曖昧だ。 「だって、安全パイだって言われて腹が立ったんでしょう?そういうことじゃない」 「に言われたから、腹が立ったのかもしれないよ?」 「なにそれ?わたしが子供だってこと?あんな簡単なことで恥ずかしがる男に子供扱いされるのは納得できないから、その意見は却下」 「子供扱いって………」 キルヒアイスはなにやら口ごもり、小さく呟いて溜息をつきながら首を振った。 「まあ、ラインハルト様も意識されてないみたいだしな……」 「どっちにしてもさ、あの調子だとラインハルトは演技でキスとかできそうにないよね」 「キスって!」 驚いて足を止めたキルヒアイスに、の方が面食らう。 「あのさ……最初に婚約案出したの、そっちでしょうが。そういう手でいったら、止むを得ない場面だってあるかもしれないでしょ?」 「でもは、いいのかい?」 「別に。芝居でしょ?」 キルヒアイスの表情が難しく曇ったので、慌てて付け足した。 「だってラインハルトだし」 「……まだ懲りてないの?」 「いや、そうじゃなくて!」 声に不機嫌さが混じったのを感じて、必死に両手を振って否定する。 「ホント、ラインハルトなら嫌じゃないの。さっきのも、驚いたけど嫌じゃなかったよ」 「それはそれで困りものだな。怖くはなかったの?」 「ラインハルトなのに?」 「男の人なのに」 そう問い返されて、少し考えてみる。 例えば、あそこからさらに進んでしまったとしたら? 懲らしめが効果的になるように、ラインハルトがあんなところで止めずに無理やりに服を脱がせたりキスをしたりしたとしたら。 じっくりと想像してみて、やっぱり答えは同じだった。 「嫌じゃないよ。ラインハルトなら嫌じゃない」 キルヒアイスはそっと溜息をついて肩を落とした。 「ラインハルト様の捨て身の説教は、一時的ショック止まりか」 「もー!そんなことないよ。ちゃんと反省はしたよっ」 「その意見で」 「無闇やたらと触ったりはしないし、ちゃんと男の子だって、意識は残しとくよ!」 「でも」 「ラインハルトになら、どんな風に触られたって、嫌じゃない、気持ち悪くない」 「、それって」 邸の裏門が見えてきて、は軽く二、三歩先を走った。 「あ、もちろんジークも一緒だからね」 くるんと振り返って断言しておくと、なぜか脱力されてしまう。 「ぜ、全然わかってない……」 そのまま地面にへたり込みそうな勢いのキルヒアイスに首を傾げながら、裏門をそっと押して中を覗き込む。 「おし、だれもいない。んじゃ、またね、ジーク。ラインハルトによろしく」 ヒラヒラと手を振ってそういうと、呆れながらもキルヒアイスも手を振り返してくれた。 門をくぐって施錠しておくと、庭を突っ切って二階の自室にいい枝振りを近づけている木によじ登りながら、今日気がついたことは、内緒にしておこうと考える。 あの反応からいって、これを言ったらふたりともどんな説教をしてくるかわからない。 ラインハルトとなら境界を思いっきり踏み切って、本当の夫婦になっても面白いだろうな、などと思ったのだと言ったりしたら、きっとまた怒られる。 「楽しそうだけどなー」 その未来想像図の中にキルヒアイスの姿がある時点で、友達の延長での夫婦でしかないことはさすがににもわかっている。 それでも、幼い頃から結婚に対して諦めを抱いていたには十分に魅力的な想像だった。 |
ラインハルトと結婚したら、くだらない喧嘩の絶えない夫婦になりそうですね(笑) |