着いた先は、官舎の一角にある一軒家だった。 先に立ってドアを開けたのはミッターマイヤーの方だ。 「今帰ったよ、エヴァ」 おや、と思う間もなく軽やかな足音が聞えてきて、クリーム色のふんわりとした髪の可愛い女性が現れた。 「まあ、お客様?」 「ああ。いつものこいつと、それからフロイライン・。えー…ロイエンタールの知り合い…だ。一応」 かなり微妙な紹介だった。だが確かにその通りの間柄としか言いようがない。 何しろまだ対面して二回目。ミッターマイヤーに至っては初対面だ。 「妻のエヴァンゼリンです」 にこやかに紹介されて、は身体に叩き込まれた貴族の娘としてのスカートを摘み軽く膝を曲げる挨拶しようとしてやめた。この格好でそれはあまりに変だ。 もう何年もしていなかった、頭を下げるという一般的な挨拶に替える。 「お邪魔いたします、フラウ・ミッターマイヤー。・フォン・と申します」 「ようこそ。フロイライン・」 「どうぞとお呼び下さい」 フロイラインと呼ばれるほうが違和感を覚えるような格好だ。がにこやかにそう言うと、ミッターマイヤー夫人は柔らかな笑顔を返してくれた。 本当に可愛い人だなあ。 そうはしみじみと感じ入る。 「それなら遠慮なく、そう呼ばせていただくわね。はお菓子はお好き?」 「ええ、大好きです」 「よかったわ。アップルパイがあるのよ。あなた、お客様をご案内してちょうだい?」 ツバメのような軽やかさでミッターマイヤー夫人は奥へと戻って行った。 03.通り雨(3) 「はあ……」 の口から思わず溜息が漏れる。 リビングに案内しようとしていたミッターマイヤーが振り返った。 「どうされました?」 「いえ、あんまりお可愛らしい奥様で、びっくりしました」 本心を包み隠さず言うと、夫の顔はだらしなく綻びる。 隣の男が顎を撫でながらしたりと頷いた。 「自らを省みれば、ますますそのように見えるだろうな」 「黙れ好色一代男」 あんたにだけは言われる筋合いはない、と返すとまた笑われる。 リビングに案内されて、は思い出したようにミッターマイヤーに提案する。 「それと、わたしにそんなに丁寧に話されることはありませんよ?」 「ですが、あなたは侯爵令嬢でしょう?」 これだけ本性を見ていて、そう返せるのも傑物だ。 「あなたの方がずっと年上でいらっしゃるのに、おかしいですよ。それにこの格好でフロイラインと呼ばれても」 両手を広げて自らを見下ろして肩を竦めると、ミッターマイヤーがくすりと笑う。 友人の男とは違い、嫌味のない笑いだ。 「では、遠慮なく」 「」 「あんたには言ってない!」 ソファに座って昼間から酒を空けだした男を睨みつける。 「それこそ今更だろう。お前こそ、年上を「あんた」呼ばわりだ」 「年上だからってだけで敬意を払えるか。ミッターマイヤー少将も、フラウ・ミッターマイヤーも、きちんと年を重ねていらっしゃるから『年上への敬意』を持てるの。ただだらだら生きてる男に敬意を払う価値はない」 ぴしゃりと言い切ったところで、ロイエンタールが肩を竦める。 「ただだらだら生きているだけの男でも、お前よりは法知識はあるようだが」 「なに?」 「なぜお前のような子供が企業法を熟読している?」 テーブルに置いていた本にロイエンタールの手が伸びてきたので、また取られないように慌てて抱き締める。 ロイエンタールはそんなに目を瞬いて、苦笑しながら手を引いた。 「たしかお前の祖父はクロプシュトック事件で死んだと聞いている。だが、そのような事業などは子供の手に負えるはずもない。人を雇っているだろう。それに、後見人はどうした」 「その質問に答える必要があるわけ?」 「ただの興味だ」 「こ、この男……」 握り締めた拳を振るわせるにミッターマイヤーが苦笑する。 「そのような本ごときで身につくとでも思っているのか?」 「あんただって、入門書程度っつってたでしょうが!まだ勉強し始めたばっかなの!」 「書物の知識が無駄だとは言わんが、人間を相手にした方が遥かに効率はよかろう」 人を雇えれば、だってそうしている。だれにも内緒の勉強なのに、大っぴらに教師を雇えるはずがない。 「そんなことは言われるまでもない、か?だがお前はどうやら人を雇うわけにはいかないようだ」 見抜かれているとは思ったが、次のロイエンタールの言葉は予想もしないものだった。 「言っただろう。お前よりは俺の方が知識がある、とな」 とミッターマイヤーが同時にロイエンタールに視線を集めてぽかんと口を開ける。 「専門家のようにはいくまいが」 「な……なんであんたに法律を教わんなくちゃなんないのよ!」 「お前よりはまだマシだからだ」 「戦術ならともかく、法律を戦争屋に学ぼうとは思わない!」 「今はちょうど無役でな。暇を持て余していたところだ」 「暇つぶしの道具なわけ!?」 ミッターマイヤーが額を押さえて嘆息し、が怒鳴り散らしていると、夫人が紅茶とパイを持ってリビングに入って来た。 「どうぞ、遅くなってしまってごめんなさいね、」 「いいえ、そんなこと。ありがとうございます、フラウ」 ころりと声色から顔つきから替えてにこやかに答えたに、ロイエンタールは呆れた表情で、ミッターマイヤーは唖然として見ている。 夫人が再び席を外して、ロイエンタールはワインをグラスに注ぐ。 「そこまでして本性を取繕ったところで、どうせミッターマイヤーが知っているだろう」 「可愛い人や綺麗な人に、嫌われたくないし、引かれたくない」 パイにフォークを入れると、さっくりとした手応えで切り分けられた。 「……お前は同性愛者か?」 「なんでそうなる」 言いがかりも甚だしいと睨みつけてパイを頬張りながら、フォークをびしりとロイエンタールに突きつけた。 「綺麗な絵を見るとか、素敵な音楽とか聴くのは楽しいでしょう。それと一緒。可愛い人には好かれたいし、綺麗な人とは一緒にいても楽しい。心が和むからね。それになにより、それほど無理して作ってないし」 「どこがだ」 「あれ、気付いてないの?わたし、ミッターマイヤー少将にも無理して話しているわけじゃないよ?」 貴族の淑女らしいバカ丁寧な言葉遣いではないが、ミッターマイヤーにはごく当たり前の対応をしている。 「そういえば、そうだな」 ミッターマイヤーが気付いて目を瞬いた。 「そんなにロイエンタールが嫌いなのかい?」 「嫌いです」 一言で斬って捨てたが、それだけでは不十分だと思って言葉を付け足す。 「よっぽど親しい友人の前でもこんな感じですけど、オスカー・フォン・ロイエンタールに対しては、ただの反射行動ですから」 「反射?」 「ええ、反射。鏡を映すようなもの。自分のことを見くだすような相手には、好意の寄せようもありませんよね」 反論の余地もないように断言すると、ミッターマイヤーは困ったように眉根を寄せた。 「珍獣と言われるのは不満か」 満足できる人間がどこにいる。 思わず反論しかけて、それはが言いたいこととはズレがあるので、一旦言葉を引っ込めた。 はパイの最後の一口を食べ終えると、皿にフォークを戻して、目の前の男に冷然とした視線を叩きつける。 「女が嫌いな漁色家さん。好意も持っていないような女と付き合うのは、騙される女も悪いから勝手だけど、『女』というカテゴリーで全部括ってしまうだけで、もう十分過ぎるくらいに失礼だから」 紅茶を飲んで一息つくと、目を見開いて見下ろしてくる男に、悠然と笑ってやった。 「気付かれていると、気付いてなかったの?語るに落ちるとはこのことだね。あんたは初対面のときから、わたしのことを見くだしてたんだよ」 冷たい目で、恋人を見ていた男。 同じく冷たい目でのことも見下ろしていた。 初対面で好意的になる要素がないのはわかるが、見くだされる覚えまではない。 今回に絡んできたのは、男の言葉通りに暇つぶし。 暇つぶしに使おうと思うくらいには、評価が上がったということだ。 珍獣扱いで評価が上がったということなら、最初の評価は推して知るべし。 「碌でも無い男に引っかかるバカ女と同列に扱われたんじゃ、たまんないわ」 カップをソーサーに戻すと早々に席を立ち、ロイエンタールに見せていたのとは対照的な笑顔でミッターマイヤーに告げた。 「それでは、本当にご馳走になりにきただけのようですけれど、もう帰りますね。日が暮れてしまいますから」 「え?あ、ああ!送ろう」 黙り込んだ友人とちらりと見やって席を立ったミッターマイヤーに、笑顔で謝絶する。 「大丈夫です。歩いて帰れる距離ですから。雨も上がってますし」 それでも、ミッターマイヤーは玄関まで見送りに来てくれた。夫人も気付いたようで、キッチンから出てきてくれる。 「あら、帰ってしまうの?」 「はい、日が暮れてしまうので。アップルパイ、美味しかったです。ご馳走様でした」 「どうぞまた来てね。女の子のお客様なんて滅多にないんですもの。お菓子なんてこの人もロイエンタール少将も食べてくださらないし」 ふわりとした笑顔に、も自然に笑顔が零れる。先ほどまでのロイエンタールとのやり取りでギスギスした気分が和らぐようだった。 ほんと可愛らしい女性。 頭を下げながらしみじみと感じ入る。 あの男の言葉ではないが、自身から見ても、確かにとは大違い。 ミッターマイヤーも、おかっぱ男爵とは大違い。 羨ましい、お似合いの夫婦。 「フラウの作られるケーキは美味しいのに、男の人ってもったいないですね」 甘いものを食べないのが男とは限らない事は知っているが、そう返した。 現に金髪の親友はケーキ大好き人間だ。特に、彼の姉の手作りには目がない。 夕食の準備をしている夫人をキッチンに送り返して玄関を出ると、ミッターマイヤーが少し暗い表情でを見下ろした。 「ロイエンタールは、そんなに厭世的だろうか」 「ああ、すみません友人を悪く言われたら気分が悪いですよね。少将には申し訳なく思っています」 「いや、それはいいんだ。その…ちょっと、確かに女性に対して問題がある奴だけど……いいところもあるんだ、本当に」 そう言われて、は小首を傾げて少し昔を思い出す。 「オスカー・フォン・ロイエンタールを初めて見たのは、従姉の恋人として紹介されたときでした。恋人相手に愛情の欠片も見られなかったですけどね」 ミッターマイヤーが益々眉根を下げてしまって、それも怒っているというよりは困っているという様子だったので、逆に罪悪感を覚えて慌てて付け足した。 「だから、思うんです。卵が先か、鶏が先かって」 「どういうことだ?」 「対等に扱わなくても側にいてくれればいいという……もしくは対等に扱っていないと気付かないような女とばかり付き合うから、女性がますます馬鹿に見えるんでしょうけれど、あんな態度だとそんな女しか寄ってこないよ、という話で。……すみません生意気を言って」 「いや………俺もそのとおりだと思う」 フォローしたつもりだったのに、ミッターマイヤーは益々肩を落としてしまった。 「だれか、ロイエンタールを変えてくれるような女性が現れないかと思うんだ。だが、ロイエンタールが変わらなければ、そんな女性は現れない気もする」 「それこそ、卵か鶏か、ですね」 「まったくだ」 ミッターマイヤーは笑って、沈み始めた太陽を見上げた。 「やはり送ろうか。ここから歩いていると日が落ちてしまうのではないか?」 「平気です。歩いて帰りたい気分なので」 ポーチ降りて二、三歩歩いたところで振り返ると、まだミッターマイヤーは見送ってくれていた。 「ああ、でも」 ミッターマイヤーを見て、ゆっくりと微笑む。 「わたし、ミッターマイヤー少将のことも、オスカー・フォン・ロイエンタールのことも、全然知りません。だから、わたしが見たのはほんの一部でしかない。それだけはわかっているつもりです。だって、オスカー・フォン・ロイエンタールとミッターマイヤー少将が、お友達になる要素が、どこにあるのかわたしにはわかりませんでしたから」 には碌でもない男にしか見えなくても、ミッターマイヤーには休日に遊びに出掛けるようないい友人なのだ。 にとって、ラインハルトやキルヒアイスは愛すべき友人だが、別の人間にとっては小生意気な孺子というように。 にはオスカー・フォン・ロイエンタールの悪い面しか見えなかった。 だから、嫌い。 それだけ。 それを訂正する理由も、必要もない。 それだけ。 「悪い奴じゃ、ないんだよ」 「そう、なんでしょうね」 「困った奴ではあるけどね」 の抱える本を指差しておどけて言ったミッターマイヤーに、思わず吹き出した。 「わかります。わたしにも、愛すべき困った親友がいるんです。無茶で、わがままで、でもそれが清々しい、そんな親友が」 金色の髪をした親友を思い浮かべて、そっと微笑んだ。 そして、今度こそミッターマイヤーに別れを告げて、邸に向って走り出す。 雨は、すっかり上がっていた。 |
家庭教師ロイエンタールなんて、ありえない構図(^^;) バカにしていた相手から心情を指摘されるくらいの屈辱はないかと。 暇つぶしに使われたくらいの反撃はできたと思います。 |