気晴らしに邸を出てきたはずなのに、気が付けばなぜか気に食わない男と正面から睨み合いをするはめになっていた。
いや、睨んでいるのはだけだ。
オスカー・フォン・ロイエンタールは悠然と笑っている。
その顔を見ているだけで胃の底が焼け付くほどに腹が立つのに、生来の負けず嫌いが災いして敵に背中を見せることができない。
頭の中の冷静な部分はさっさと店を出て行ってしまえと言っているのに、それを無視してまでロイエンタールをもう一度強く睨みつけると、椅子に座り直してスコーンに手を伸ばす。
無視だ、無視。
そう決め込んで、すぐにそれが不可能な事を悟った。
入門書程度と評された法律書は、まだ男の手の中だった。



03.通り雨(2)



いっそ本の一冊や二冊、買い直してしまえばいいと思う。
だが、どこへ行ったかわからないというわけでもないのに、それは勿体無い。
家計的に金銭に困っていないからといって、が自由にできる金も豊富かと言えば、決してそういうことはない。
祖父は出奔した娘の件で懲りたのか、孫には銀行の個人口座こそ持たせたものの、好きに金を使う事はできないように、口座の管理は執事に任せた。
おかげで、が執事を通さずに使える金銭は、いまのところたかが知れている。
では好きに金を使えたら本を買い直したかといえば、勿体無いという意識が先行している限り、結局同じ結論に達するだろう。
すなわち、このむかっ腹の立つ男から、取り返せ。
がどういう態度に出るのか待っていた男は、無言で差し出された手に口の端を吊り上げて笑う。
「エスコートをご希望か、フロイライン?」
「本を返して頂けます?ロイエンタール少将」
この時点で一番気の毒なのは、恐らくふたりの間に挟まれたロイエンタールの連れの男だろう。ロイエンタールの皮肉めいた口調には既に慣れていても、言葉こそ柔らかいものを選びつつ、ドスの効いた声で言い放つ淑女には、縁が無いに違いない。
「ロイエンタール、いい加減にしろ。それは彼女の本だろう。無断で取り上げたのは卿なのだから、返すのが筋だ」
はちょっと意外な思いで、手を突き出したまま隣の男を見上げた。
こんな男の友人なら碌でもないに違いないと思ったが、どうやら良識はあるようだ。
だがロイエンタールは友人の言葉にも軽く肩を竦めるだけで、手の中の本を弄ぶ。
「貴族では滅多にない出物だ。このまま逃がすのは惜しいだろう」
「人を珍獣みたいに言うなっ!」
席を蹴って立ち上がると、店内の視線が集まった。
先ほど司令官談義をしていた三人の軍人も振り返って、こちらを伺って何かこそこそと話し出したので、ロイエンタールは遠慮もなく舌打ちをする。
「目立つのはごめんだな」
そう言い置くと、本を持ったまま席を立つ。
それに関してはまったくもって同感だ。街中で漁食家とティータイム、などとフレーゲルの耳に届けば、今すぐ婚約だ結婚だと騒ぎ出しかねない。
ここでロイエンタールなど出て行くに任せられればよかったが、生憎とこのまま逃がすわけにはいかない。
本は置いていけ。
は慌ててポケットから取り出した小銭をテーブルに叩きつけてロイエンタールの後を追う。
店を出ると、まだ小雨の続く中でロイエンタールが無人車を停めていた。
「おい、ロイエンタールいい加減に……」
「本を返せって言ってんでしょうが!」
ロイエンタールの非礼を咎める友人の、二倍はあろう大声で怒鳴りつけた。
おかげで逆にロイエンタールの友人も黙ってしまう。
「わかったわかった。取ればよかろう」
ようやく本を差し出してきたので手を伸ばすと、すいと本が少し上がる。
もちろん、ロイエンタールが腕を少し上げたのだ。
「……………………」
が再び手を伸ばすと、ロイエンタールの腕は更に上がる。
「あ……あんたねえ……」
既にあんた呼ばわりだ。もはや取り繕う気はなくしていた。男爵号を持つフレーゲルと一応は同等の扱いと言えなくもない。
「どうした。取り返さんのか?」
「そんなところに届くか!」
小柄なと長身のロイエンタールでは、身長差はそれだけで障害だ。
ロイエンタールが腕を頭の高さまで上げてしまえば、背伸びしようがジャンプしようが届くはずもない。
「ロイエンタール……」
まるで子供の悪戯だ、と連れの男性が額に手を当てて溜息をつく。
「この………っ」
業を煮やしたが取った方法は、やはり貴族の淑女では考えつきも行動もしないだろうものだった。
一歩下がって、男の膝裏を蹴りつけたのだ。
「くっ……」
膝裏を的確に蹴りつけられれば、いかなロイエンタールといえど、転ばないまでも膝が曲がり腰は落ちる。
その一瞬を逃さずに、蹴ると同時に飛び上がって男の手から本を引っ手繰った。
「ざまあみろ!」
捨て台詞まで、まるきり町の悪ガキだ。
唖然とする蜂蜜色の男を横目に逃げ出そうと身を翻したが、背が高ければ腕も長い。
襟首を掴まれて引き摺り戻される。
「ぐぇっ」
「随分と癖の悪い娘だ」
少し苛立ちを含んだ声に冷や汗を覚えた次の瞬間、気がつけば停めてあった無人車の中に放り込まれていた。
「え?」
シートに寝転んで低い天井を見上げたまま、あまりのことに唖然としていると逃げ道を塞ぐようにロイエンタールが乗り込んでくる。
「おい、ロイエンタール!」
「さっさと乗れ、ミッターマイヤー。置いていくぞ」
たぶんロイエンタールがシートに座るのに邪魔だったのだろう足を、天井に向けて持ち上げられた。
「ぎゃーっ!?な、なにすんの!」
両足首を掴まれて、自分の足の間から憎き男の顔を見上げるなど、冗談ではない。
今更ながらにものすごい格好を強いられていると気付いて悲鳴を上げると、この上なく憎たらしいことに、男は異なる色の双眸を歪めるように笑う。
「子供に手を出す趣味はない」
「なら降ろしてよ!!」
「だが珍獣を調教するのは悪くなさそうだ」
「また調教か!」
既視感を覚える単語に悲鳴を上げると、前の助手席に乗り込んでいたロイエンタールの友人がぴたりと止まる。
「また……?」
「……子供だと思っていたが、そうでもないのか」
ロイエンタールがふむと顎をひと撫でし、助手席の男性はかすかに引き攣った声で行き先をコンピューターに告げている。
「え?ああ!?ち、違う!なにか、なにか誤解が発生した!」
「またなのだろう?」
「へ、変態に変人だとレッテル貼られたくないっ!誤解だってば!!」
「……変態とは俺のことか?」
「他にだれがいるのさ!おかっぱと同じこと言ってるくせに!」
あんたなんか、ラインハルトとジークから天誅を食らうがいい!
思わず心の中でそう罵った。


ラインハルトを思い浮かべたとき、とっさにその名前を使ってやろうかと考えて、即座に却下した。
オスカー・フォン・ロイエンタールは権門の出ではないから、皇帝の寵妃の弟で大将閣下のミューゼルの名前には怯むかもしれない。
それはわりと確実な予想ではあったが、こんなことのためにラインハルトと知己であるなどと口外して、後でラインハルトに迷惑がかからないとも限らない。
おまけに今は、珍獣扱いを受けている。そんな娘と知己だと思われたら、ラインハルトの品位が疑われるような事態すらありうる。
見上げる窓の外の風景が流れ出し、地上車が走り出したと悟るとますますラインハルトの名前を出す気を無くした。
目の前の男はともかく、助手席にいる蜂蜜色の髪の男はわりと常識があるようだし、このまま連れ去られても、最悪の事態というやつにはならないだろう。
たぶん。
希望的観測を交えながらシートに肘をついて上半身を起こす。
「いつまで掴んでるのよ。さっさと足を離せ」
「離すと暴れそうだからな。そのままでいるといい。どうせ目的地はそう遠くない」
「はあ!?このまま!?」
「ロイエンタール。妙齢のお嬢さんだ。あまり無体な真似をするな」
後部座席の攻防に、助手席に座ったロイエンタールの連れは控えめに注意した。
「聞いた!?あんたのお友達のなんて良識的なこと!」
「そうだろう。ミッターマイヤーは正論家だからな」
「………お兄さん、なんでこんな男と友達やってるんですか?」
あまりにあまりのの本音に、蜂蜜色の髪の男性は乾いた笑いを漏らす。
結局力尽きて、そのままシートに寝転んだ。
「走行中の車内でなんて暴れないから足を離してくれる?このカッコ疲れるんだよ」
「どうやらまだ調教し足りていないようだな、お前の主人は」
「だからされてないってばっ!」
憤るの意見をそれでも一応聞き入れたのか、友人の言葉に従ったのか、ロイエンタール自身の手が疲れたのか(この可能性が一番高い)、の足首は掴んだまま、それでもロイエンタールの膝の上に足を降ろしてくれた。
「自己中心男め」
「申し訳ない」
疲れたように罵った言葉にも顔色ひとつ変えないロイエンタールに代わって、助手席から謝罪が返ってくる。
「いえ、お兄さんのせいじゃないです…できればもっと強く注意して欲しいですけど」
の本音に男性は苦笑しながら、やはりもう一度申し訳ないと繰り返した。
同じように力なく笑って、寝転んだまま首を巡らせて男を見やった。
「いいえ。こうなったら腹括りましたよ。わたしは・フォン・と申します。あなたのお名前もお尋ねしてもよろしい?」
「これは失礼。小官はウォルフガング・ミッターマイヤーと申します。帝国軍少将を務めております」
「エリートでいらっしゃるのね」
「俺も少将だが」
「あんたには聞いてない」
一転して地を這うような声で呻く。
「正直な娘だ。貴族の娘が腹芸のひとつもできんでどうする?」
「バレたもん取り繕ってもしょうがないでしょうが」
「ミッターマイヤーにも知れているが」
「変人のくせに良識人と同格の扱いを望むの?贅沢!」
言い捨てると、ロイエンタールはさもおかしそうに笑った。
「貶されて笑っているなんて、ほんとどっか頭おかしいんじゃないの?」
悪態を尽きながらにも、小娘ごときになにを言われても、それこそ痛くも痒くもないのだろうことはわかっていた。







いっそラインハルトの名前を出しちゃえば解決だったんですけども。
なぜか気晴らしに出てきた先で拉致されています(汗)


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