それからもはブラウンシュヴァイク公爵を初め、訪問客に喪中であることをアピールするため、常に喪服と黒いヴェールを纏った。 喪中であるうちは、慶事である婚約を公にするわけにはいかない。 クロプシュトック侯領の討伐から帰還したブラウンシュヴァイク公爵は、それとなくフレーゲルとの婚約を念押しするようなことを言って、とりあえずは引き下がった。 それに加えて後見人選びのために親戚一同が連日押しかけていて、はか弱い娘を演じる限界を感じつつあった。 せめて光明でも見出せるような親戚がいるのなら、演技に気合も入るというものなのだが、いかにも斜陽を迎えつつあった家の分家、というような人物揃いのお陰で気分はますます萎える。 更にラインハルトとキルヒアイスは出征が近いわけでもないのに、最近なにやら慌しく活動していて、連絡を取る事もままならない。 そんなストレスの溜まりきった主を見かねて、メイドのユメリアがこっそりと気晴らしにでもと邸の外に送り出してくれた。 03.通り雨(1) 「ああホント、ついてない」 気晴らしに出てきたというのに、小一時間しないうちに小雨が降りかかってきた。 持っていた新聞を頭上に掲げ、分厚い本を小脇に抱えて全速力で走った。いかにも貴族の子女という格好で歩き回るわけにはいかなかったので、今はユメリアが揃えてくれた白い開襟シャツに薄い茶のスラックス、そしてスニーカー履き。 そんな動きやすい服で頑張って走ったというのに、生憎と適当な場所に辿り付くよりも早く、雨足は少しずつ強くなる。 仕方なく慌てて入った軒先は、どうやらバーのようだった。 昼間だから開店してないのかと思ったが、どうやら昼間はただのカフェらしい。 ガラスの向こうの店主と目が合ってしまって、このまま軒先で雨宿りしているのは気まずい。 喉も渇いていなかったが仕方なしに、なかなか重厚そうなドアを開けて中に入った。 昼時のせいか、カフェはそれなりに繁盛していた。空席を探すがカウンター席しか空いていない。 どうせならテーブルでゆっくりと本を読みたかったのに。 は肩をすくめて諦めると、男性がふたり並んでいるその隣に腰掛けて、カウンターの向こうの店主に紅茶とスコーンを注文した。 昼は食べてきてしまったので、かなり早いけれどティータイムにしようと思ったのだ。 熱いスコーンにクロテッドクリームをたっぷりとつけて食べながら、持っていた本の栞を挟んでいたページを開く。 ちなみに本のタイトルは「初めての人のために法知識」 後見人なしではなにもできないとはいえ、自分が無知では更にどうしようもない。 法制度について、せっかくだから少しでも学んでおこうと思ったのだ。 相続する遺産のことや、雇用者たちに対する責任など、知っておくべきことは山ほどある。 それにしても。 文字を目で追いながら溜息を噛み殺した。 財産リストを眺めていたら、軍事産業系列の会社があったのには驚いた。 家の所有する企業の黒字のほとんどはそこが占めていたのだが、そういった事業は、特別監査法などがあってまた別に勉強しなくてはいけない。 「頭痛くなってきた……」 集中力を欠いた状態で字面だけを追っていたら、騒がしい店内から聞き慣れた名前を拾い上げた。 「俺はラインハルト・フォン・ミューゼルを推すね!」 思わず、敏感に反応して振り返ってしまう。 隣の蜂蜜色の髪の男性も少し振り返った。 話しているのは、いかにも軍人だろうという感じの体躯のいい三人の男だった。 「あの金髪の孺子か。姉の七光りだろう?やっぱり俺はミュッケンベルガー元帥だと思うけどな」 「ええ?武勲で言えばメルカッツ提督で決まりだろう!」 ……総合して予測するところ、優れた指揮官はだれかという話とみた。 は行儀悪くテーブルに肘をついて、その三人を眺める。 これでも幼馴染みのことは陰ながら応援していたので、その動向はわりと詳しく知っている。ラインハルトの華々しい武勲は言うまでもないだろう。いくら姉の影響があるとはいえ、前線で戦っているラインハルトが武勲もなしに十九歳で大将などありえない。 宿将であるメルカッツ提督の名前があがるのも頷ける。 ミュッケンベルガー元帥に関しては、祖父の友人ということもあってにはあまりいい印象はない。それでも宇宙艦隊司令長官ともなれば、評価されもするだろう。 「姉の七光りで武勲が立てられるかよ。チャンスはあっても、それを生かす能力がなけりゃあさあ」 「やけにミューゼルを推すじゃないか。お前、そっちの趣味だったっけ?」 ひとりがからかうと、ラインハルトを推挙していた男の顔が曇った。 「バカ、綺麗な顔してるけどおっかねえぞ、あの大将閣下は。おれはカプチェランカで部下だったんだよ。見事に鉄拳制裁を喰らったさ」 「あの貧弱そうな坊やに?」 メルカッツ提督を推していた男が笑う。 「いやーあれで結構強いんだぜ?身が軽いっていうか。それに大将閣下も強いけど、なにしろ副官が」 「ああ、あの赤毛のノッポ」 ぷっと、思わず笑ってしまって慌てて本で顔を隠した。 人の外見を代名詞にするなと注意したのはキルヒアイスだったが、なるほどそんな風に自分も言われているわけだ、と納得する。 「ノッポだって、なんか可愛い……」 本で顔を半分隠しながら、それでも向こうの会話を窺った。 「だけどお前そりゃ、喧嘩の話だろ。指揮官の腕じゃないぞ、それ」 「だから、ティアマトとか、実績も山ほどあるじゃないか」 「他の提督たちが譲ったんじゃないのか?スカートの中の大将閣下にさ」 これはまたラインハルトが聞いたら怒りそうな評価だ。 笑いそうになって、ふと首を首をかしげる。 これだけ公然と出てくるということはラインハルトもあの仇名は知っているだろう。 姉を後宮に召し上げられたことに腹を立てているラインハルトにとって、そのお陰で出世できたと陰口を叩かれるのはさぞや口惜しいに違いない。 そこに重なるようにキルヒアイスの言葉を思い出す。 「ラインハルト様には大望がおありです」 ラインハルトの経歴を紐解くと、十歳で幼年学校に入っている。 そして、アンネローゼはちょうどその年に後宮に上がった。 は頭の中で訂正を入れる。 アンネローゼが後宮に上がった直後に、ラインハルトは幼年学校に入った。 「……ひょっとして、ひょっとしなくても」 思わずカウンターに突っ伏して、頭の上にページを開けたままの本を乗せた。 「あのシスコン………」 姉を取り返すついでに、貴族社会を引っ掻き回そうというのか。大貴族を抑えて権力を手に入れようと。 シスコンもそこまでいけば恐ろしい。ある意味では感服する。 カウンターから身を起こして両手を組んで唸っていると、ふと視線を感じて横を見た。 蜂蜜色の髪の男の横に座る、連れだと思われる男と目が合った。 ダークブラウンの髪と、右が黒くて左が青い、いわゆる金銀妖瞳の美男子だった。 ………どこかで見たことがあるような。 記憶を手繰り寄せているためか、なんとなく目を逸らしたら負けだという子供の喧嘩の理論なのか、もじっとその目を見返した。 すぐに相手の目に、好奇心が煌いたのが見えた。 「こんな街中でも話題に出るのか。我らが大将閣下は。なあロイ……どうした?」 間にいた、蜂蜜色の髪の男の人が連れの視線を辿ってを振り返った。 二対一になってしまったと焦りつつ、だからこれは喧嘩ではないと思い直す。 それでもなんとなく負けたくなくて視線を逸らさないでいると、と金銀妖瞳の連れを交互に見た蜂蜜色の髪の男が肩を竦めた。 「おいロイエンタール、こんな可愛らしいフロイラインまで、お前の守備範囲に入るのか?」 ロイエンタール? はてと首を傾げる。 どこかで聞いた名前だったが、喉まで出掛かっているのにわからない。 金銀妖瞳の、ロイエンタール………。 徐に、その美男子が口を開いた。 「軍事に興味がおありかな、フロイライン・」 思わず本を取り落としてしまう。 聞き覚えのある腰にくる低い声。 嫌みったらしい気障な喋り方。 「オスカー・フォン・ロイエンタール!……准将」 思い出した。いつだったか、遠縁の娘がぞっこんだったその恋人だ。 祖父に連れて行かれたオペラ座でたまたま会った時に紹介された、恋人を冷たい目で見ていた男。 「私服ではわかるまいが、あれから昇格したので、今は少将だがな」 「それは……おめでとうございます」 はこの男が苦手だった。 従姉が後にあっさりと捨てられて泣いていたからなんかではなくて、女を見下すようなこの視線が気に食わないのだ。 「なんだ知り合いか?」 「以前、会ったことがある。侯爵令嬢だ」 「侯爵令嬢!?」 蜂蜜色の髪の男が驚いたようにをしげしげと眺める。 睨み返す視線を受けて不躾だったと気付いたのか目を逸らしたが、その段になってもはっと気がついて思わず自分の格好に目をやった。 白い開襟シャツとスラックス、そしてスニーカー。 どこをどう取っても、侯爵令嬢の格好ではない。 別に特別恥ずかしい格好ではないが、これでも年頃のが思わず悶えそうになっている間に、ロイエンタールの手が伸びてきて、の本を優雅な仕草で引っ手繰った。 それですら優美な動きではあったが、文字通り引っ手繰ったのだ。 唖然とするの前で、断りもなくパラパラと本を捲くる。 「法律書か。入門書程度のようだが」 「ず、随分紳士的な行動ですね」 は引き攣った笑いを浮かべ、混乱する気持ちを引き締めようと努力する。 そのを、目の前の男は鼻先で笑った。 その態度に更に腹を立てたところに、テーブルの上で握り締めていた拳を自然な動作で男が取り上げて、甲にそっと口付けをしてきた。 背筋を駆け抜けた嫌悪感に、ロイエンタールの手を振り払った。 しかもその勢いで、頬を叩こうと手を振り上げて。 叩く前に、掴まれた。 ………やってしまった。 の平手を軽々と受けて、いかにも楽しそうに笑う蔑んだ瞳に怒りを新たにするものの、顔には失敗したとありありと出てしまっているだろう。 目の端に、唖然としている蜂蜜色の髪の男が映る。 ごめんなさいね、いきなり連れを引っ張ったこうとしちゃってさ! 半ばヤケクソになって心の中で悪態をついた。 「このような扱いを望んで居るのかと思ったのだがな、フロイライン・」 手を引こうとすると、ぎゅっと握り締められた。痛くはないけれど手は抜けない。 「………そういうあざといところが嫌なのよ」 今更取繕うだけ無駄だろうと思い切り睨みつけると、今度は指先に口付けられる。 「やめてよ!」 「以前会ったときはつまらん、どこにでもいるありふれた貴族の令嬢だと思ったが、なかかなどうして、面白い娘ではないか。面と向かって女に拒絶されたのは初めてだな。例えそれが子供であろうと」 「貴族の女は全員随分と趣味が悪いと思われているようね。お生憎様。わたしはあんたみたいな男に見下されてエクスタシーを感じるようなマゾヒストなんかじゃないんでね!」 「随分な言われようだ。フローラが捨てられた恨みか?」 「あんな馬鹿女の仇を取るほど暇じゃないわ」 「ではこの手は?」 「わたしが気に食わない男を、殴りたかっただけよ!」 蜂蜜色の髪の男は唖然と大口を開け、オスカー・フォン・ロイエンタールは喉の奥で笑った。 |
ようやく彼の登場です。いきなり最初から険悪なんですけど。 腹が立つとすぐ手が出る女の子って…。 そういえば、回想からしてラインハルトを殴ってましたしね(^^;) |