「だけどさー」 頭ひとつ振って回想を振り払うと、はスプーンでカップの淵を軽く叩いた。 「お母さんも逃げ出してんのよねー。それなのに、親子二代そろってそれってのも」 それに対してラインハルトは持っていたカップをソーサーに戻しながら首を振る。 「あの女傑は戦いに出陣したのだろう。豪快な女性だったが、貴族に生まれついた者が全てを捨てて暮らすなど相当な覚悟だ。しかも夫もなしに子供まで育てようと。逃げというより、お前と共に生きるための、戦いだ」 は驚いて目を瞬く。 ラインハルトは慰めるようにでも、諭すようにでもなく、ただ事実を述べているだけだと言うように、あっさりとそう言った。 それが、なによりも嬉しい。 じわりと胸の底から湧いてくるような暖かさに、不覚にも目頭が熱くなってそっと目を伏せて小さく息を吐いた。 02.過去の思い出、未来の予定(2) 「うん。お母さんには戦いだったと思う。慣れない労働、慣れない子育て、慣れない生活。慣れない事だらけ。だけど、家に逃げ帰ったりしなかった。そしたら、わたしがどうなるかわかっていたから…でも、わたしがどうなるのか予想できていたなら、お母さんがいなくなることで、邸が、自分つきのメイドがどうなるのか、想像できなかったわけじゃないはずなんだ」 「どうなるか……って」 あまり穏やかではなさそうな話の流れに、ラインハルトとキルヒアイスが困惑したように顔を見合わせる。 「お母さんが死んじゃってじい様に見つかったあと、お母さんと婚約者との間にできた子供ってことで引き取られたけど、あれはじい様が直系の後継者が欲しかったからってだけで。父親もわからない子供なんて、お母さんがいたら殺されてたから」 「殺………っ」 ラインハルトは絶句し、すぐに顔を顰めて舌打ちした。 大貴族ならばそれぐらいは躊躇しない者もいるだろう。劣悪遺伝子排除法の存在によって、皇室ですら幾多の皇子が赤子のうちに安楽死させられているという裏の話がある。 彼らはそういう人種だ、というのがとラインハルトの共通した認識だった。 「―――まさか、のお母さんのメイドも」 「殺された。直接手は下してないみたいだけど、間違いなくじい様が殺したんだと思う。うちには地下室があってね」 ラインハルトとキルヒアイスの目線が足元に行く。 「あまりのスパルタ教育に嫌気が差して授業をボイコットして逃げ出したとき、たまたま鍵が壊れていたドアを見つけて地下室へ行ったの。薄暗い階段を降りたら石造りの牢屋がふたつほどあってね。そのうちのひとつの壁一面に、なにか書いてあるのよ」 怪談でも聞いている気分なのか、ラインハルトが真剣な顔で頷く。 「なんて?」 「『ここから出して』」 ラインハルトとキルヒアイスが苦い薬でも飲まされたように渋い顔をする。話し手であるも似たり酔ったりの様子だった。 「しかも月日が経って変色していたけど、あれは血、だよ。血で三方の壁一面に殴り書き。『ここから出して』『痛い、痛い』『助けて』―――『いっそ殺して』」 三人揃って、同時に溜息が漏れた。 「執事を問い質しても教えてもらえない。メイド頭も一緒。そんで古参のメイドのひとりから無理やり聞きだして、やっとわかった。あの部屋にはお母さん付きだったメイド三人が押し込められてたんだって。…で、そのうちのひとりが、今のわたし付きのメイドのお母さんに当たる人」 家に帰りたいと、ジークとラインハルトとアンネローゼ姉様に会いたいと泣いて、何度も脱走を図っていた日々は、その日を境に終わりを告げた。家庭教師の授業をボイコットすることもなくなった。 母が。 という存在が、三人の人を殺した。三人の命と引き換えに生まれた。 だから、決して逃げ出せないと思った。 「じい様の呪縛は消えたけど、わたしの罪まで消えたわけじゃない。例えそれが受け継いだだけのものだとしても、雇い主にはやっぱり責任ってもんがあるのよ。わたしがケツまくって逃げ出すのは、せめて直接雇用していた人たちのことをどうにかできる目処が立ってからよ」 「、もう少し表現方法をなんとか……」 キルヒアイスは肩を落とした。深刻な話をしているはずなのに、どうしてだろう。深刻さを感じるほどに余計に物悲しくなるのは。 「だから言っただろう、キルヒアイス。こいつの口の悪さはあの時のままだと」 男性陣ふたりは同時に溜息をついた。 「わーるかったわね!今さら貴族の淑女ぶったわたしが見たいわけ!?」 ふたりは同時に貴族の淑女らしい立ち振る舞いのを想像したらしく、天井を見上げ、そして失礼にも同時に溜め息を吐きつつ首を振った。 「まあ……それでこそ、だとは思うが」 「おい……」 どっちなんだとが文句をつける前に、ラインハルトは温くなったコーヒーを飲み干すと、ソーサーごとカップを脇に避けて身を乗り出した。 「いい手があるぞ」 これで逃げ出すなんて案だったら殴り飛ばしてやる、などと物騒なことを考えながらもソファから身を乗り出すと、キルヒアイスは嫌な予感がするとばかりに眉根を寄せた。 「俺と婚約すれば良い」 あまりにあんまりな意見に、とキルヒアイスは絶句した。 「……なに考えてんの?」 ラインハルトに対して、の辞書に遠慮と言う文字はない。 呆れを隠そうともしないに、ラインハルトの機嫌が急下降した。 「せっかく人が泥を被ってでも救ってやろうというのに、なんだその言い草は!」 「い、いや、だってホントに。そりゃまずいでしょう。おかっぱ男爵はともかく、ハゲ公爵にまで目をつけられたらどうすんのよ」 「確かにやりにくくなるのは間違いない。だが、俺はあんなハゲに擦り寄るつもりは毛頭ない。立場を明確にする時期を早めるだけのことだ」 「ラ、ラインハルト様までハゲなどと……」 「そういうデリケートな問題こそ、時期を選ばなきゃだめでしょう!?ラインハルトのことだから、ハゲに迎合しないからといって、チョビ髭侯爵側につくつもりもないんでしょう?」 「!」 我慢できずに割って入ったキルヒアイスの大声に、もラインハルトも口を噤んで注目した。キルヒアイスが軽く咳払いする。 「人の外見的特長を代名詞にするのはどうかと思うよ」 「それで通じるんだからいいじゃなーい」 「そういう問題じゃなくて……」 「キルヒアイスは頭が固いんだ。それより、は俺があのハゲやチョビ髭に引けを取ると思っているのか?」 キルヒアイスは諦めたように肩を落としてコーヒーを口に運んだ。 「今はまだ、ね」 が言い切ってソファに座り直すと、ラインハルトは不機嫌そうな表情で、けれどもそれ以上の反論はせずに背もたれに肘を掛けて拗ねたようにそっぽを向く。 「ガキか」 の呆れた呟きにも反応しない。 「ですがラインハルト様。の言う通りです。ラインハルト様には大望がおありです。友人のために献身を尽くすというのは美談ではありますが、ブラウンシュヴァイク公と事を構えるのはさすがに時期尚早でしょう。もちろん、後日の禍根にならぬようにリッテンハイム候に擦り寄るわけにもいきません」 「当たり前だ!」 とラインハルトが同時に机を叩いた。 「でしたら、その案は危険だとお分かりいただけますね?」 ラインハルトはぐっと言葉に詰まって押し黙った。 はキルヒアイスの鮮やかな説得に感心する。さすがは九年来の親友だ。 「それでは、キルヒアイスはこのままがあのおかっぱの妻になるのを黙って見ているというのか?俺は嫌だ!」 「私もそれは同じです。ですが、その方法は問題があると申し上げているのです」 「いや、そんな真剣に考えてもらってありがたいけれど、わたしも貴族の娘に引き取られた以上は、政略結婚は諦めているよ」 「相手が悪すぎる!いくらお前が娘らしい品を備えていないからといって、あんな下種で無能な男の妻にならねばならないほどの問題を抱えているとは、俺は思わないぞ!」 「……びみょーに腹が立つのは、被害妄想だと思う、ジーク?」 「それこそ、微妙な質問だね」 が引きつった顔で呟くと、キルヒアイスは床を見つめながら肩を揺らしている。 「笑うな!」 「とにかく、俺は絶対反対だからな!」 「見事に聞き流してやがるな。まあ、でもありがと。わたしも、あいつはいやだ。じい様と大して歳のかわんないハゲに嫁いだ方が、まだ少しは……似たようなもんか」 「その点に関しては私も同感ではあります。みすみすをフレーゲル男爵に嫁がせるわけにはいかないと思います」 「でも具体案がない」 結局そこに行き着く。 意気消沈するふたりに、は肩を竦めた。 「おやおや、だからいいってば。わたしだって大人しく調教されるつもりなんてないしさ。どうにか方法を考えてみるよ。ふたりは自分たちのことだけを考えてなよ」 「調教じゃなくて教育だろう、」 キルヒアイスが更に肩を落として溜息をつく。 「うんにゃ、調教。あのパーティーの日にはっきりあいつがそう言ったのよ。調教してやるってね」 いきなりラインハルトが立ち上がった。同時にキルヒアイスも。 「え、な、なに?」 ふたりとも背が高いので妙な威圧感ある。 がらしくもなくソファの背もたれに、思わずすがりついた。 「あの下種!八つ裂きにしてやる!」 「全力を挙げてを保護しましょう。は、決して短気を起こさないように」 は絶句した。 ラインハルトの激しい怒りはなんとなく想像していたが、キルヒアイスの薄笑いは心底怖かった。 いつの間に、こんなの母を凌ぐほどの恐ろしさを身につけたのだろう……。 「月日って残酷……優しいお兄さんだったのに……」 「いいね、?」 「うわ!はい、約束します!」 念を押されて、思わず右手を挙げて誓ってしまった。 貫禄負けだ。 昔が懐かしいことこの上なかった。 これ以上話し込むのは執事に不審に思われる、ということで今度は邸の外で会おうと約束して別れた。 既に執事は不審がっていて、ラインハルトの訪問の縁を聞いてきたので、素直に答える。 「ミューゼル閣下はあのパーティーで、わたしを庇ってくださったの。ちょうどお話していたところだったから。わたしは怪我しなかったけれど、おじい様が亡くなったと聞いてなにかの縁だろうと弔問に訪れてくださったのよ」 嘘じゃない。ちょっと脚色しているだけで。 執事はそれで納得した。 けれどが見るに、その表情は当主が死んで若い孫娘だけになった家に目をつけてラインハルトがなにか企んでいると考えたか、もしくはあの容姿だから肉親を亡くして弱っている女の子につけ込むような女たらしとでも思っているに違いない。 ラインハルトが聞けば激怒しそうな想像だ。 けれどその勘違いは好都合でもある。 ラインハルトがこれから何回も訪問してきても、それが理由になる。 ……勘違いにしておくこともないかもしれない。 ふと、そんなことが思い浮かんだ。 には詳しくは判らないけれど、キルヒアイスはラインハルトには「大望」があると言っていた。 既存の大貴族に迎合しないで「大望」となると、やっぱり新勢力の立ち上げとか、そういうものだろうか。 それならば今は時期尚早とはいえ、いずれと結婚することで「侯爵家」を丸々ラインハルトに渡せば、なにかの役に立つのではないだろうか。 ラインハルトは年内にはローエングラム伯爵家を継ぐことがほぼ決定として内定しているという話をも知ってはいるが、金や伝手があって困ることはないだろう。 権威こそ落ちたとはいえ、侯爵家は格式だけはある。金銭も、唸るほどとはいえなくとも、門地や財産はそれなりにある。 それは努力次第で有効利用できるはずだった。 の名を継がなくとも、莫大な持参金を携えてがローエングラム家に嫁げば問題もない。 どうせ夫婦としてなんて形だけで、喧嘩しながら友人付き合いのままでいたらいい。 そう考えると楽しくなってきた。 とはいえ、結局それもこれも、その時期がくるまでどうやって乗り切るかが課題であって、現状の解決策とはまるで関係のないことではある。 実のところさすがにも少し諦め気味ではあったのだが、俄然やる気が出てきた。 |
口の悪さも強がりのうち。 こちらに舎弟扱いの延長の意識が残っていても、ラインハルトたちは逆に 保護対象としているようです。 |