人死にまで出た凄惨な現場で乾杯などしていた罰が当たったのか、それとも生き残ったことで運が転がり込んできたのか。 祖父が、亡くなった。 02.過去の思い出、未来の予定(1) 葬儀の間、はぼんやりと祈りの言葉を聞いていた。 考えていたのは、これからのことだ。 これでの身を侯爵家に縛り付けるものがなくなった。 が家を捨てたとしても、もうだれも犠牲になることはない。 ……本当に? 教会の七色に光を通すステンドグラスを見上げた。黒いヴェール越しでは光もくすんで見える。 が家を捨てて、そうすれば家人たちはどうなるのだろう? 親戚筋で財産の奪い合いになるのは目に見えている。 それだけならまだいい。 家を捨てたのなら、門地やその他の財産、爵位をだれが継ごうと関係ない。 だが邸で雇っている者たちはどうなる? が知る限りで頼りになる親戚など存在しない。下手にバラバラに相続されれば、多くの者は解雇され失業することになるかもしれない。 そして、ブラウンシュヴァイク公爵はどう思うだろう。 とフレーゲルの婚約はまだ表には出ていない。それはブラウンシュヴァイク公爵の顔に泥を塗らずに済むと同時に、彼には侯爵家との繋がりを失う事を意味する。 動くなら早いうちがいい。遅くなれば、ブラウンシュヴァイク公爵はの祖父の友人として、フレーゲルとの縁談を進めてしまう。 縁談が表沙汰になってからが逃げ出せば、もちろん公爵は激怒する。 取り合えず。 祈りの聖句が終わり、埋葬に向かうために教会の外へと移動する。 事態がどう転んでもいいように、金目の物は纏めておこう。 鈍色の曇り空を見上げて、の考える事はやはり貴族の淑女らしさの欠片もなかった。 「一番いいのは、相続した財産を全部処分しちゃって、雇用人たちの退職金に当てることなんだけど、それもなかなかね……」 近況の説明を終えてはほうっと溜息をついた。 喪服に身を包み憂いを帯びた節目がちな少女の様子は、男の庇護欲をそそってもいいはずだった。 「それさえできたら、残りの金を引っ掴んでケツまくってトンズラできるのに」 どうして彼女はこうなのか。 真剣に話を聞いていたラインハルトは、最後の最後で酷く脱力した。 ラインハルトの横でキルヒアイスも似たり寄ったりの状態だ。 ラインハルトは今、弔問という名目でを訪ねて来ている。 パーティー会場では慌しく家名を教えて住所を交換しただけで別れた。乾杯していたら会場の警備担当のひとりエルネスト・メックリンガーという人物がに祖父の死を伝えてきたからだ。 祖父の生前にまったく交際のなかった軍の高官の訪問に、執事は疑問を抱いたようだったが、事実を説明する気など毛頭ない。 「いっそ全て放り出せばよかろう。それこそ、金目の物だけ持って遁走してしまえ」 幼馴染みが本当に思い悩んでいるのか疑わしくなって、ラインハルトは投げやりに肩をすくめた。 「簡単に言うなっーー!」 怒ったところをみると、雇用人たちの心配をしていることだけは本当らしかった。 「それに、金目の物ったって、典礼省と財務省の査察が終わんないと、持ち逃げになるの!犯罪になるの!」 「まだ終わらんのか?奴ら、職務怠慢だな」 「あの事件でどれだけ貴族から人死にが出たと思ってんのさ。財務省はまだしも典礼省は類をみないほどフル回転だよ」 普段からなにかと忙しく立ち回る財務省とは違い、典礼省は形式だけの仕事が多い。 そこにいきなり仕事が山ほど降って湧いて、機能が半分麻痺しているという。 「つまり……」 「査察の順番待ち」 「無能者どもめ」 ラインハルトは遠慮もなしに罵倒したが、もまったく同感なので鼻先で笑う。 「典礼省ってさ、ほとんどの職務が他の省庁と被ってるわけでしょ?おまけに扱うのは貴族に関連した事柄ばっかりだから、役人全員お貴族様なわけさ」 「……どうしようもない奴らだな」 ここにはキルヒアイスとしかいないので、ラインハルトは軽蔑の色を隠そうともしない。 「ま、どっちにしろ財産処分たって、それも難しいしね……」 「当然だな。お前は十四歳で、財産の相続に先駆けて後見人がつくだろう。そいつは土地や企業の売却など許さないに決まっている」 「ハゲ公爵も手を入れてくるに違いないしね」 現在のブラウンシュヴァイク公爵は、一門に血を流させたクロプシュトック候領への討伐に勤しんでいる。 だがそれが終われば必ず侯爵家を手中に収めるために手を伸ばしてくることに疑いはない。 「あーもう!あんな変態おかっぱと結婚なんて虫唾が走る!!」 は半ば自棄になってソファの肘掛に頬杖をつく。 ハゲ…おかっぱ…とどこか悲しそうに小さく呟いて、キルヒアイスは気を取り直したようにを見た。 「とにかく、本当にこのままだとフレーゲル男爵との結婚は避けられなくなる。今ならまだ公にはなっていないのだから、公爵の怒りもさほど大きくはならないだろう。とすると残された人たちが八つ当たりを受けるという可能性は低くなる。君の邸や事業関連で働いている人たちはみんな君より年上で社会人ばかりだ。こんなことは言いたくはないけれど自己責任で生きてもらうしかない」 キルヒアイスまでもが失踪を促すようなことを言ってきて、は綺麗に結い上げていた髪にとうとう手を突っ込んでかき回した。 「あんたらねー……人の決心揺るがすような提案すんなよー」 「友人を心配している、有益な助言といえ」 偉そうに反り返りながら、ラインハルトはコーヒーを一口飲んだ。 「……もう少し、こう、きみももう妙齢の女性なんだから……」 とっくの昔に女性だとか言い聞かせることを諦めたラインハルトとは違い、キルヒアイスは溜め息をついてソファから立ち上がると、の後ろに回りこんでぐちゃぐちゃになってしまった髪を結い直そうとしてくれた。 「友人、ねえ……」 がキルヒアイスとともに過ごしたのは五年弱。ラインハルトに至っては、半年ほどしか側にいなかった。 それでも友人と呼び、こうして共に頭を悩ませてくれることが、密かに嬉しかった。 が生まれたのはオーディンの街中で、病院ですらなかった。 婚約者ではない男との子を宿したの母は、子供を堕ろされることを嫌がり家を飛び出して、病院に行けば父親に見つかるからと自宅で、介助もなしに出産した。 それが十五歳のときのこと。 一つ間違えば、も母も死んでいる、だれが見ても暴挙としか言いようのない行動だったが、出産はどうにか無事に済んだ。 話を聞いたですら無茶すぎると思ったほどだったから、近所の人のよい夫婦がこの危なっかしい親子を放っておけなかったのはあるいは必然なのかもしれない。 それが、斜向かいのキルヒアイス夫妻だった。 どこでどうやって実家に知られずにできたのかは未だににも謎なのだが、出生届も無事に出すことができて、はスクスクと育った。 近所でも評判のよかったキルヒアイス夫妻の一人息子であるジークフリードは、片親で兄弟も存在しない少女の面倒をよく見てくれた。 そんな近所のお兄さんをは素直に慕った……とは言えなかった。 優しいジークフリード・キルヒアイスは人に迷惑をかけるような行為以外は叱ることがなかったので、の意識としては実のところ舎弟か下僕かというところだったのだ。 五歳の年上の面倒をみてくれる相手に対して、これほど失礼なこともあるまい。 そんな楽しい生活が一変したのは、向かい側にラインハルトが引っ越してきたときからだった。 キルヒアイスはそれでもの面倒を見てくれてはいたが、やはり同じ歳の少年が傍にいれば、そちらと過ごす時間が増える事は当然だ。 それが悔しくて、は五つ年上の金髪の少年に、実によく喧嘩を売った。 自分よりも小さな子供からの八つ当たりに、ラインハルトも最初は軽くいなしているのだけど、当時はラインハルトも子供だったので、段々とむきになって本気の喧嘩に発展する。 キルヒアイスはにも非があるからと両方を宥めようとしたけれど、アンネローゼは全面的に小さいの味方だった。 そして、それがまたラインハルトには面白くなかったのだ。 しかもと喧嘩になると、アンネローゼはラインハルトを叱った上におやつ抜きを申し渡す。 そうなると、今度はしょげたラインハルトを憐れに思ってが自分の分のおやつを半分にわける。それがいつもの仲直りのパターンだった。 そういうわけで、最初の原因が自分であることをすっかり忘れて、ラインハルトに自分の分のおやつを施したつもりのは、ラインハルトのこともやはり舎弟か下僕のような意識を持っていた。 さすがに今思い返せば、自身でも苦笑してしまう傲慢さだ。 そしてアンネローゼの事は、母親と同じく最高権力者として今でも尊敬している。 頼もしい母が健在で、優しいお姉さんがいて、楽しい友達がいた。 それが、にとって一番幸せだった、鮮やかな日々だった。 |
環境の変化はどう影響するでしょうか? |