「――――っ」 気がつけば、床に転がっていた。 鼓膜が悲鳴を上げているように、耳が痺れて痛んだ。 閃光と、そして轟音がしたと思ったらこの有様だ。 まだよく耳が聞えないけれど、床に手を着くと手袋越しになにかぬるりとしたものを触った。 血、だ。 のものではなくて。 どこからか飛んできた、淑女の腕が横に転がっていた。 01.開幕のベル(3) は、趣味の悪いごてごてと飾りの刻まれた柱のお陰で助かった。 柱が爆風からを守り、そしてそれが崩れたことで逆に落ちてきた天井の一部と折り重なって隙間を作っていたのだ。 そこに、なんとした偶然か。ラインハルトとがいた。 「いった………」 耳が痛くて、ぐるぐると風景が回る。三半規管が一時的に麻痺しているようだ。 視界にラインハルトしかいなかったので少し期待したけれど、どうやらフレーゲルも無事だったようだ。 爆風で吹き飛ばされた向こうで腰を抜かして頭を抱えて悲鳴を上げていた。 「……ちぇ…やっぱりどんな人間相手でも不幸を願うなということか……」 ラインハルトは爆風と粉塵で顔も礼服も薄汚れていた。もちろんも似たようなものだ。しかも黒の軍服のラインハルトと違って、は白いドレスだ。 と同じく耳を押さえてしきりに首を振るラインハルトを見ながら、思わず溜息が漏れた。 「それにしても、美形は得だ」 灰や埃で薄汚れても、なぜか気品というものが無くならない。 最後に別れたときはまだくそガキだったのに、と失礼なことを考えているに、ラインハルトの視線が注がれた。 なにかぱくぱくと口を開けている。 「なに?聞えない!」 ただでさえ耳が痛いのに、辺りは悲鳴と泣き声と怒号で阿鼻叫喚の嵐。 大声を出せと言う前に、耳を引っ張られた。 「まさか、なのか!?」 「いったいわね!怒鳴んないでよ!バカハルト!」 引っ張られたことにも怒鳴りつけられたことにも頭と耳が痛んで、思い切り耳を引っ張り返して大声を上げた。 お互いに自分の耳を押さえてひとしきり呻いていると、ようやく回復しかけた聴覚に喧騒の中を縫うように青年の声が聞えた。 「どこにいらっしゃいますか!ラインハルト様っ」 どうやらラインハルトにお迎えがきたらしい。 が前にいれば見つけにくいだろうからと柱と天井の下から這い出そうとすると、ラインハルトに後ろから抱きすくめられる。 「うおいっ!」 「ここだ、キルヒアイス」 キルヒアイス? 聞き覚えのありすぎる名前に、はラインハルトの悪戯に抗議する言葉を空転させた。 「ラインハルト様!ご無事でっ」 地獄絵図の中に現れたのは、また一際背の高く、顔の整った赤毛の軍人だった。 その長身や、もうひとりの幼馴染みとのあっさりとした再会に驚いていたなど目に入っていない様子で瞳を潤ませながら、キルヒアイスはごとラインハルトを抱き締めた。 「ちょ……」 キルヒアイスはラインハルトしか目に入っておらず、のいるスペースなんて考えてもいない。間に挟まれて窒息しそうな苦しさに目を白黒させた。 「ギ、ギブ……」 「ああ、キルヒアイス。離れろ。こいつが潰れている」 忘れていた上にフレーゲルの婚約者と勘違いしたときは、汚れ物でも見るような目を向けたというのに、思い出したらこいつ呼ばわり。 覚えてろと、が心の中で呪っているとキルヒアイスが慌てて飛びのいた。 「え?あ!し、失礼致しましたフロイラ………」 だが謝罪の途中で眉根を寄せる。 それはまさしく記憶を手繰り寄せている顔だった。 幼馴染みとの再会なんだから、これが正しい姿だろう。 ラインハルトにそう言ってやろうとした。だが、キルヒアイスが驚きながらも結論を出す方が早かった。 「まさか……?」 とラインハルトは、顔を見合わせてそれから同時にキルヒアイスに視線を戻す。 「よくわかったな!」 「さすがジーク!このヘタレハルトとえらい違い!」 「ヘタレとはなんだ!」 「はあ?こっちは一目でわかったってのに、赤の他人と思うわ、おかっぱの女と勘違いして汚物でも見るような目ぇしたわの男はどちらさまでしたっけー?」 ラインハルトはぐうの音も出ないのか押し黙った。 反論を封じておいてなんだが、それも仕方がなかったということは承知している。 はラインハルトが軍人になっていることを知っていたし、更に輝かしい武勲と大将閣下に昇進していることも知っていた。この若さで他に大将がいるはずもない。 一方ラインハルトは、はただ母親が死んで引っ越したとしか知らない。 貴族として生きてきたなんて、そんな基本情報からして持っていなかったのだから、九年ぶりでわからないのは当たり前といえば当たり前。 だが。 「ジークも一目でわかったっていうのにぃ」 それがあるからの方が断然、強い。 「わ、悪かったな」 ふて腐れたラインハルトに、キルヒアイスが宥めに入る。 「まあまあ。その辺りで。あんまり綺麗に成長していたから、ラインハルト様がわからなくても仕方ないよ。僕も驚いた」 「相変わらずラインハルトのフォローして回ってんのね、ジーク」 「綺麗なものか。キルヒアイス、こいつときたら言葉遣いは昔のままだ。聞くに耐えない品の無い物言いで」 「いいでしょー。相手はあのおかっぱなんだから」 これには最初の笑いを思い出したのか、ラインハルトはまた吹き出す。 「いいネーミングセンスだな。俺もこれからはおかっぱ男爵と呼ぶことにしよう」 「おかっぱ男爵って…まさかフレーゲル男爵のことですか?、男爵になにか暴言を!?」 「おかっぱ男爵で連想するあたり、ジークだって十分暴言だと思うけど」 がそう切り返すと、ラインハルトは腹を抱えて笑う。 「まったくだ!キルヒアイスはこう見えても結構いい性格をしているからな!」 爆笑体勢に入ってしまったラインハルトを放っておいて柱の下から這い出ようとしたは、なにかに引っ張られて後ろのラインハルトの腕の中に転がった。 「痛いっ」 「どうかしたか?」 それほど勢いがなかったとはいえ、悠々との身体を抱きとめてラインハルトが訊ねると、キルヒアイスの目が足元に移っていた。 「のドレスが倒れた柱に巻き込まれています」 若干緊張を帯びた口調は、ほんの数十センチで生死が別れたということもさることながら、もし柱と天井がバランスを崩したらは逃げることも出来ずに圧死することになるからだろう。 「あー、まあ、ここまで汚れたらどうせ捨てるだろうし、いいよね」 は爆風で吹っ飛んできていたナイフを掴んで、ドレスに突き立てた。 勢いよく、そのまま切り裂いてしまう。食事用のナイフなのでかなり無理やりに力任せの切り方になったけれど、どうにか切り離す事はできた。 唖然とするラインハルトとキルヒアイスを尻目に、柱の下から今度こそ這い出た。 「ああ、すっきり」 切り裂いた部分は右足の前方で、その辺りの裾が膝上十センチくらいなってしまった。 「………やっぱりですね」 「だから言っただろう……」 なんだか失礼な評価のような気もしたけれど抗議はせずに、片方だけ踵の折れたヒールに気付いて、もう一方のヒールも床を蹴りつけて折っておく。 「いいもの発見」 ヒールを折った床に転がってきた上物のワインを拾って掲げると、ラインハルトもにやりと笑ってどうにか無事だったグラスを三つ手近で見つけた。 ワインで軽くグラスをゆすいでから零れそうなほどなみなみと注いだにラインハルトが溜息をついた。 「本当に、お前貴族の淑女か?」 「残念ながらね」 「まあまあ、ふたりとも。それで、これはおふたりの無事を祝うということで?」 「それと、こいつとの再会も祝して」 「では、プロージット!」 グラスを合わせると、淵のギリギリまで注がれていたワインが少し零れた。 |
ということで、舞台はクロプシュトック事件の当日でした。 幼馴染み三人がようやく揃いまして、ようやく本番。 |